人物

ウェルギリウス

Publius Vergilius Maro
BC70年10月15日 – BC19年9月21日(享年50)
ローマ重要度 4

概要

マントヴァの農家に生まれ、農事詩を書き、10年かけて『アエネイス』を書いた。死ぬとき焼けと遺言し、皇帝が止めた。ダンテが地獄の案内役に選ぶ。

所属

ローマ

関わったできごと(1)

ウェルギリウス『アエネイス』BC19年(作者の死。未完) · 作者

本文

BC70年10月15日、北イタリアのマントヴァに近いアンデスという村で生まれた。父は小さな土地を持つ農民で、陶工だったとも、使いの仕事から身を起こしたとも伝えられる。古代の伝記によれば、背が高く、色が黒く、田舎者の風貌で、体が弱かった。人前に出るのを嫌い、ナポリでは人々が彼に気づくと近くの家に逃げ込んだという。

ウェルギリウスの肖像
ウェルギリウスの肖像Wikimedia Commons Giorces · CC BY 2.5

父は息子の教育に金を惜しまなかった。クレモナ、ミラノで学び、ローマで弁論術を習った。だが法廷で弁じる才は無く、一度だけ弁護に立って、それきりやめたと伝わる。やがてナポリへ移り、エピクロス派の哲学者シロンのもとで学んだ。静かな庭で友人たちと哲学を語る暮らしが、彼の性に合っていた。

彼の青年期は、ローマが内戦に引き裂かれた時代と重なる。カエサルが暗殺され、BC42年、フィリッピの戦いでオクタウィアヌスとアントニウスがカエサルを殺した者たちを破った。勝った側は、数万の退役兵に土地を与えるため、イタリア各地の町の土地を取り上げた。マントヴァの周辺もその対象になり、彼の家の土地も奪われたと古代の伝記は伝える。有力者の取りなしで取り戻したとも、結局は失ったともいわれ、詳しいことは分からない。

マントヴァに立てられたウェルギリウス像
マントヴァに立てられたウェルギリウス像Wikimedia Commons virtusincertus · CC BY 2.0

この経験は、最初の詩集『牧歌』に響いている。羊飼いたちの歌のかたちをとりながら、土地を追われて去っていく者と、若い神のような人のおかげで残ることを許された者との対話が描かれた。第4歌は、ある執政官の年に生まれる子どもが、鉄の時代を終わらせ、黄金の時代を連れ戻すと歌う。誰のことを歌ったのかは、いまも分からない。

『牧歌』で名を上げた彼は、オクタウィアヌスの側近で文芸の保護者だったマエケナスの仲間に迎えられた。のちに詩人ホラティウスをマエケナスに紹介したのも彼である。マエケナスの勧めで書いたのが『農耕詩』だった。畑を耕すこと、木を育てること、家畜を飼うこと、蜜蜂を養うこと。四巻にわたって農事を歌いながら、労働の尊さと、戦争で荒れたイタリアの大地を愛する気持ちを込めた。7年かけて完成させ、BC29年、アクティウムの海戦から帰ったオクタウィアヌスの前で、4日にわたって朗読したと伝えられる。

アクティウムの海戦に関わる図版:Medinaceli Actium reliefs 06
アクティウムの海戦Wikimedia Commons Mark Landon · CC BY 4.0

そして最後の10年あまりを、『アエネイス』に捧げた(ウェルギリウス『アエネイス』)。トロイア戦争(トロイア戦争(伝承))で焼け落ちた都から、英雄アエネアスが老いた父を背負い、幼い息子の手を引いて逃れ、神々の命じるままに海をさまよい、イタリアにたどり着いて、ローマ人の祖となる物語である。全12巻のうち、前半の6巻は放浪を描いてホメロスの『オデュッセイア』に、後半の6巻はイタリアでの戦いを描いて『イリアス』に倣った(『イリアス』『オデュッセイア』の成立)。

アエネアスは、自分の望みよりも使命を優先する人物として描かれた。カルタゴの女王ディドと愛し合いながら、神の命令で彼女を捨てて船出する。ディドは絶望して自ら命を絶つ。冥界に下ったアエネアスは、そこで未来のローマの偉人たちの列を見せられ、その最後にアウグストゥスが現れる。叙事詩は、内戦を終わらせた皇帝の支配を、神々に定められた運命として讃えていた(元首政の始まり(アウグストゥスの称号))。同時に、作品には敗れた者の悲しみと、戦いの犠牲への痛みが満ちている。賛美と哀しみのどちらが本心だったのか、読み手の議論は2000年続いている。

『ルビコンを渡るカエサル』アドルフ・イヴォン画、アラス美術館蔵(1875年)
『ルビコンを渡るカエサル』アドルフ・イヴォン画、アラス美術館蔵(1875年)Wikimedia Commons Adolphe Yvon · Public domain

アウグストゥスは完成を待ちきれず、遠征先から催促の手紙を送った。のちに彼は皇帝の前で数巻を読んだ。その一つ第6巻には、若くして死んだ皇帝の甥マルケッルスを悼む一節がある。朗読がそこに来たとき、マルケッルスの母オクタウィアは気を失った、と古代の伝記は伝えている。

BC19年、作品の仕上げのため、3年の予定でギリシアと小アジアを旅することにした。アテネでアウグストゥスに出会い、一緒に帰国するよう説かれて従った。だがその途中、暑い日にメガラの町を訪れて病にかかり、船の上で悪化して、イタリア南部のブルンディシウムに着いてまもなく、9月21日に死んだ。50歳だった。

5世紀に書かれた『ウェルギリウス・ロマヌス』に収められた『牧歌』の巻頭ページ。
5世紀に書かれた『ウェルギリウス・ロマヌス』に収められた『牧歌』の巻頭ページ。Wikimedia Commons Public domain

死の床で、彼は『アエネイス』の原稿を焼いてほしいと頼んだ。未完成の詩行が残っていたからだと伝えられる。アウグストゥスはこれを許さず、友人の詩人ヴァリウスとトゥッカに、何も書き加えず、手を入れすぎずに整えて出版するよう命じた。いまの『アエネイス』には、途中で切れたままの半端な詩行がいくつも残っている。遺骨はナポリに葬られた。墓には、マントヴァが私を生み、カラブリアが私を奪い、いまナポリが私を抱く、私は牧場と畑と将軍たちを歌った、と刻まれたという。

『アエネイス』はすぐにローマの学校の教科書になり、ラテン語を学ぶ者は必ず読むものとなった。帝国が滅んだ後も読まれ続けた。中世の人々は、『牧歌』第4歌の子どもを、キリストの誕生の予言と読んだ。キリスト教以前の異教徒でありながら救い主を予言した詩人として、彼は預言者や魔術師のように語られ、彼の詩集を開いて出た一行で運勢を占う習わしまで生まれた。

『農耕詩』にある詩句を絵画により表現したもの。17世紀後半、イェジー・シェミギノフスキ=エレウテル作。「そのとき、さまざまな技術が生まれた。悪しき労苦と、つらい生活の中で差し迫る欠乏が、すべてを征服したのである。(小川正廣訳)」『農耕詩』1.145-146
『農耕詩』にある詩句を絵画により表現したもの。17世紀後半、イェジー・シェミギノフスキ=エレウテル作。「そのとき、さまざまな技術が生まれた。悪しき労苦と、つらい生活の中で差し迫る欠乏が、すべてを征服したのである。(小川正廣訳)」『農耕詩』1.145-146Wikimedia Commons Jerzy Siemiginowski-Eleuter · Public domain

ダンテ・アリギエーリは、『神曲』(『神曲』)で、地獄と煉獄を巡る自分の案内役に彼を選んだ。洗礼を受けていないために天国には入れない、だが最も尊敬すべき師として。西洋の詩人たちは、その後もずっと彼を手本にし、彼を越えようとしてきた。

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