できごと

フリーダ・カーロの自画像

Frida Kahlo's self-portraits
AD1939年
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1939年の版図を描いています(17勢力)。

概要

事故の後遺症で寝たきりの間に、天蓋の鏡で自分を描きはじめた。作品の三分の一が自画像になる。シュルレアリスムと呼ばれることを拒んだ。

場所

コヨアカン
19.35°N -99.16°E · メキシコ・メキシコシティ

関わった人(1)

フリーダ・カーロAD1907年7月6日–AD1954年7月13日 · 制作

本文

フリーダ・カーロは1907年、メキシコ市の南のコヨアカンで、ドイツ生まれの写真家の父とメキシコ人の母の間に生まれた。6歳でポリオにかかり、右脚が細く短く残った。のちに本人は生年を1910年と名乗った。メキシコ革命が始まった年で、自分は革命とともに生まれたのだ、と言いたかったらしい。

1925年9月、18歳のとき、乗っていたバスが路面電車とぶつかった。手すりの鉄の棒が腰から体を貫き、背骨は三か所で折れ、骨盤と右脚も砕けた。医者を志していた少女は、全身をギプスで固められて何か月も寝たきりになる。退屈しのぎに絵を描きたいと言うと、母は寝台に合わせた画架を作らせ、天蓋の裏に鏡を取りつけた。寝たまま見える唯一のモデルは、鏡の中の自分だった。

フリーダ・カーロとディエゴ・リベラ(1932年)
フリーダ・カーロとディエゴ・リベラ(1932年)Wikimedia Commons Carl Van Vechten · Public domain

この事故の痛みは生涯続いた。背骨や脚の手術は、数え方によっては30回を超えたとも言われる。コルセットで胴を締めつけた暮らしが長く、晩年には右脚の膝から下を切断している。知られている絵はおよそ140点で、そのうち50点あまりが自画像である。「私はしばしば独りで、自分がいちばんよく知っている主題だから自分を描く」という言葉が知られている。

1929年、22歳で、20歳あまり年上の壁画家ディエゴ・リベラと結婚した。リベラは革命後のメキシコを代表する画家で、すでに国際的な名声があった。カーロは彼のために、メキシコ南部のテワナの女性の長いスカートと髪飾りを身につけ、先住民の文化を誇る姿を自分の像に重ねていく。結婚生活は互いの浮気で何度も壊れかけ、リベラが彼女の妹と関係を持ったことは深い傷になった。

幼年期を過ごし、終の棲家となった「青い家」。現在はフリーダ・カーロ記念館として一般公開されている。
幼年期を過ごし、終の棲家となった「青い家」。現在はフリーダ・カーロ記念館として一般公開されている。Wikimedia Commons Thelmadatter · Public domain

1930年から3年あまり、カーロはリベラの壁画の仕事について、サンフランシスコ、デトロイト、ニューヨークで暮らした。デトロイトでは流産して入院し、その体験を、病院の寝台で血を流す自分と、赤い管でつながれた胎児や骨盤の絵として描いた。アメリカの工業都市を彼女は好きになれず、国境をはさんで二つの世界に立つ自画像も残している。帰国後の1937年からは、ソ連を追われた革命家トロツキーとその妻が、コヨアカンの彼女の生家「青い家」に2年ほど身を寄せた。カーロとトロツキーは一時親密な仲になったとされる。

この項目の年にあたる1939年は、彼女の転機の年だった。前年にニューヨークで初めての個展を開き、この年にはパリに招かれた。シュルレアリスムを率いていた詩人アンドレ・ブルトンが彼女の絵を「爆弾に巻いたリボン」と評し、自分たちの仲間として紹介したのである。パリの展覧会では、ルーヴル美術館が小品「ザ・フレーム」を買い上げた。20世紀のメキシコの画家として初めてのことだった。しかし本人はパリの芸術家たちになじめず、帰国した年の末にリベラと離婚する。二人の自分が心臓を血管でつなぎ合って並ぶ大作「二人のフリーダ」は、この年に描かれた。翌1940年、二人はサンフランシスコで再婚している。

フリーダ・カーロの肖像、父ギリェルモ・カーロ撮影
フリーダ・カーロの肖像、父ギリェルモ・カーロ撮影Wikimedia Commons Guillermo Kahlo · Public domain

シュルレアリストと呼ばれることを、カーロは最後まで拒んだ。「私は夢を描いたことはない。自分の現実を描いた」と語っている。彼女の絵の形の源は、パリの前衛ではなくメキシコの民衆の絵だった。教会に奉納される小さな板絵(エクスボト)は、事故や病から救われた場面を、聖人の姿と短い説明文とともに素朴に描く。カーロはその形式を借りて、流産の床や手術台の上の自分を描いた。血や傷をそのまま描く絵は、当時の多くの人を戸惑わせた。

1954年7月、カーロは47歳で、生家の「青い家」で死んだ。最後の日記には「この旅立ちが喜ばしいものであるよう。そして二度と戻らないことを願う」と書かれていた。死の年に描いた静物には、切り分けたすいかに「生命万歳」と書き込んでいる。

11歳のフリーダ・カーロ(1919年6月15日)
11歳のフリーダ・カーロ(1919年6月15日)Wikimedia Commons Guillermo Kahlo (October 26, 1871 - April 14, 1941) – Photographer Born in Baden, Germany. Died in Mexico City, Mexico. · Public domain

生前の彼女は、長く「リベラの妻」として見られていた。評価が大きく変わるのは1970年代以降で、女性の経験を正面から描いた画家として、またメキシコの土着の文化を掲げた画家として読み直され、伝記や映画が相次いだ。いまでは彼女の自画像は、メキシコという国を象徴する絵の一つになっている。青い家は美術館として公開されている。

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