『富嶽三十六景』

概要
70歳を過ぎてからの仕事。安価な藍(ベロ藍)が入ってきたことが、あの青を可能にした。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
関わった人(1)
葛飾北斎AD1760年–AD1849年5月10日 · 当人本文
『富嶽三十六景』は、葛飾北斎が70歳を過ぎてから手がけた錦絵の揃い物である。版元は江戸の西村屋与八(永寿堂)で、1830年代の初めに売り出された。葛飾北斎はそれまで、役者絵や美人画、読本の挿絵、絵手本の『北斎漫画』などで名を上げていたが、風景だけを主題にした大きな揃い物は、これが初めてだった。題は三十六景だが、評判がよかったため10図が追加され、全部で46図ある。追加の10図は、輪郭線を墨で摺っていることから「裏富士」とも呼ばれる。
この頃の北斎は、決して順調ではなかった。1828年に妻を亡くし、その前後に自身も中風(脳卒中による麻痺とみられる)を患ったと伝えられる。孫の不始末の後始末にも追われ、暮らしは楽ではなかった。生涯に30回ほど画号を変え、引っ越しは90回を超えたという話も残る。揃い物の絵には「前北斎為一筆」と署名されている。すでに北斎の名を弟子に譲り、為一と名乗っていたことを示す。

錦絵は分業で作られる。版元が企画して資金を出し、絵師が下絵を描き、彫師がその絵を板に貼って彫り、摺師が色ごとに版木を替えて重ね摺りする。北斎の下絵は彫る過程で失われるため、残っているのは摺られた絵だけである。一つの揃い物を出すには、版元の商売の読みと、職人たちの腕がそろう必要があった。
この揃い物を特徴づけるのが、青である。それまでの浮世絵の青は、露草の花から取る青と、植物の藍だった。露草の青は鮮やかだが光ですぐに褪せ、藍は板の上で扱いにくく、濃淡を出しにくかった。そこへ入ってきたのが、ベロ藍と呼ばれた合成顔料である。18世紀の初めにベルリンで偶然に作られたもので、プルシアンブルーとも呼ばれる(プルシアンブルー)。オランダ船や清の船で長崎に運ばれた。初めは高価だったが、1820年代に清で作られるようになって値が下がり、江戸の版元でも大量に使えるようになった。

1829年ごろから、ベロ藍を使って青一色で摺る「藍摺」の絵が流行した。『富嶽三十六景』の最初の何図かも、藍の濃淡だけで摺られている。売り出しの広告にも「藍摺」とうたわれた。褪せにくく、濃い紺から淡い空色まで出せる青が、水と空と遠い山の表現を変えた。
46図の視点はさまざまである。荒波の谷間から遠くに小さな富士を見る「神奈川沖浪裏」(神奈川沖浪裏)、夏の朝の光で赤く染まった富士を大きく描いた「凱風快晴」、山頂は晴れているのに麓で稲妻が走る「山下白雨」。江戸の町の屋根の上、桶屋の作る大きな桶の輪の向こう、田植えをする農民の背後に、富士が置かれている。富士は主役でありながら、人々の暮らしの背景でもある。江戸では、富士山に登って拝む富士講が盛んで、富士の絵を求める人は多かった。

この揃い物の成功を受けて、風景画は浮世絵の大きな柱になる。数年後には歌川広重が『東海道五十三次』を出し、旅と名所の絵が人気を集めた。北斎は90歳まで生き、絵を描き続けた。死の床で、天があと5年の命をくれたら本物の絵描きになれたのに、という意味の言葉を残したと伝えられる。
開国後、浮世絵はヨーロッパへ大量に渡った。陶磁器の包み紙に使われていたのを画家が見つけた、という話も伝わる。パリの画家たちは、遠近法に縛られない大胆な構図、平らな色面、日常の何気ない場面の切り取り方に驚いた。日本の美術への熱は「ジャポニスム」と呼ばれ、第一回印象派展に集まった画家たちや、フィンセント・ファン・ゴッホに影響を与えた。ドビュッシーは交響詩『海』の楽譜の表紙に、「神奈川沖浪裏」をもとにした図を使っている。

ヨーロッパで偶然生まれた顔料が、清で安く作られ、長崎を通って江戸の版画になった。その版画がヨーロッパへ渡り、画家たちの目を変えた。『富嶽三十六景』は、江戸の町人文化(物語「元禄から化政へ — 江戸の町人文化」)の頂点の一つであると同時に、19世紀の交易が世界をつないでいたことを示す作品でもある。