『枕草子』

概要
好き嫌いをはっきり書いた随筆。千年前の人が何を「をかし」と思ったかが、そのまま読める。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
清少納言AD966年頃–AD1025年頃 · 著者本文
10世紀の終わり、平安京の宮廷では、仮名で書かれた和歌や物語が盛んに作られていた(物語「国風文化 — かなと宮廷の女たち」)。紀貫之が女性に仮託して『土佐日記』を書いてから(紀貫之『土佐日記』とかな文字)半世紀あまり、仮名は女性たちが日記や物語を書く道具になっていた。天皇の后には教養ある女房たちが仕え、その才気が后の評判を左右した。
清少納言は、歌人として知られた清原元輔の娘である。本名は分からず、清少納言は宮仕えでの呼び名にすぎない。993年ごろ、20代の後半で、一条天皇の中宮の定子に仕えた。定子は関白藤原道隆の娘で、明るく才知にあふれた人だった。初めて出仕した頃、清少納言は恥ずかしさのあまり昼は御前に出られず、夜だけ参上していたと自分で書いている。

やがて清少納言は、定子のもとでその機知を存分に発揮するようになる。よく知られる場面がある。雪の深く積もった日、定子が「少納言よ、香炉峰の雪はどうでしょう」と尋ねた。清少納言は黙って御簾を高く巻き上げてみせた。唐の詩人白居易の「香炉峰の雪は簾をかかげて見る」という一句を踏まえた答えで、周りの女房たちは感心したという。漢詩の教養を軽やかに使いこなす女主人と女房のやり取りが、この書物の宮廷の空気を作っている。
ところが、この明るい宮廷は長く続かなかった。995年、定子の父の道隆が亡くなり、叔父の藤原道長が政治の実権を握った。翌996年、定子の兄の伊周と弟の隆家は、花山法皇に矢を射かけた事件などを理由に都から追われ、定子は自ら髪を下ろした。清少納言は道長の側に通じているという噂を立てられ、しばらく宮仕えを離れて里にこもっている。一条天皇の定子への思いは変わらず、定子は再び宮中に迎えられたが、1000年の暮れ、出産の直後に24歳で亡くなった。
『枕草子』が書かれたのは、ちょうどこの時期にあたる。書物の終わりの文によれば、定子の兄の伊周が定子に上等の紙を献上したとき、定子がこれに何を書こうかと尋ね、清少納言が「枕でございましょう」と答えたので、その紙を賜った。それに思いつくままを書きつけたのが始まりだという。「枕」が何を意味するのかは、身近に置く備忘の書という意味とする説、歌枕にかけたとする説など、いくつもの解釈があって定まっていない。
書物は300ほどの章段からなり、大きく三つの種類に分けられる。「春はあけぼの」のように四季や自然を描く随想の章段。「心ときめきするもの」「にくきもの」「うつくしきもの」のように、題を立ててそれに当てはまるものを次々と挙げていく章段。そして、定子の宮廷での出来事を記した日記風の章段である。
挙げられるものは、驚くほど身近である。「にくきもの」には、急ぎの用があるときに来て長話をする客、寝ようとしたときに顔のあたりを飛ぶ蚊のかすかな羽音、こっそり通ってくる男を見つけて吠える犬が並ぶ。「うつくしきもの」には、雀の子がちょんちょんと跳ねてくる姿や、幼い子が小さな塵を見つけて指でつまみ、大人に見せる様子が書かれる。千年前の人が何に苛立ち、何をかわいいと思ったかが、そのまま伝わってくる。この書物の美意識は「をかし」という言葉でまとめられることが多い。物事を一歩引いたところから眺め、明るく面白がる感覚である。
不思議なのは、書かれた宮廷が終始明るいことである。定子の一家が没落し、定子自身が若くして亡くなった悲劇は、ほとんど直接には書かれていない。描かれるのは、華やかな行事や、女主人の機知や、楽しい笑いの場面ばかりである。そのため、清少納言は定子の最も輝いていた姿だけを残そうとして、あえて暗い現実を書かなかったのだ、という読み方が有力になっている。
清少納言が宮仕えを退いたあとの暮らしは、よく分かっていない。晩年は落ちぶれたという話が鎌倉時代の説話集に見えるが、これは後の作り話と考えられている。同じ頃、道長の娘で一条天皇の中宮となった彰子に仕えた紫式部は、日記の中で清少納言を、得意顔で漢字を書き散らしているが、よく見れば足りないところが多い、と厳しく批評した。二人が宮中で顔を合わせた記録はなく、紫式部の言葉は、対抗する宮廷の評判を意識したものと見られている。
『枕草子』は『源氏物語』と並ぶ平安時代の仮名文学の代表とされ、日本の随筆の始まりとも言われる。写本によって章段の並びや本文に違いがあり、どの系統が元の姿に近いかについても研究が続いている。