ブルネレスキのドーム

概要
フィレンツェ大聖堂の穴は100年開いたままだった。幅45メートル、足場もアーチも無理。金細工師が二重の殻と、レンガの魚骨の積み方と、牛が回す起重機で16年で閉じた。設計図を誰にも見せなかった。ミケランジェロは「もっと大きくは作れるが、もっと美しくは作れない」。
場所
43.77°N 11.26°E · イタリア・トスカーナ州
関わった人(1)
ブルネレスキAD1377年–AD1446年4月15日 · 建てた本文
フィレンツェの大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレは、1296年、建築家アルノルフォ・ディ・カンビオの設計で建てはじめられた。毛織物と銀行業で富んだこの町は、ピサやシエナに負けない聖堂を望んでいた。工事は何代もの棟梁に引き継がれ、1367年には、内陣の上に八角形の巨大な丸屋根を載せるという案が決まった。煉瓦の模型が作られ、以後の棟梁はこの模型どおりに建てると誓わされた。
問題は、それをどうやって作るか、誰にも分からなかったことである。丸屋根の差し渡しは外側でおよそ45メートル、内側でも42メートルほどあり、しかも地上50メートルを超える高さの壁の上から立ち上がる。当時のやり方では、まず木で弓形の仮枠を組み、その上に石や煉瓦を積んで、固まってから仮枠を外す。だがこの大きさの仮枠を支えられる木材は無く、仮に組めたとしてもトスカーナの森が丸ごと要ると言われた。ゴシックの聖堂のように外側に控え壁を張り出すことも、模型が許さなかった。壁は建ち上がり、八角形の穴だけが何十年も空に向かって開いていた。

1418年、大聖堂の工事を預かる毛織物組合は、丸屋根の案と、資材を引き上げる機械の案を公募した。賞金は200フローリン。名乗り出た者のなかに、金細工師のフィリッポ・ブルネレスキがいた。彼は1401年、洗礼堂の青銅扉の競作でロレンツォ・ギベルティに敗れ、その後ローマへ行って古代の建物を測って回ったと伝えられる。彼は、仮枠を使わずに丸屋根を積み上げられると主張し、方法の詳細は明かさなかった。ヴァザーリの『芸術家列伝』によれば、ブルネレスキは審査員に、卵を大理石の上に立てられた者が作ればよいと持ちかけ、誰もできないのを見て、卵の尻を軽くつぶして立てた。それなら誰でもできると言われると、私の案を見せればやはり誰でもできると言うだろう、と答えたという。百年あまり後に書かれた逸話で、どこまで本当かは分からない。
1420年、ブルネレスキはギベルティと並んで工事の監督に任じられた。二人の関係はぎくしゃくし、やがて工事を実際に動かしたのはブルネレスキ一人になった。同じ年の夏に積みはじめた丸屋根は、16年かけて閉じられた。

工夫の第一は、殻を二重にしたことである。内側の殻は厚く頑丈で、構造を担う。外側の殻は薄く、雨風から内側を守り、外から見たときの形を高く見せる。二つの殻のあいだには通路と階段があり、職人たちはそこを通って上り下りした。八角形の角には太い主な肋骨が8本立ち上がり、各面にはさらに2本ずつの細い肋骨が隠れていて、殻どうしを結んでいる。丸屋根が外へ広がろうとする力は、砂岩の梁を鉄でつないだ輪を何段か埋め込んで締めつけた。
第二の工夫が、煉瓦の積み方だった。水平に積む煉瓦の列のところどころに、縦に立てた煉瓦を螺旋を描くように差し込んでいく。床に敷く寄木の模様に似ていることから、魚の骨やヘリンボーンの積み方と呼ばれる。縦の煉瓦が、まだモルタルの固まらない水平の煉瓦が内側へ滑り落ちるのを止める。積んだ輪がそのつど自分で立つので、仮枠が要らなかった。この方法をブルネレスキがどこから思いついたのかは、はっきりしていない。

第三は機械である。丸屋根には煉瓦と石が数万トン使われたとされる。それを引き上げるために、ブルネレスキは牛が回す巻き上げ機を考えた。牛を歩かせる向きを変えずに、歯車の切り替えだけで荷を上げたり下ろしたりできる仕掛けだった。上では回転する腕を持つ起重機が、引き上げた石を据える場所まで運んだ。若いころのレオナルド・ダ・ヴィンチはこれらの機械を写生している。高いところで働く職人が昼に下りてくると時間がかかるので、上に食堂を設け、ぶどう酒は水で割らせたと伝えられる。ブルネレスキは1421年、重い大理石をアルノ川で運ぶための船について、フィレンツェの政府から発明の独占権を得た。これは記録に残る最も古い特許の一つとされる。ただしこの船は数年後、積荷とともに川に沈んだ。
1436年3月25日、受胎告知の祝日で、当時のフィレンツェでは元日にあたるこの日、教皇エウゲニウス4世が大聖堂を献堂した。丸屋根の頂が閉じられたのは同じ年の夏である。同じ年、人文主義者レオン・バッティスタ・アルベルティは『絵画論』のイタリア語版をブルネレスキに献じ、この丸屋根を、トスカーナのすべての人々を覆う影を落とすほどの建物だとたたえた。頂に載せる明かり塔のランタンもブルネレスキが設計したが、1446年に工事が始まってまもなく、彼は68歳ほどで亡くなった。ランタンは彼の死後に完成している。

ブルネレスキは大聖堂の中に葬られた。職人の身分の者としては異例のことで、その墓は1972年の発掘で地下から見つかった。彼は丸屋根のほかに、捨て子養育院の回廊や、サン・ロレンツォ聖堂、サント・スピリト聖堂を設計した。円柱とアーチを古代ローマにならって整然と並べる建て方は、ルネサンス建築の出発点とされる。彼はまた、鏡と板絵を使って線遠近法の発見の原理を示した人物としても知られ、画家マザッチョはその方法をいち早く壁画に使った。設計図や手記はほとんど残っておらず、職人には模型や口頭で指示を出したらしい。秘密主義だったとも、図面を残す習慣がまだ無かったともいわれる。
丸屋根は、古代ローマのハドリアヌスのパンテオンをわずかに上回る大きさで、パンテオンがコンクリートで造られているのに対し、こちらは煉瓦と石で積まれている。煉瓦と石で積んだ丸屋根としては、いまも世界で最も大きい。百年あまり後、ローマでサン・ピエトロ大聖堂の建て替えの丸屋根を設計したミケランジェロは、フィレンツェの丸屋根について、もっと大きくは作れても、もっと美しくは作れないと語ったと伝えられる。いまでは463段の階段を上って、二つの殻のあいだを抜け、ランタンの足もとまで行くことができる。途中で、職人たちが積んだ魚の骨の煉瓦を間近に見られる。