ステンカ・ラージンの乱

概要
ドン・コサックの首領が、カスピ海の略奪から戻って、ヴォルガを遡った。「農奴を解放する。貴族と役人を殺す」。ツァリーツィン、アストラハン、サラトフ、サマラ。20万人が加わったと言われる。シンビルスクで負け、翌年、モスクワの赤の広場で四つ裂きにされた。囚われのペルシアの姫を舟から川へ投げた、という歌が19世紀に作られ、いまも歌われる。
場所
55.80°N 49.11°E · ロシア・タタールスタン共和国
関わった人(1)
ステンカ・ラージンAD1630年頃–AD1671年6月16日 · 率いた本文
ドン川の下流には、17世紀、ドン・コサックと呼ばれる人々の軍事の共同体があった。逃げてきた農奴、身寄りのない流れ者、脱走した兵、遊牧の民などが集まり、自分たちで首領を選び、円陣を組んだ集会で物事を決めた。「ドンからは引き渡さない」という掟があり、逃げてきた者を追手に渡さなかった。モスクワの政府は、彼らに金や穀物や火薬を送り、南の国境をクリミアやオスマンから守らせていた。
1649年、モスクワの政府は新しい法典を定め、逃げた農奴を連れ戻せる期限をなくした。農奴は一生、主人の土地に縛られることになった。逃げる者は増え、ドンには、財産も漁場も持たない貧しい新参者があふれた。古くからいる裕福なコサックと、新参の貧しい者との間には溝が広がっていた。

ステンカ・ラージンは、その古参の豊かな家の出だった。1667年、彼は貧しい新参者を中心に千人ほどを率いてヴォルガ川へ出ると、政府や商人の船を襲い、さらにカスピ海へ出た。ヤイク川(いまのウラル川)の町を奪って冬を越し、翌年からはペルシアの沿岸の町々を1年半にわたって荒らし回り、ペルシアの艦隊も打ち破った。1669年、戦利品を積んでドンへ帰ったとき、ラージンは貧しい人々の英雄になっていた。
この遠征から生まれた話がある。ラージンはペルシアの身分の高い娘を捕らえて連れていたが、仲間から首領は女に骨抜きにされたと言われたのを聞いて、娘を舟からヴォルガ川へ投げ込んだ、というものである。この話はオランダ人の旅行者ストライスの旅行記(1676年)に見え、1883年にロシアの詩人サドフニコフが詩にして、民謡「ステンカ・ラージン」となった。日本でも訳詞で広く歌われた。

1670年の春、ラージンは再びヴォルガへ出た。今度は略奪ではなく、反乱だった。貴族と役人を討ち、民に自由を与える、と彼は呼びかけた。ただし、敵は皇帝ではなく、皇帝を欺く悪い家臣たちだとした。ラージンは、皇太子アレクセイと、皇帝と対立して退けられた総主教ニコンが自分たちとともにいると言いふらした。皇太子はその年のはじめに死んでいた。
ヴォルガ沿いの町々は次々に門を開いた。ツァリーツィン、アストラハン、サラトフ、サマラ。アストラハンでは、総督が鐘楼から投げ落とされた。反乱軍は役人と貴族を殺し、町ごとにコサック式の集会による自治を敷いた。ヴォルガ流域の農民に加え、チュヴァシ、マリ、モルドヴィン、タタールなど、ロシア人でない民も多く加わった。加わった者は20万人に及んだと言われる。

1670年10月、反乱軍はヴォルガ中流のシンビルスク(いまのウリヤノフスク)を囲んだが、外国人の将校に訓練された政府の新式の連隊に敗れた。ラージンは傷を負ってドンへ逃げ帰った。だがドンの古参のコサックたちは、モスクワの報復を恐れて彼を見限り、1671年4月、ラージンを捕らえて政府に引き渡した。
1671年6月、ラージンはモスクワの赤の広場に引き出され、罪状を読み上げられた後、手足を切り落とされ、最後に首を落とされた。ともに捕らえられた弟フロールは、兄の処刑を見て、皇帝に申し上げることがあると叫び、その場での処刑を免れたが、数年後に処刑された。アストラハンに残った反乱軍が降ったのは、1671年の11月だった。政府の報復は苛烈で、多くの人々が処刑された。

ラージンの乱は、ロシアの民衆反乱の型を示している。コサックが率い、農民と周縁の民が加わり、「良い皇帝」の名のもとに貴族と役人と戦い、そして鎮圧される。1707年のブラーヴィンの乱、1773年のプガチョフの乱も、同じ形をたどった。プガチョフの乱を描いた小説の中で、プーシキンは、ロシアの反乱を見ることのないよう神に祈る、それは無意味で容赦がない、と登場人物に語らせている。農奴の身分が終わるのは、ラージンの死から190年後の農奴解放令を待たなければならなかった。