概要
平安時代のはじめ、公の文書や男の学問は漢文で書かれ、漢字を崩した「かな」は、和歌や手紙に使う私の文字で、とくに女性の文字とされた。934年、土佐の国司の任期を終えて都へ帰る紀貫之は、その55日の船旅を日記に書いた。冒頭で彼は、男も書くという日記というものを、女の私も書いてみようと思う、と記し、女性のふりをしてかなで書いた。漢文では書けない、旅の不安や、土佐で亡くした娘への悲しみが、日々の言葉でつづられた。かなで書く散文の道を開いたこの日記ののち、『蜻蛉日記』や『源氏物語』など、女性たちのかなの文学が花開いた。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
紀貫之AD872年頃–AD945年頃 · 書いた本文
日本に漢字が伝わったあと、人々は長いあいだ、漢字の音や訓を借りて日本語を書き表した。『万葉集』の歌は、漢字を一字一音に当てる、いわゆる万葉仮名で書かれている(『万葉集』の成立)。9世紀ごろ、万葉仮名を崩して書くうちに、ひらがなが生まれ、漢字の一部を取って、漢文を読むための補助に使うカタカナが生まれた。
だが、ひらがなは、正式の文字とはみなされなかった。朝廷の公の文書、男の官人の日記、学問や仏教の書物は、すべて漢文で書かれた。ひらがなは、和歌を書き、恋の手紙をやりとりし、私的な文章を書くための文字で、「女手」と呼ばれた。905年、紀貫之らが編んだ『古今和歌集』には、かなで書かれた序文がつけられ、かなの文章が初めて公の書物に載った(『古今和歌集』)。
紀貫之は、930年から土佐の国司として赴任し、934年の暮れに任期を終えて、船で都へ向かった。土佐の国府を出て、室戸の岬を回り、海賊を恐れ、風待ちに何日も足止めされながら、翌年2月に京へ帰り着くまでの55日の旅だった。貫之は、この旅の日々を、かなで日記につづった。
日記は、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と書き出される。男の人も書くという日記というものを、女の私も書いてみようと思う、という意味である。貫之は、同行した女性が書いたという形をとり、男の官人が書くべき漢文の日記ではなく、かなで書いた。かなで書くことで、漢文の日記では書けない、日々の細やかな心の動きを書くことができた。日記には、船旅の退屈や不安、人々の滑稽なふるまい、和歌のやりとりとともに、土佐で幼くして亡くした娘を思う悲しみが、繰り返しにじんでいる。
『土佐日記』は、かなで書かれた最初の日記の文学とされる。そののち、藤原道綱母の『蜻蛉日記』、清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』(『源氏物語』)、和泉式部や菅原孝標女の日記と、宮廷に仕える女性たちのかなの文学が、10世紀の末から11世紀にかけて花開いた。漢文が公の言葉であり続ける一方で、かなは、日本語そのものを書き表す文字として、日本の文学の土台になっていった。