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Event / できごと

エルヴィスとサン・スタジオ

Elvis at Sun Studio
AD1954年7月5日
重要度 4

概要

メンフィスの小さな録音室。19歳のトラック運転手が、休憩中にふざけて黒人ブルースの「ザッツ・オール・ライト」を速く歌い出した。技師サム・フィリップスが「もう一度やれ」と言った。彼は前から「黒人の歌を歌える白人がいれば大金になる」と言っていた。ラジオ局は、これを黒人の歌手だと思って掛けた。人種で分けられていた音楽の棚が、この録音から崩れ始めた。

場所

メンフィス
35.15°N -90.05°E · アメリカ・テネシー州

関わった人(1)

エルヴィス・プレスリーAD1935年1月8日–AD1977年8月16日 · 歌った

本文

メンフィス、ユニオン・アヴェニュー706番地。間口の狭い、元は板金屋だった建物。**サン・レコード**。

社主**サム・フィリップス**。アラバマの綿花地帯の生まれ。子どもの頃、農園で働く黒人たちの歌を聞いて育った。1950年、メンフィスに録音スタジオを開いた。看板に「私たちは、いつでも、どこでも、なんでも録音します」。

彼が録ったのは、地元の黒人音楽家だった。ハウリン・ウルフ、B・B・キング、ジュニア・パーカー、ラファス・トーマス、アイク・ターナー。1951年の「ロケット88」(ジャッキー・ブレンストン名義。歪んだギターのアンプ——移動中に落として壊れ、紙を詰めて使った——が鳴る)は、「最初のロックンロール」と呼ばれることがある。

フィリップスは、しばしばこう言っていた、とされる。「黒人の響きと黒人の感じを持った白人を見つけられたら、私は10億ドル稼げる」。

(この言葉は、後に人種搾取の証拠としても、市場の現実の描写としても引かれる。彼自身は、晩年、「あれは金の話ではなく、当時の南部で黒人の音楽が白人のラジオで掛からなかった、その壁の話だ」と説明した。)

**エルヴィス・プレスリー**。1953年夏、18歳。高校を出たばかり。トラックの運転手。

サン系列の録音サービス(4ドルで両面のアセテート盤を作る)に来て、母の誕生日のために2曲を吹き込んだ、と本人は言った(母の誕生日は1月なので、別の理由だったらしい)。受付のマリオン・ケイスカーが「どんな歌手に似ているの」と尋ねた。彼は答えた。「誰にも似ていません」。

彼女はメモを残した。「良いバラード歌手。保存」。

1954年7月5日の夜。フィリップスはギターのスコッティ・ムーアとベースのビル・ブラックを呼び、エルヴィスと合わせさせた。バラードを何曲も試した。うまくいかない。

深夜、休憩に入った。エルヴィスがふざけて、アーサー・「ビッグ・ボーイ」・クルーダップの1946年のブルース「**ザッツ・オール・ライト**」を、速く、跳ねるように歌い出した。ビルがベースを叩き、スコッティが加わった。

調整室からフィリップスが顔を出した。「何をやってる」。「分かりません」。「もう一度、最初からやれ。テープを回す」。

裏面には、ビル・モンローのブルーグラスの曲「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」を、ワルツから4拍子に変えて録った。

黒人のブルースを、白人の少年が。白人のカントリーを、黒人のリズムで。

**放送**。7月8日、ラジオ局WHBQのディスクジョッキー、デューイ・フィリップス(社主とは血縁なし)が掛けた。電話が鳴りやまなかった。彼はその晩、この1曲を十数回掛けた。

聴取者の多くが、歌っているのは黒人だと思った。デューイは、エルヴィスを局に呼んで、生放送で「どこの高校を出た」と尋ねた。ヒューム高校——白人の学校。それで、聴衆に分かった。

**その後**。サンから5枚のシングル。1955年11月、RCAが契約を3万5000ドルで買った(当時としては巨額)。1956年「ハートブレイク・ホテル」。同じ年、テレビ。腰の動きが問題視され、エド・サリヴァン・ショーの3回目の出演では上半身しか映されなかった。

フィリップスは、その3万5000ドルで、メンフィスのホリデイ・インという小さなホテル会社に投資した。そして、ジョニー・キャッシュ、カール・パーキンス、ロイ・オービソン、ジェリー・リー・ルイスを録った。

**論争**。エルヴィスは黒人の音楽を盗んだのか。

事実として、彼は黒人の作曲家と歌手の曲を歌い、彼らより桁違いに売れ、桁違いに稼いだ。クルーダップは印税をほとんど受け取れないまま、1974年に死んだ。

同時に、事実として、彼は自分の源を隠さなかった。「私は誰も真似ていない。黒人たちは、私が生まれる前から、私が今やっていることをやっていた」(1956年、シャーロット・オブザーヴァー紙)。

パブリック・エネミーは1989年の「ファイト・ザ・パワー」で彼を名指しで否定した。ボブ・ディランは「エルヴィスを初めて聞いたとき、刑務所から出たような気がした」と言った。

音楽の棚が、人種で分かれていた。「レイス・レコード(後にリズム・アンド・ブルース)」と「ヒルビリー(後にカントリー)」と「ポピュラー」。1954年の夜の録音は、その仕切りが崩れる音だった。

崩れ方は、公平ではなかった。

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