できごと

エルヴィスとサン・スタジオ

That's All Right
AD1954年7月5日
重要度 4
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国デンマークメキシココロンビアベネズエラニカラグアホンジュラスキューバグアテマラAD1954年7月5日メンフィス
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1954年7月5日の版図を描いています(12勢力)。

概要

メンフィスの小さな録音室。19歳のトラック運転手が、休憩中にふざけて黒人ブルースの「ザッツ・オール・ライト」を速く歌い出した。技師サム・フィリップスが「もう一度やれ」と言った。彼は前から「黒人の歌を歌える白人がいれば大金になる」と言っていた。ラジオ局は、これを黒人の歌手だと思って掛けた。人種で分けられていた音楽の棚が、この録音から崩れ始めた。

場所

メンフィス
35.15°N -90.05°E · アメリカ・テネシー州

関わった人(1)

エルヴィス・プレスリーAD1935年1月8日–AD1977年8月16日 · 歌った

本文

アメリカ南部、ミシシッピ川のほとりの町メンフィス。そのユニオン通り706番地に、間口の狭い小さな録音室があった。持ち主はサム・フィリップス。アラバマの綿花地帯に生まれ、子どものころ、畑で働く黒人たちの歌を聞いて育った男である。ラジオ局の技師として働いたのち、1950年、彼はこの録音室を開いた。看板には、いつでも、どこでも、何でも録音します、とうたった。結婚式でも葬式でも、頼まれれば何でも録って食いつないだ。

だがフィリップスが本当に録りたかったのは、地元の黒人の音楽家たちだった。ブルースの歌い手やギター弾きを録音室に招き、その音を盤に刻んで、各地のレコード会社に売り込んだ。のちに名を成すブルースの巨人たちの初期の録音の中には、ここで録られたものがいくつもある。1951年にここで録られた「ロケット88」は、運ぶ途中で落として壊れたギターのアンプに紙を詰めて鳴らした、ひずんだ音で知られ、のちに「最初のロックンロール」と呼ばれることもある。1952年、彼は自分のレコード会社「サン・レコード」を立ち上げた。

エルヴィス・プレスリー(宣材写真、1955年)
エルヴィス・プレスリーWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

当時のアメリカ南部は、人種で分けられた社会だった。学校も、バスの座席も、水飲み場も、黒人と白人で分けられていた。同じ1954年の5月には、連邦最高裁が公立学校の人種分離を憲法違反と判断していたが(ブラウン判決)、南部の日常はすぐには変わらなかった。音楽も同じだった。レコード店の棚もラジオの番組も、黒人向けの「リズム・アンド・ブルース」と、白人向けの「カントリー」と、都会の「ポピュラー」に分かれていた。白人の若者の多くは、黒人の音楽を、ラジオの局を回してこっそり聴いていた。

フィリップスは、録音室の受付をしていたマリオン・ケイスカーに、よくこう言っていたという。黒人の響きと黒人の感じを持って歌える白人を見つけられたら、10億ドル稼げる。この言葉は、のちに、黒人の音楽を白人が奪って儲けることの証拠として引かれることもあれば、当時の音楽の市場の現実をありのままに言い当てたものとして引かれることもある。フィリップス自身は晩年、あれは金の話というより、黒人の音楽が白人のラジオで流れないという壁の話だったのだ、と語っている。

1953年の夏、高校を出たばかりの十八歳の青年が、この録音室を訪ねてきた。エルヴィス・プレスリーである。ミシシッピの貧しい家に生まれ、十三歳のときに一家でメンフィスに移ってきた。黒人の教会の歌も、ラジオのカントリーも、聞けるものは何でも聞いて育っていた。彼は、録音室が四ドルほどで請け負っていた自費の録音を頼み、二曲を歌って盤にした。母への贈り物にするためだと本人は言ったが、母の誕生日はとうに過ぎていた。本当は、誰かに歌を聞いてもらいたかったのだろうと言われている。

順番を待つあいだに、ケイスカーが、あなたはどんな歌手に似ているのかと尋ねた。青年は、誰にも似ていません、と答えた。彼女は、良いバラードの歌い手、と書いた控えを残しておいた。

一年後の1954年7月5日の夜、フィリップスは、ギターのスコッティ・ムーアとベースのビル・ブラックという二人の地元の演奏家を呼び、エルヴィスと一緒に録音をさせてみた。ゆったりとしたバラードを何曲も試したが、どれもぱっとしない。夜が更け、皆が休憩しているとき、エルヴィスがふざけて、黒人のブルース歌手アーサー・クルーダップが1946年に録音した「ザッツ・オール・ライト」を、速く、跳ねるような調子で歌い出した。ビルが弦をはじいてベースを叩き、スコッティがギターを合わせた。

調整室からフィリップスが顔を出し、何をやっているのかと聞いた。三人とも分からなかった。フィリップスは、それをもう一度、最初からやれ、と言ってテープを回した。数日後、裏面には、白人のブルーグラスの名曲「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」を、ゆったりした三拍子から速い四拍子に変えて録音した。黒人のブルースを白人の若者が歌い、白人のカントリーを黒人の音楽の弾むリズムで演奏する。表と裏で、人種の棚が入れ替わっていた。

フィリップスは録音を、メンフィスのラジオ局で人気の番組を持つディスクジョッキー、デューイ・フィリップス(サムとは血のつながりはない)のもとへ持ち込んだ。7月の夜、番組でこの曲が流れると、局の電話が鳴りやまなくなった。デューイは同じ曲を何度も繰り返し掛け、その夜のうちにエルヴィスを局に呼び出して、生放送で話をさせた。彼はさりげなく、どこの高校を出たのかと尋ねた。エルヴィスが答えた学校は、白人の生徒が通う学校だった。歌声を聞いて黒人の歌手だと思っていた多くの聴き手に、それで彼が白人だと分かった。

エルヴィスは、サン・レコードから五枚のシングルを出し、南部の巡業で若者たちを熱狂させた。1955年の11月、大手のレコード会社RCAが、三万五千ドルでサンから契約を買い取った。当時としては破格の額だった。翌1956年、「ハートブレイク・ホテル」が全国で大ヒットし、エルヴィスはテレビを通じて全米の若者のあこがれになった。腰を激しく揺らす歌い方は、親や教会から下品だと非難され、人気のテレビ番組に三度目に出たときには、上半身だけが映された。

フィリップスは、エルヴィスを売った金でサンを立て直し、ジョニー・キャッシュやカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソンといった若い白人の歌い手たちを次々に録音して世に送り出した。

エルヴィスは黒人の音楽を盗んだのか。この問いは、いまも繰り返し問われている。事実として、彼は黒人の作った曲を歌い、それを最初に歌った黒人の歌手たちよりも桁違いに売れ、桁違いに稼いだ。「ザッツ・オール・ライト」を書いたクルーダップは、十分な印税を受け取れないまま、1974年に亡くなった。黒人の音楽家たちが同じ音楽を何年も前から演奏していても、白人のラジオで掛かり、白人の若者の偶像になったのは、白人のエルヴィスだった。1989年、ヒップホップのグループ、パブリック・エネミーは、歌の中で彼を名指しで退けている。

同時に、エルヴィス自身は、自分の音楽の源を隠さなかった。1956年、彼は新聞の取材に、黒人たちは自分が生まれるずっと前から、いま自分がやっているような歌い方をしていた、と語っている。そして、人種で分けられていた棚の仕切りを越えて、白人の若者たちを黒人の音楽へと導いたのも、また彼だった。

1954年の夏の夜の録音は、人種で分けられていた音楽の棚が崩れていく音だった。翌年の暮れには、アラバマ州モンゴメリーで、黒人の人々がバスの人種分離に抗議してバスに乗るのをやめる運動を始める(モンゴメリー・バス・ボイコット)。音楽の壁と社会の壁は、同じころ、別々の場所で揺らぎ始めていた。ただ、その崩れ方は、公平ではなかった。

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