雲岡石窟の造営
概要
廃仏のあと仏教を戻した北魏が、都の西の崖に石窟を掘った。最初の五窟の大仏は、五人の皇帝の顔で作られたと伝わる。ガンダーラの顔をした仏が、鮮卑の都に並んだ。
場所
40.11°N 113.13°E · 中国・山西省大同
本文
4世紀の末、北方の遊牧民である鮮卑の拓跋部が華北に王朝を開いた。北魏である(北魏の建国)。都は平城、いまの山西省大同に置かれた。北魏の皇帝たちは早くから仏教を保護した。道武帝の時代、僧を統べる役についた法果という僧は、皇帝はいまの世の如来であり、僧は皇帝を拝むべきだと説き、自ら皇帝に礼拝したと伝えられる。仏を敬うことと皇帝を敬うことが、ここで一つに結びつけられた。
ところが、北魏の太武帝は、道教を重んじる側近にすすめられ、446年に激しい廃仏を行った(太武帝の廃仏)。寺は壊され、経典は焼かれ、僧は殺されるか、俗人に戻された。452年に太武帝が死に、孫の文成帝が即位すると、仏教はすぐに許された。廃仏をくぐり抜けた僧たちが、再び表に出てくる。

その中心にいたのが、曇曜という僧である。僧を統べる沙門統の地位につくと、460年、彼は文成帝に願い出て、都の西およそ16キロの武州山の崖に、五つの石窟を掘りはじめた。それぞれの窟に一体ずつ大仏を彫り、高いものは70尺に及んだと、北魏の歴史書『魏書』は記している。いまの第16窟から第20窟がそれにあたり、「曇曜五窟」と呼ばれる。
五体の大仏は、北魏を開いた道武帝から文成帝までの五人の皇帝を表しているとする説がよく知られる。その少し前、文成帝の姿に似せて石の仏像を作らせ、顔と足に、天子と同じ位置に黒い石をはめこんだという記事が『魏書』にある。皇帝は如来であるという考えを形にし、廃仏のあとの仏教を、国家を支える宗教として建て直す。石窟の造営には、そうした意図があったと考えられている。
大仏の高さは13メートルから17メートル近くに及ぶ。第20窟の大仏は、前の壁と天井が早くに崩れ落ち、いまは崖の外に露座している。雲岡の顔として最もよく知られる像である。肩幅が広く、胸を張り、目は切れ長で、鼻筋が高い。衣はからだに沿って薄く、片方の肩をあらわにしている。北インドのガンダーラやマトゥラーの仏像の流れをくみ(ガンダーラの仏像)、中央アジアの亀茲(クチャ)や敦煌(敦煌の石窟の造営)を経て伝わった様式である。北魏は、華北を統一する過程で西方の涼州の人びとを都へ移しており、その中には仏像を作る工人や僧も多くいた。

曇曜五窟のあとも、皇族や貴族、高官たちが窟を寄進し、40年あまりにわたって造営が続いた。第二期の窟には、前後二室に分かれた大きな窟や、二つで一組になった窟が現れる。壁一面に小さな仏が並び、天井には飛天が舞い、楽器を奏でる天人や、釈迦の生涯の物語が彫られた。色鮮やかに塗られた窟もあり、その名残はいまも見ることができる。
5世紀の後半、北魏の孝文帝は、鮮卑の服や言葉を改め、漢人の制度と文化を取り入れる政策を進めた。その影響は石窟にも及び、仏像は、ゆったりとした中国風の衣をまとい、ほっそりとした姿に変わっていく。494年、孝文帝は都を洛陽へ移した(孝文帝の洛陽遷都と漢化)。工人たちの多くも洛陽へ移り、龍門で新しい石窟を掘りはじめる。雲岡では、その後も都に残った人びとによる中小の窟が、520年代ごろまで掘られ続けた。

石窟は東西およそ1キロにわたって崖に並ぶ。主な窟は45、小さなものを含めると250あまりになり、刻まれた像は5万1000体を超える。2001年、ユネスコの世界遺産に登録された。
20世紀、大同は中国有数の炭鉱の町になった。石炭を運ぶトラックが石窟の前の道を走り、舞い上がる粉塵と煤煙で、仏たちの顔は黒ずんでいった。風化も進んでいる。21世紀に入り、道路を移し、周りの環境を整える工事が進められた。遊牧の民が建てた王朝が、西方から来た仏の顔を借りて皇帝の姿を刻んだ石窟は、いまも崖の上で守られ続けている。