人物

オマル・ハイヤーム

Omar Khayyam
AD1048年5月18日 – AD1131年12月4日(享年83)
セルジューク朝重要度 5

概要

ニシャープール。「天幕作り」。三次方程式を円錐曲線で解いた。ユークリッドの平行線公準を疑った。ジャラーリー暦。『ルバイヤート』。「飲め、明日はない」。1859年、フィッツジェラルドの英訳で、ヴィクトリア朝の詩人になった。ペルシアでは数学者、イギリスでは詩人。

所属

セルジューク朝

関わったできごと(1)

ジャラーリー暦AD1079年 · 作った

本文

オマル・ハイヤームは1048年5月18日、イラン北東部ホラーサーンの都市ニシャープールに生まれた。正式な名はギヤースッディーン・アブル・ファトフ・ウマル・イブン・イブラーヒームという。「ハイヤーム」は天幕作りを意味し、父か祖先の職業から来た名と考えられている。若いころの暮らしについては、ほとんど分かっていない。後世には、宰相ニザームルムルク、のちのニザール派の指導者ハサン・サッバーフと同じ師のもとで学び、三人で出世した者が他の二人を助けると誓い合った、という物語が広まったが、三人の生年は大きく離れており、作り話と見られている。

ウマル・ハイヤームの墓にて(ジェイ・ハンブリッジ画)
ウマル・ハイヤームの墓にて(ジェイ・ハンブリッジ画)Wikimedia Commons Jay Hambidge · Public domain

ハイヤームの名を最初に高めたのは数学だった。1070年ごろ、中央アジアのサマルカンドで有力者の庇護を受けて書いた『代数学の問題の証明について』で、彼は三次方程式を形ごとに分類し、それぞれを円や放物線、双曲線といった円錐曲線の交わりとして幾何学的に解いてみせた。当時はまだ負の数を扱わなかったため、答えは正の解に限られていたが、三次方程式を体系的に扱った最初の仕事として名高い。彼は、三次方程式を数の計算だけで解く方法はまだ見つかっていない、後の人が見つけるかもしれない、と書いている。その解法がイタリアで発見されるのは、およそ450年後のことである。別の著作では、整数の累乗根を求める方法を見つけたと記しており、いまパスカルの三角形と呼ばれる二項係数の並びを知っていたと考えられている。

1077年には、エウクレイデスの『原論』の難点を論じた注釈を書いた。とくに問題にしたのが平行線の公準である。他の公理から導けないかと考えたハイヤームは、底辺の両端に等しい垂線を立てた四角形を作り、その上の二つの角が直角であることを示そうとした。この四角形は、のちに18世紀のイタリアの数学者の名をとって「サッケーリの四角形」と呼ばれるものと同じである。彼は証明に成功しなかったが、その試みは、平行線の公準を疑うことから生まれる非ユークリッド幾何学の、はるか前の入り口に立っていた。

Hakim Omar Khayam - panoramio
Wikimedia Commons Alireza Javaheri · CC BY 3.0

1074年ごろ、セルジューク朝のスルタンマリク・シャーがハイヤームをイスファハーンに招き、天文台を任せた。ハイヤームらは天体の観測を重ね、新しい暦を作った。1079年に始まったジャラーリー暦は、春分を年の始まりとし、閏年の入れ方を工夫して、一年の長さをきわめて正確に合わせた。その精度は、500年後にヨーロッパで作られたグレゴリオ暦に並ぶか、それ以上とも言われる。今のイランの暦も、この暦を土台にしている。

だが庇護者の時代は長く続かなかった。1092年、ニザームルムルクが暗殺され、まもなくマリク・シャーも死んだ。天文台への援助は途絶え、ハイヤームは宮廷で冷遇されたとされる。その後メッカに巡礼したと伝えられ、これは不信仰者だという評判を打ち消すためだった、という話が13世紀の伝記に見える。晩年は故郷のニシャープールで暮らした。同時代の思想家ガザーリーと会ったという話も伝わるが、確かではない。

イラン・ニーシャープールにあるオマル・ハイヤームの墓
イラン・ニーシャープールにあるオマル・ハイヤームの墓Wikimedia Commons Ninara from Helsinki, Finland · CC BY 2.0

ハイヤームの名を世界に広めたのは、数学ではなく詩だった。『ルバイヤート』は、四行で一つの詩を成す「ルバーイー」の集まりである。酒と薔薇、移ろう時、死の確かさ、神の理不尽が歌われる。土をこねる壺作りの前で、壺が、私もかつては人だった、と語る。今日の一日を楽しめ、明日のことは誰にも分からない。だが、彼の名で伝わる千を超える四行詩のうち、本当にハイヤームが作ったものがどれかは分からない。確かな形で残る最古の写本の多くは彼の死後200年以上たってからのもので、別人の詩が彼の名のもとに集まっていった。研究者の推定も、数十首から二百首あまりまで幅がある。生前の彼は、詩人としてはほとんど知られていなかった。

1859年、イギリスのエドワード・フィッツジェラルドが、これを英語に訳して出版した。原詩を自由に組み替え、つなぎ合わせた訳で、翻訳というより翻案に近い。はじめはまったく売れず、古本屋の店先で投げ売りされていたが、それをロセッティらラファエル前派の詩人が見つけて評判が広がった。木陰の詩集一巻、一壺の酒、一片のパン、そして荒野で歌う君、という一節は、英語圏で最もよく知られた詩句の一つになった。キリスト教の道徳に縛られたヴィクトリア朝の読者は、懐疑と享楽を歌う東方の詩に熱狂した。イランでは長く数学者・天文学者として記憶されていたハイヤームは、こうして詩人としてヨーロッパから逆に輸入されることになった。

三次方程式と円錐曲線の交点を論じた写本の第1ページ(テヘラン大学所蔵)
三次方程式と円錐曲線の交点を論じた写本の第1ページ(テヘラン大学所蔵)Wikimedia Commons Xashaiar ( talk ) · Public domain

1131年12月4日、ハイヤームはニシャープールで死んだ。83歳。若い詩人ニザーミー・アルーズィーは、1112年ごろ、中央アジアのバルフで、ハイヤームが、自分の墓は北風が花を撒く場所になるだろう、と語るのを聞いた。その死後何年かして墓を訪れると、墓は庭の塀のそばにあり、塀の向こうの梨と杏の木が花を散らして、墓を覆い隠していた、と彼は書いている。いまニシャープールには、1960年代に建てられた幾何学的な霊廟があり、多くの人が訪れる。

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