イタリア・ルネサンスの盛期

概要
古典の再発見と商人の富が結びついた。人間を測るのは神ではなく人間自身、という見方が育つ。
場所
43.77°N 11.26°E · イタリア・トスカーナ州
関わった人(2)
ロレンツォ・デ・メディチAD1449年1月1日–AD1492年4月8日 · 支援レオナルド・ダ・ヴィンチAD1452年4月15日–AD1519年5月2日 · 担い手本文
15世紀の半ばから16世紀の初めにかけて、イタリアの都市、とりわけフィレンツェとローマで、絵画、彫刻、建築、学問が一斉に花開いた。レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロが同じ時代に生き、同じ町で仕事をしていた。古代ギリシア・ローマの古典の再発見と、商人たちの富が結びついた時代である。
「ルネサンス」は、フランス語で「再生」を意味する。16世紀半ば、画家で伝記作家のヴァザーリが、芸術家たちの伝記の中で、長く衰えていた芸術がジョットに始まって「再生」した、と書いた。古代の輝きと自分たちの時代のあいだにある千年を、暗い「中間の時代」とみなす見方である。それを一つの時代の名前にし、「人間の発見」の時代として描き出したのは、19世紀の歴史家たちで、とくにスイスのブルクハルトの本が大きな影響を与えた(物語「『イタリア・ルネサンスの文化』で読むルネサンス」)。

始まりは、14世紀にさかのぼる。詩人ペトラルカは、修道院の書庫に眠っていたキケロの書簡などのラテン語の写本を探し出し、古代ローマの人々の言葉と考え方に直接触れようとした。15世紀の初めには、写本の探索がイタリアの学者たちの熱中する仕事になり、各地の修道院から、忘れられていた古典が次々に見つかった。人間の生き方や言葉や歴史を、古典を手本に学ぼうとするこの運動は、「人文主義」と呼ばれる。
ギリシア語の古典は、東からもたらされた。1397年、ビザンツの学者がフィレンツェに招かれてギリシア語を教え始める。1439年には、東西の教会の合同を話し合う公会議がフィレンツェで開かれ、ビザンツの皇帝とともにやってきた学者たちが、プラトンの哲学を熱く語った。1453年にコンスタンティノープル陥落が起きると、さらに多くの学者と写本が西へ逃れた。やがてプラトンの著作は、フィレンツェで初めてまとめてラテン語に訳される。

支えたのは、毛織物と銀行業の富である。フィレンツェは、羊毛を仕入れて上質の毛織物に仕上げる産業と、ヨーロッパ中に支店を持つ銀行で栄えていた。その代表がメディチ家だった。教皇庁の財務を握ったメディチ銀行の富で、コジモ・デ・メディチは公職に就かないまま町の実権を握り、学者を養い、建築家と画家に仕事を与えた。孫のロレンツォ・デ・メディチ、「豪華王」ロレンツォは、自ら詩を書き、若いミケランジェロを自宅に住まわせて彫刻を学ばせたと伝えられる。
富の背景に、もっと大きな出来事を見る説もある。14世紀半ばの黒死病で、ヨーロッパの人口は大きく減った。生き残った人々の手には、一人当たりでは以前より多くの富が残ったとも考えられる。死を身近に見た世代が、教会や礼拝堂に絵や彫刻を寄進して魂の救いを願ったことも、芸術の注文を増やしたとされる。ただ、こうした結びつきを直接に示すのは難しい。
同じ頃、絵画の見え方を変える発明があった。遠近法である。15世紀の初め、フィレンツェの建築家ブルネレスキは、大聖堂の前の洗礼堂を描いた板に小さな穴をあけ、裏からのぞいて鏡に映すという実験で、遠くのものが一点に向かって小さくなる描き方を示したと伝えられる。1435年頃、学者アルベルティがその規則を本にまとめた。三次元の世界を平面に写す方法が、規則として定まった。画家マザッチョが教会の壁に描いた礼拝堂の絵は、壁に穴が開いて奥に部屋が続いているように見え、人々を驚かせた。ブルネレスキ自身は、足場を組まずに大聖堂の巨大なドームを架けてみせた(ブルネレスキのドーム)。

人体の解剖も行われた。正しく描くためには、皮膚の下に何があるかを知らなければならない。レオナルド・ダ・ヴィンチは、自ら30体を超える遺体を解剖したと書き残し、筋肉や骨、胎内の子どもの姿を克明に描いた。そのスケッチは生前には公にされず、長く埋もれていた。16世紀半ば、医学者ヴェサリウスが精密な解剖図の本を出し、解剖学そのものを作り変える。
「人間を測るのは神ではなく人間自身」という言い方がされる。1486年、若い哲学者ピコ・デッラ・ミランドラは、人間だけは決まった場所を与えられておらず、自分の意志で獣にも天使にもなれる、と書いた。人間の可能性を讃えるこうした言葉が、この時代の気分をよく伝えている。

ただし、宗教から離れたのではない。ほとんどの作品は、教会と修道院、信心深い商人たちの注文で作られた。主題の大半は聖母や聖人の姿で、ギリシアの神々を描いた絵はむしろ少数だった。古典の知恵とキリスト教の信仰は、対立するものではなく、調和させるべきものと考えられていた。1490年代、フィレンツェでは修道士サヴォナローラが贅沢と堕落を激しく非難し、人々は絵や書物を広場に積んで燃やした。画家ボッティチェリも、その影響を強く受けたと言われる。
1494年、フランス王がイタリアに攻め込んだ。イタリア戦争の始まりである。メディチ家はフィレンツェを追われ、イタリアは以後、フランスとスペインと神聖ローマ皇帝が覇を争う戦場になる。芸術の中心はローマへ移った。教皇ユリウス2世は、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を描かせ、ラファエロに教皇宮の部屋を飾らせた。混乱の中で、フィレンツェの役人だったニッコロ・マキャヴェッリは、政治を道徳から切り離して論じる『君主論』を書いた。

1527年、皇帝カール5世の軍がローマに攻め入り、給料の払われない兵たちが町を略奪した。芸術家や学者は散り、ここを盛期ルネサンスの終わりと見ることが多い。だが、その考え方と技法は、すでにグーテンベルクの活版印刷で始まった印刷の力に乗って、アルプスの北へ、さらにヨーロッパ全体へ広がっていた。古代を手本に、人間とその見る世界を、自分の目で確かめて描こうとする態度は、科学革命へとつながっていく。