共和政の終わり

概要
500年続いた仕組みが、なぜ一人の男に明け渡されたのか。
この物語について
共和政は、外から倒されたのではない。勝ち続けた結果として壊れた。強くなることが、なぜ制度を壊すのか。
紀元前2世紀半ば、ローマはカルタゴを滅ぼし、ギリシアとマケドニアを従え、地中海の覇者になっていた。だがその勝利の果実は均等には配られなかった。属州から流れ込む富と奴隷を手にした元老院の有力者たちは、イタリアの公有地を囲い込んで大農場を作った。長い遠征で畑を離れた中小の農民は土地を失い、都市ローマに流れ込む。共和政の軍は、自分の土地を持つ市民が武器を自弁して戦う軍だった。土地を持つ市民が減ることは、軍の土台が痩せることでもあった。

前133年、護民官ティベリウス・グラックスは、一人が持てる公有地に上限を設け、余った土地を貧しい市民に分ける法を通した。元老院の多数は反発し、ティベリウスが再選を目指すと、議員たちが棍棒を手に押しかけ、彼と支持者三百人ほどを殴り殺した。ローマの政治の争いで、市民の血が流された最初の大きな事件とされる。十年後、弟のガイウスが兄より広い改革に乗り出したが、前121年、元老院は非常事態を宣言し、ガイウスは追い詰められて死んだ。その後の処刑で三千人が殺されたとプルタルコスは伝えている。改革は、議論ではなく暴力で潰せる。その前例が、ここで作られた。
北アフリカのヌミディアでは、王位を奪ったユグルタがローマの元老院議員を次々に買収して戦争を長引かせた。ローマを去るとき「買い手さえ見つかれば、すぐにでも売られる街だ」と言い放ったと、歴史家サルスティウスは書いている。北からはキンブリ族とテウトニ族が南下し、前105年のアラウシオでローマ軍は壊滅的な敗北を喫した。

この危機の中で、新興の家から出た将軍マリウスが執政官に選ばれ、前104年から五年続けてその職に就く。マリウスは、財産の基準に満たない無産市民も志願兵として受け入れた。マリウスの軍制改革と呼ばれるこの変化は、ローマに職業軍人の軍を与え、北の部族を撃退させた。だが除隊した兵の暮らしを保証する仕組みは国になかった。兵は退役後の土地を、自分を率いた将軍が元老院から勝ち取ってくれることに期待するようになる。軍が国家ではなく個人に忠実になった時点で、結末は決まっていたのかもしれない。
次に限界に達したのは、イタリアの同盟市だった。ローマの戦争に兵を出し続けながら市民権を与えられなかった彼らは、前91年に武器を取る。同盟市戦争は多くの死者を出し、ローマは結局ポー川以南のイタリア人ほぼ全員に市民権を認めた。勝つために譲る、という古い流儀がまだ働いた最後の例とも言える。

前88年、小アジアのポントス王ミトリダテス6世が、属州アジアに住むローマ人とイタリア人を一斉に殺させた。犠牲は8万人とも伝えられる。この戦争の指揮権を元老院からスッラが得ると、民会はマリウスに付け替えた。スッラは自分の軍団を率いてローマへ進軍した。将軍が市民の軍で首都を制する。越えてはならない線が、この年に越えられた。東から戻ったスッラは、前82年に独裁官となり、政敵の名を掲げた追放告示で数千人を殺し、財産を没収した。元老院の権限を強める改革をしたうえで、前79年に自ら職を退いている。だがスッラが示したのは、軍を持つ者が国を作り直せるという事実のほうだった。
スッラの後に頭角を現したのは、その部下だったポンペイウスと、富豪のクラッススである。イベリアではスッラに追われたセルトリウスが現地の人々と別のローマを作って抵抗し、イタリアでは剣闘士スパルタクスの反乱が起きた。これを片づけた二人は前70年に執政官となる。ポンペイウスはさらに地中海の海賊を一掃し、ミトリダテスを倒し、前63年にはエルサレムに入ってユダヤをローマの影響下に置いた。同じ年、ローマでは執政官キケロが、カティリナの国家転覆の陰謀を暴き、元老院で「いつまで、カティリナよ、我々の忍耐を試すのか」と演説した。
凱旋したポンペイウスは、兵に約束した土地の分配を元老院に拒まれた。ここで手を組んだのが、ポンペイウス、クラッスス、そして借金を抱えながら人気を集めていたカエサルの三人である。前60年の第一回三頭政治は、法の上の制度ではなく、三人の私的な約束だった。前59年に執政官になったカエサルは、元老院を無視して民会で法を通し、翌年からガリアの総督として征服戦争に乗り出す。前56年には三人がルカで会し、互いの任期と地位を私邸で決めた。国の行方が、元老院でも民会でもない場所で決まるようになっていた。

三人の均衡は、二つの死で崩れた。ポンペイウスに嫁いでいたカエサルの娘ユリアが前54年に産褥で亡くなり、前53年にはクラッススがパルティアのカルラエで大敗して殺された。ローマ市内では、クロディウスとミロの私兵団が街頭で争い、前52年にクロディウスが殺されると、支持者たちは遺体を元老院議事堂に運び込んで火を放ち、議事堂ごと焼いた。秩序を回復するため、元老院はポンペイウスを同僚のいない単独の執政官に任じ、ポンペイウスは元老院の側に付いた。
ガリアを八年かけて征服したカエサルには、彼個人に忠実な歴戦の軍団があった。元老院は彼に軍を手放してローマへ戻るよう命じた。武装を解いて戻れば、訴追されて政治生命を断たれる。前49年1月、カエサルは属州とイタリアの境のルビコン川を、軍を率いたまま渡った。「賽は投げられた」という言葉はこのとき口にしたとされる。ポンペイウスと元老院の多くはイタリアを捨てて東へ逃れた。

内戦は地中海全体に広がった。前48年、ギリシアのファルサルスでカエサルはポンペイウスを破り、エジプトへ逃れたポンペイウスはその地で殺された。前46年、北アフリカのタプススで共和派の軍が敗れると、その中心にいた小カトーはウティカで自ら命を絶った。カエサルの赦しを受けることを拒んだのだった。前45年、イベリアのムンダで最後の抵抗が潰えた。カエサルはこの戦いのあと、これまでは勝利のために戦ったが、今日は命のために戦った、と語ったと伝えられる。
勝者となったカエサルは、敵に寛容だった。降った者を許し、暦を改め、植民市を作り、元老院の定員を増やした。だが前44年の初め、彼は終身の独裁官となる。王の称号こそ拒んだものの、任期で権力を縛るという共和政の根本が、ここで公然と捨てられた。3月15日、元老院の会合で、ブルートゥスとカッシウスら六十人ほどの議員がカエサルを取り囲み、二十三の傷を負わせて殺した。

暗殺者たちは、独裁者を除けば共和政が戻ると考えていた。だが、カエサルの兵も民衆も、彼らの側には付かなかった。カエサルの部下だったアントニウス、遺言でカエサルの養子とされた十九歳のオクタウィアヌス、そしてレピドゥスの三人が手を組み、前43年に第二回三頭政治を法によって定めた。続く追放告示で、多くの元老院議員と騎士が殺され、アントニウスを激しく攻撃してきたキケロも殺された。その首と手はローマの演壇に晒された。前42年、ギリシアのフィリッピでブルートゥスとカッシウスが敗れて自害し、共和政を武力で守ろうとする者はいなくなった。
残ったのは、勝者どうしの争いである。オクタウィアヌスの右腕アグリッパが前36年のナウロコスの海戦でポンペイウスの遺児セクストゥスを破り、レピドゥスは力を奪われて退いた。東を治めるアントニウスはエジプトの女王クレオパトラと結び、西のオクタウィアヌスと決裂する。前31年、ギリシア西岸のアクティウム沖の海戦でアントニウスとクレオパトラは敗れ、翌年、二人はエジプトで自ら死を選んだ。

百年続いた内乱を終わらせたオクタウィアヌスは、カエサルの失敗から学んでいた。前27年1月、彼は非常時の権限を元老院と市民に返すと宣言し、元老院は彼にアウグストゥスの名を贈った。この取り決めの後も、執政官も元老院も民会も残り、彼は自らを「市民の第一人者」と呼んだ。けれども軍団と主要な属州は彼の手にあった。形は共和政、中身は一人の支配。こうして始まった元首政は、四十年あまりの治世を通じて定着し、彼が14年に死んだとき、共和政を実際に覚えている者はほとんど残っていなかった。
共和政の終わりは、悪人が制度を壊した話としてより、制度が新しい現実に合わなくなった話として読むほうが分かりやすい。都市国家の大きさに合わせて作られた一年任期の役職と元老院では、地中海全体の軍と属州を回しきれなかった。そして、その隙間を埋めたのは、兵の暮らしを握った将軍たちだった。軍が誰に忠実であるか、勝利の富が誰に配られるか。二千年前のローマが突きつけたこの問いは、いまも民主政を語るときに繰り返し参照されている。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(49)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ポントス王国国BC281年(ミトリダテス1世の自立) – BC63年(ミトリダテス6世の死)黒海の南岸に、ペルシア系の王家が建てた国。ギリシア風の都市と、内陸の山の民を抱えた。ミトリダテス6世が25年ローマと戦い、その死で属州になる。
- ティベリウス・グラックス人物BC163年頃 – BC133年農地改革を進めた護民官。任期中に元老院派に撲殺され、共和政の内乱の世紀が始まる。
- マリウス人物BC157年 – BC86年無産市民を兵に取り、軍を将軍個人に忠実な集団へ変えた。内乱の世紀の入口。
- ガイウス・グラックス人物BC154年 – BC121年兄の死から10年兄ティベリウスより9歳下。兄の死を見て、10年待って護民官になった。演説で最初に演壇の向きを元老院から民衆へ変えた。奴隷に自分を殺させ、首は金と同じ重さで買われた。母コルネリアは「息子の墓は、二人の死んだ場所」と言った。
- スッラ人物BC138年 – BC78年ローマに軍を入れて独裁官となり、政敵を名簿にして処断した。
- ミトリダテス6世人物BC135年 – BC63年毒殺を恐れて少量の毒を飲みつづけ、22の言語を話し、ローマと三度戦った。最後は息子に裏切られ、毒が効かず、部下に殺させた。
- ティベリウス・グラックスの農地改革と暗殺できごとBC133年改革が暗殺で潰れる大土地所有を制限する農地法を通したが、任期中に元老院派に撲殺された。ローマ内政に暴力が持ち込まれた画期。ローマ
- セルトリウス人物BC123年頃 – BC72年白い鹿サビニ人。片目をキンブリとの戦いで失った。マリウス派として追われ、スペインで先住民に迎えられ、白い鹿を女神の使いとして飼い、ローマ式の学校を作った。8年勝ち続け、部下ペルペルナに宴で刺された。プルタルコスはハンニバルと比べた。
- ガイウス・グラックスの改革と死できごとBC121年3000人が殺された兄の死から10年、弟が護民官になった。穀物の廉売、属州の徴税権の騎士への売却、植民市、イタリア人への市民権。二期目に落ち、元老院が非常事態を宣言し、3000人が殺された。首は金と同じ重さで買い取られ、鉛が詰められていた。ローマ
- ルクルス人物BC118年 – BC57年頃ルクルスの宴スッラの部下で、ミトリダテスを7年追い、アルメニアまで行って、兵に反乱されて呼び戻された。ポンペイウスが功を取った。引退して、庭園と魚の池と宴で暮らした。サクランボを持ち帰った。「ルクルスの宴」は贅沢の代名詞。
- クラッスス人物BC115年頃 – BC53年ローマ随一の富豪。三頭政治の一角を占めたが、カルラエでパルティアに敗れて死んだ。
- ユグルタ戦争できごとBC112年ヌミディアの王が元老院議員を買収して戦争を長引かせた。「売り物の街だ」と言ったと伝わる。マリウスがこの戦争で名を上げる。キルタ
- マリウスの軍制改革できごとBC107年無産市民を兵に取った。兵は土地を将軍に頼るようになり、軍が個人に忠実になる。ローマ

- ポンペイウス人物BC106年9月29日 – BC48年9月28日カエサルの盟友から敵手へ。ファルサルスで敗れ、逃れたエジプトで殺害された。
- キケロ人物BC106年1月3日 – BC43年12月7日弁論家・政治家。共和政の擁護に回り、アントニウスの手で殺された。
- アラウシオの戦いできごとBC105年10月6日兵は国ではなく将軍に従うようになった北から来たキンブリ人とテウトニ人に、ローマの二つの軍が全滅した。カンナエ以来の敗北で、マリウスの軍制改革を引き出す。アラウシオ(オランジュ)
- ガイウス・ユリウス・カエサル人物BC100年7月12日(13日説あり) – BC44年3月15日ガリアを征服し、ルビコンを渡って内戦に勝ち、終身独裁官となった。暦を作り直した。
- 小カトー人物BC95年 – BC46年4月裸足のストア派大カトーの曾孫。ストア派で、裸足で歩き、賄賂を受けず、カエサルを最初から敵にした。タプススのあとウティカで『パイドン』を読み、腹を裂いた。カエサルは「彼の死を妬む」と言った。共和政の最後の良心と、みな言った。
- クロディウス人物BC93年頃 – BC52年1月18日女装して祭りにクラウディウス家の貴族が、護民官になるために平民の養子になった。女装して女神の祭りに忍び込み、キケロを追放し、街の暴力団を率いて元老院を脅した。姉との噂があった。アッピア街道で殺され、遺体で元老院が焼かれた。
- 同盟市戦争できごとBC91年イタリア人がローマ人になったイタリアの同盟都市がローマ市民権を求め、拒まれて反乱した。3年、30万人が死んだ。ローマは戦いながら市民権を与えて終わらせた。イタリア人がローマ人になった。マリウスもスッラもポンペイウスの父も、ここで軍を持った。ローマ
- レピドゥス人物BC89年頃 – BC13年寝床で死んだ唯一カエサルの騎兵長官。三頭の三人目。アフリカをもらい、ナウロコスのあと兵をオクタウィアヌスに取られて、「最高神祇官」の称号だけ残されて、24年、田舎に住んだ。失脚したまま、寝床で死んだ。
- ミトリダテス戦争できごとBC88年ポントスの王が小アジアのローマ人8万人を一日で殺させ、25年ローマと戦った。毒に慣らした体は、最後に毒で死ねなかった。シノペ

- カッシウス人物BC86年頃 – BC42年10月3日痩せて飢えた顔カルラエでクラッススの軍の残りを救った財務官。カエサル暗殺を仕組んだ側で、「痩せて飢えた顔」とシェイクスピアが書いた。フィリッピで自陣が勝っているのを負けと誤解し、解放奴隷に首を斬らせた。カエサルの誕生日に。
- ブルートゥス人物BC85年 – BC42年10月23日最も高貴なローマ人王を追放したブルートゥスの子孫と称し、母セルウィリアはカエサルの愛人だった。カエサルに許され、引き立てられ、刺した。「お前もか、ブルートゥス」はシェイクスピア。フィリッピで自死。「最も高貴なローマ人」と敵が言った。
- マルクス・アントニウス人物BC83年 – BC30年カエサルの腹心。クレオパトラと結んだが、アクティウムで敗れて自死した。
- スッラの独裁できごとBC82年ローマに軍を入れて独裁官となり、政敵を名簿にして処断した。内乱の前例になる。ローマ
- ウェルキンゲトリクス人物BC82年頃 – BC46年武器を足元に置いたアルウェルニ族の若い首長がガリアの部族を一つにし、焦土でカエサルを疲れさせ、ゲルゴウィアで勝ち、アレシアで負けた。馬でカエサルの前に来て、武器を足元に置いた。6年獄にいて、凱旋式で引き回されて、絞められた。19世紀にフランスの祖になった。
- セルトリウス戦争できごとBC80年もう一つのローママリウス派の将軍がスペインで8年、独自のローマを作った。元老院、学校、白い鹿。ポンペイウスも勝てなかった。部下に宴で殺された。ローマの外に、もう一つのローマがありうると示した最初。オスカ

- セクストゥス・ポンペイウス人物BC67年 – BC35年ネプトゥヌスの子ポンペイウスの次男。父はエジプトで、兄はムンダで殺された。追放された者と逃亡奴隷でシチリアを取り、船でローマの穀物を止めた。「ネプトゥヌスの子」。ミセヌムで三頭と宴をし、「縄を切れば彼らは私のもの」と言われて「それは私の名誉に」。アグリッパに負け、小アジアで殺された。
- アウグストゥス人物BC63年9月23日 – 14年8月19日カエサルの養子。アクティウムで勝ち、共和政の形を残したまま帝政を始めた。
- カティリナの陰謀できごとBC63年いつまで我々の忍耐を試すのか選挙に負けた貴族が、借金に困った者を集めてクーデターを企てた。執政官キケロが元老院で「いつまで我々の忍耐を試すのか」と演説し、共犯者を裁判なしで処刑した。その処刑が、のちに自分を追放させる。ローマ

- ポンペイウスのエルサレム占領できごとBC63年ユダヤがローマの属国にユダヤの王家の兄弟争いに呼ばれ、神殿の丘を三か月囲んで安息日に落とした。至聖所に入って、何も無いのを見た。ユダヤはローマの属国になり、以後、ローマから離れられない。エルサレム
- アグリッパ人物BC63年 – BC12年戦いをすべて代わりに無名の家の出で、オクタウィアヌスの同級生。彼の戦いをすべて代わりに戦った。ナウロコス、アクティウム。ローマの水道と浴場と最初のパンテオンを建て、地図を作った。娘婿になり、後継者になり、先に死んだ。孫は皇帝にならず、曾孫ネロが皇帝になった。
- 第一回三頭政治できごとBC60年カエサル・ポンペイウス・クラッススの私的な盟約。元老院を迂回して国を動かした。ローマ

- ルカ会談できごとBC56年三人の私邸で決まったカエサルがガリアから戻り、ポンペイウスとクラッススと三人で密約を更新した。元老院議員200人が挨拶に並んだ。二人が執政官、カエサルは5年延長。共和政の決定が、三人の私邸で決まった。ルッカ
- カルラエの戦いできごとBC53年三頭の一角が消えるクラッススがパルティアの騎射に敗れて戦死した。ローマの東の限界が定まる。カルラエ

- クロディウスの殺害できごとBC52年1月18日遺体で元老院が焼かれた街の暴力団を率いた護民官が、アッピア街道で政敵ミロの手下に殺された。群衆は遺体を元老院に運んで、議事堂ごと焼いた。ポンペイウスが単独執政官になり、キケロがミロを弁護して、声が出なかった。ボウィッラエ
- ルビコン渡河できごとBC49年1月10日軍を率いて属州の境を越えた時点で内戦が始まった。渡ったとされる川の比定には諸説ある。ルビコン川(位置は特定されていない)

- ファルサルスの戦いできごとBC48年8月9日兵力で劣るカエサルがポンペイウスを破り、内戦の帰趨を決した。ファルサルス

- タプススの戦いできごとBC46年4月6日共和政の良心の死に方アフリカのポンペイウス派が、ヌミディア王ユバの象60頭と共に潰された。小カトーはウティカで、プラトンを読んでから腹を裂いた。医者が縫った腸を、自分の手で引き出した。共和政の良心が、そういう死に方をした。タプスス
- ムンダの戦いできごとBC45年3月17日今日は命のためにポンペイウスの息子たちがスペインで最後に立った。カエサルは「いつも勝利のために戦ったが、今日は命のために戦った」。兵の前に出て、盾を取って、自分で戦った。内戦が終わった。翌年3月、元老院で刺される。ムンダ

- カエサル暗殺できごとBC44年3月15日元老院会議の場で共和派の一団に刺殺された。共和政の回復ではなく、次の内戦の始まりになった。ローマ

- 第二回三頭政治と追放告示できごとBC43年11月首と手を演壇にオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスがボノニアの川の島で会い、殺す者の名簿を作った。元老院議員300人、騎士2000人。キケロの名も。首と手が演壇に釘づけにされた。アントニウスの妻フルウィアが舌に簪を刺した。財産は三人と兵のものに。ローマ

- フィリッピの戦いできごとBC42年10月23日徳は言葉にすぎなかったカエサルを殺した二人が、二人の後継者と戦った。カッシウスは負けたと誤解して自死し、ブルートゥスは20日後に「私は徳を実体だと思っていたが、言葉にすぎなかった」と言って剣に伏した。共和政を守る軍は、これで消えた。フィリッピ
- ナウロコスの海戦できごとBC36年9月3日三頭は二人にポンペイウスの息子セクストゥスがシチリアから海を握り、ローマを飢えさせていた。アグリッパが船を造り、水兵を訓練し、鉤付きの投射器で敵船を引き寄せて、300隻で破った。セクストゥスは東へ逃げて殺された。レピドゥスが兵に見捨てられ、三頭は二人になった。ナウロコス
- アクティウムの海戦できごとBC31年9月2日オクタウィアヌスがアントニウスとクレオパトラの艦隊を破り、ローマ世界の唯一の勝者となった。アクティウム

- 元首政の始まり(アウグストゥスの称号)できごとBC27年1月16日尊厳ある者オクタウィアヌスが元老院で「すべての権限を返す」と言い、元老院が「受け取ってほしい」と頼み、属州の半分と軍を10年預けた。3日後、「アウグストゥス」。「尊厳ある者」。共和政の形を残して、一人が治める。「プリンケプス」、第一の市民。皇帝という語はまだない。ローマ
- ウィトルウィウス『建築十書』できごとBC25年頃強・用・美古代から残った唯一の建築書。神殿の柱の様式、都市の計画、水道、時計、投石機。15世紀にザンクト・ガレンで写本が読み直され、ルネサンスの建築家がこれを手本にした。ローマ
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