宗祇
概要
出自は分からない(近江か紀伊、身分は低かった)。30歳を過ぎてから連歌を学び、宗砌と心敬に師事した。応仁の乱で京を離れ、越後、周防、九州、東国を旅して、大名と地方の武士に連歌と古典を教えた。『新撰菟玖波集』を撰し、東常縁から古今伝授を受けた。旅の途中、箱根湯本で死んだ。芭蕉が「宗祇の時雨」と詠んだ。
関わったできごと(1)
宗祇と連歌AD1488年 · 巻いた本文
宗祇は1421年に生まれた。生まれた土地は紀伊とも近江とも言われ、父についても確かな記録が無い。身分の低い生まれだったと考えられている。若い頃は京の相国寺で禅僧として過ごしたらしい。

宗祇が連歌の道に本格的に入ったのは、30歳を過ぎてからである。連歌は、何人かが集まって、和歌の上の句と下の句を交互に詠み継ぎ、百句などを連ねていく文芸で、室町時代には公家から武士、庶民まで広く好まれた。宗祇は、連歌の名手だった宗砌や専順、心敬に学び、古典は当代一の学者だった一条兼良らに学んだ。心敬は、冷えた、さびた美しさを説いた僧で、その考えは宗祇の連歌に深く受け継がれた。
40代の半ば、宗祇は東国へ旅立った。その翌年の1467年に応仁の乱が始まり、京は戦火に包まれた。宗祇はしばらく関東にとどまり、各地の武将と連歌を詠み、白河の関を訪ねて紀行文『白河紀行』を書いた。これ以後、宗祇は生涯の多くを旅の中で過ごすことになる。

1471年、宗祇は伊豆の三島で、美濃の武将で歌人の東常縁から「古今伝授」を受けた。古今伝授とは、『古今和歌集』の難しい語句や歌の解釈を、師から選ばれた弟子へ、口伝えと秘密の紙片で伝えるものである。宗祇はのちにこれを公家の三条西実隆に伝え、伝授は実隆の家から、さらに戦国の武将細川幽斎へと受け継がれた。関ヶ原の戦いの直前、幽斎が丹後の城を囲まれたとき、伝授が絶えるのを惜しんだ朝廷が勅使を送って囲みを解かせた、という話が残るほど、古今伝授は重んじられた。
乱の後、宗祇は京に「種玉庵」という庵を結び、そこを拠点に諸国を巡った。越後の上杉氏、周防の大内氏、駿河の今川氏、越前の朝倉氏など、各地の大名に招かれて連歌の会を開き、『源氏物語』や『伊勢物語』、『古今和歌集』を講義した。周防の大内政弘とは特に縁が深く、1480年には政弘の招きで九州へ下り、その旅を『筑紫道記』に記した。同じ頃、山口の大内氏のもとには画僧の雪舟もいた。戦乱で都の公家が地方へ逃れ、京の古典の教養が地方の大名や武士に流れていく時代に、宗祇はその運び手の一人だった。

1488年正月、宗祇は弟子の肖柏、宗長とともに、摂津の水無瀬で百句の連歌を詠み、後鳥羽院の250回忌に奉納した。これが『水無瀬三吟百韻』で、連歌の最高の手本として後世まで学ばれた(宗祇と連歌)。肖柏は公家の血を引く人、宗長は駿河の刀鍛冶の子で、身分の違う者が一つの座で句を連ねるところに、連歌という文芸の性格がよく表れている。1495年には、宗祇が中心となって連歌の撰集『新撰菟玖波集』を編んだ。天皇の勅撰に准じる扱いを受け、連歌が和歌に並ぶ文芸として公に認められた。
宗祇の連歌は、技巧で人を驚かせるものではなく、心のこもった静かで深い句を重んじた。前の句の情景や心をすくい取り、それを少しずらして新しい景色へ移していく。その付け方のなめらかさと品の良さが、宗祇の連歌の真骨頂とされた。「世にふるもさらに時雨のやどりかな」は宗祇の代表的な句で、この世に生きることも、時雨の降る間の仮の宿りにすぎない、という無常の思いを詠んでいる。
1502年、80歳を過ぎた宗祇は、越後から駿河へ向かう旅の途中で病に倒れ、箱根の湯本の宿で亡くなった。弟子の宗長と宗碩が最期を看取り、宗長はその様子を『宗祇終焉記』に書き残した。遺骸は生前の望みどおり、富士を望む駿河の定輪寺に葬られた。
それから180年ほど後、松尾芭蕉は宗祇の句を受けて、「世にふるもさらに宗祇のやどりかな」と詠んだ。旅に生き、旅に死んだ宗祇を、芭蕉は自分の先人として仰いでいた。芭蕉の『おくのほそ道』の旅も、宗祇や西行といった漂泊の詩人たちの跡をたどる旅だった。身分の定かでない一人の連歌師が、戦乱の世に古典の灯を地方へ運び、のちの俳諧の祖を導いたのである。