ジャズの最初のレコード
概要
ニューオーリンズの白人5人、オリジナル・ディキシーランド・ジャス・バンドが、ヴィクターで『リヴァリー・ステイブル・ブルース』を録音した。100万枚。ニューオーリンズの黒人が20年演奏していた音楽が、白人の録音で世界に出た。同じ年、ニューオーリンズの歓楽街ストーリーヴィルが閉じられ、楽士がシカゴへ。1922年、ルイ・アームストロングがシカゴへ。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
本文
19世紀の終わりのニューオーリンズは、さまざまな音楽が混じり合う港町だった。葬列や祭りで行進するブラスバンド、ピアノで弾くラグタイム、南部の農村から来たブルース(デルタのブルース)、黒人の教会の歌、フランス系とアフリカ系の血を引くクレオールの人々の踊りの音楽、カリブ海のリズム。そこから、決まった譜面より即興を重んじ、拍をずらして弾む新しい音楽が生まれた。のちにジャズと呼ばれる音楽である。
最初の名手として語られるのは、コルネット吹きのバディ・ボールデンである。彼の音は川向こうまで届いたと伝えられるが、録音は一つも残っていない。ボールデンは1907年に心を病んで施設に入り、そこで死んだ。1897年に市が歓楽街として区切ったストーリーヴィルでは、酒場や娼館でピアノ弾きやバンドが働き、ジェリー・ロール・モートンやキング・オリヴァーらが腕を磨いた。

「ジャズ」という言葉の起こりは分からない。1910年代の初めに、カリフォルニアの新聞の野球の記事で、元気や気迫を表す俗語として使われた例が知られている。音楽の名として広まったのは1915年ごろのシカゴで、はじめは「ジャス」とも綴られた。
黒人の音楽を、白人の若者たちも真似た。ニューオーリンズの白人のバンドで腕を磨いたコルネット吹きのニック・ラロッカらは、1916年にシカゴへ出て評判をとり、翌年1月、ニューヨークのライゼンウェバーズ・カフェに呼ばれた。バンドの名はオリジナル・ディキシーランド・ジャス・バンド。ラロッカのほか、トロンボーンのエディ・エドワーズ、クラリネットのラリー・シールズ、ピアノのヘンリー・ラガス、ドラムのトニー・スバーバロの5人だった。
1917年1月、コロンビア社が彼らを録音したが、すぐには出さなかった。2月26日、ニューヨークのヴィクター社のスタジオで、彼らは「リヴァリー・ステイブル・ブルース」(馬小屋のブルース)と「ディキシー・ジャス・バンド・ワンステップ」を吹き込んだ。前者では、クラリネットが鶏の鳴き声を、コルネットが馬のいななきを、トロンボーンが牛の声を真似る。騒々しく、珍しく、楽しいレコードは3月に売り出され、大当たりした。売り上げは百万枚を超えたとも言われる。「ジャズ」という言葉と音は、蓄音機(蓄音機の発明)を通じて、一気に全国へ広まった。
なぜ最初のジャズの録音が白人のバンドだったのか。黒人の演奏家たちは、録音の機会からほとんど締め出されていた。ニューオーリンズのコルネット吹きフレディ・ケパードは、その前にヴィクター社の録音の誘いを断ったという話があり、他人に演奏を盗まれるのを嫌ったからだと伝えられるが、確かではない。黒人の楽団長ジェイムズ・リース・ヨーロッパは1913年から14年にかけて録音していたが、それはジャズになる前の踊りの音楽だった。黒人の歌手が吹き込んだブルースが大当たりしたのは1920年のメイミー・スミスの「クレイジー・ブルース」で、ニューオーリンズの黒人のバンドの録音は、1922年のキッド・オリーの楽団、1923年のキング・オリヴァーのクレオール・ジャズ・バンドを待たなければならなかった。オリヴァーの楽団で二番目のコルネットを吹いていたのが、ルイ・アームストロングである。
ラロッカは晩年まで、ジャズを作ったのは白人の自分たちで、黒人は関係ないと言い張った。一方で、彼らの録音を聴いてジャズを知り、楽器を手に取った若者は、白人にも黒人にも大勢いた。最初のレコードは、ジャズを世に出すと同時に、誰の音楽なのかという問いを、最初から抱え込んでいた。
1917年4月、アメリカは第一次世界大戦に参戦した。11月、海軍は兵士の風紀を守るためとして、港の近くの歓楽街の閉鎖を命じ、ストーリーヴィルは閉じられた。職を失った楽士の多くは、南部から北部の工業都市へ移っていく黒人の大移動の流れに乗り、ミシシッピ川を上ってシカゴへ、さらにニューヨークへ向かった。1922年、アームストロングもオリヴァーに呼ばれてシカゴへ出た。1920年代、禁酒法(禁酒法)の下の潜り酒場で、ジャズは時代の音楽になった。1927年には、初めての本格的なトーキー映画(映画がしゃべる)が『ジャズ・シンガー』と名づけられている。