ホメロス
概要
『イリアス』『オデュッセイア』の作者とされる。実在したかどうかも含めて議論がある。
所属
ギリシア諸ポリス関わったできごと(1)
『イリアス』『オデュッセイア』の成立紀元前8世紀頃 · 作者とされる本文
『イリアス』と『オデュッセイア』の作者とされる詩人である。生きたのは紀元前8世紀頃と考えられているが、生まれた町も、生涯も、死んだ年も分からない。分からないどころか、一人の人間として実在したかどうかが、古代から議論されてきた。

古代のギリシア人にとって、ホメロスは疑いようのない存在だった。出身地は小アジア西岸のイオニア地方とされ、スミュルナやキオス島など七つの町が「ホメロスの生まれ故郷」を名乗って争ったと伝えられる。歴史家のヘロドトスは、ホメロスは自分より400年ほど前の人だと書いている。ただし伝記として残るものは、どれも後の時代に作られた話で、事実の裏づけはない。
二つの詩の中身から見ていく。『イリアス』は、ギリシア軍が小アジアのトロイアを10年囲んだトロイア戦争(伝承)の、最後の年のわずか数十日を描く。主題は英雄アキレウスの「怒り」である。総大将アガメムノンに戦利品の女性を奪われたアキレウスが戦いから身を引き、ギリシア軍は追い詰められる。親友パトロクロスがトロイアの王子ヘクトルに討たれて、アキレウスはようやく戦場に戻り、ヘクトルを殺してその遺体を引きずり回す。詩は、老王プリアモスがひとりで敵陣を訪れて息子の遺体を返してくれと頼み、アキレウスが涙を流してそれに応じる場面で終わる。木馬もトロイアの陥落も、この詩には出てこない。

『オデュッセイア』は、戦争のあと故郷イタケへ帰ろうとするオデュッセウスの10年の放浪を語る。一つ目の巨人キュクロプス、魔女キルケ、歌で船乗りを誘うセイレーンといった冒険の一方で、留守宅では妻ペネロペイアに求婚者たちが群がり、家の財産を食いつぶしている。帰り着いたオデュッセウスは乞食に身をやつして機会を待ち、求婚者たちを討つ。戦場の悲劇と、知恵で生き延びる男の物語。性格のまったく違う二篇である。
どちらも長い。『イリアス』は約1万5700行、『オデュッセイア』は約1万2100行あり、それぞれ24巻に分かれている。巻の区切りは、後にアレクサンドリアの学者たちが付けたものとされる。韻律は長短短六歩格と呼ばれる形式で、1行に決まったリズムが六つ並ぶ。

一人の詩人がこれを作ったのか。18世紀の末、ドイツの学者ヴォルフが、ホメロスの詩はもともと文字なしで語られた歌の寄せ集めで、後に編集されたものだと論じた。ここから「ホメロス問題」と呼ばれる長い論争が始まる。詩を層に分けて、古い部分と新しい部分を見分けようとする学者たちと、全体の構成の見事さこそ一人の天才の証拠だとする学者たちが、100年以上争った。
20世紀に、この論争に新しい手がかりが加わった。アメリカの研究者ミルマン・パリーが、詩の中で決まった言い回しが繰り返し使われていることに注目したのである。「足の速いアキレウス」「ぶどう酒色の海」「ばら色の指をした暁」。人物や物には、韻律の位置に合わせて使い分けられる決まり文句が用意されている。これは文字を使わずに、長い詩をその場で語り続けるための技法だとパリーは考えた。1930年代、パリーと弟子のアルバート・ロードは、当時のユーゴスラヴィアで文字を読めない口承詩人たちを訪ね、彼らが同じ仕組みで何千行もの歌をその場で語れることを確かめた。

いまでは、二篇の詩が長い口承の伝統の上に立っていることは、ほぼ認められている。ただ、その伝統を最後に今の形にまとめた詩人が一人いたのか、そのとき文字が使われたのか、いつ書き留められたのかは、なお説が分かれる。ギリシア人がフェニキア文字をもとにアルファベットを作ったのは紀元前8世紀頃とされ、時期はちょうど重なる。『オデュッセイア』は『イリアス』よりやや後にできたと見る研究者が多い。アテナイの僭主ペイシストラトスの時代に詩の本文が整えられ、祭りで朗誦されるようになったという古代の伝えもある。
盲目の詩人という姿も、よく知られているわりに根拠は薄い。『オデュッセイア』に盲目の歌い手デモドコスが登場すること、ホメロスの作とされた讃歌に「キオスに住む盲目の男」という句があることなどから広まったと考えられている。

詩に歌われたトロイアが実在したかどうかも、長く問われてきた。19世紀に実業家シュリーマンが小アジアのヒサルルクの丘を掘り、そこが古代のトロイアだと主張した。遺跡には何層もの町が重なっていて、紀元前13世紀前後の層が戦争の舞台にあたるのではないかと考えられているが、詩に描かれた戦争がそのまま起きたことを示す証拠はない。
確かなのは、この二篇がギリシア人の共通の教養になったことである。子どもたちは学校でホメロスを暗誦し、悲劇の作者たちは詩の場面を素材にし、哲学者たちはホメロスを引いて議論した。プラトンは『国家』で、神々を不道徳に描く詩人を理想の国から追い出すべきだと論じながら、ホメロスを「ギリシアを教育した人」と呼んでいる。アリストテレスは『詩学』で、ホメロスを悲劇の手本として何度も取り上げた。アレクサンドロス3世は遠征中も『イリアス』を手放さなかったと伝えられる。

その影響は古代のギリシアの外へ広がった。ローマの詩人ウェルギリウスは二つの詩を下敷きにして『アエネイス』を書き、20世紀にはジェイムズ・ジョイスが『オデュッセイア』の構成を借りてダブリンの一日を描いた。「オデュッセイア」という語そのものが、長い苦難の旅を指す言葉として多くの言語に残っている。
西洋の文学は、作者が誰なのかも、いつ書かれたのかもはっきりしない二篇から始まっている。誰が作ったにせよ、そこには戦争で死ぬ若者と、それを悼む親と、家に帰りたいと願う男の姿がある。『イリアス』『オデュッセイア』の成立から2700年あまり、二篇が読まれ続けてきたのは、その姿がいまも古びていないからである。