杜甫
概要
安史の乱で流浪しながら、戦の下にいる人の暮らしを書いた。「国破れて山河在り」。
所属
唐関わったできごと(1)
唐詩の頂点740年 · 当人本文
杜甫は712年、唐の洛陽に近い鞏県(いまの河南省)に生まれた。字は子美。遠い先祖には、晋の時代に呉を平らげた将軍杜預がいて、祖父の杜審言は唐の初めに名を知られた詩人だった。杜甫は、自分の家は代々儒学を守り、官に仕える家柄だという誇りを生涯持ち続けた。母を早くに亡くし、叔母に育てられた。7歳で詩を作り、鳳凰を詠んだと、本人がのちに詩の中で回想している。

生まれた年に、玄宗が即位した。玄宗の治世の前半は開元の治と呼ばれる唐の最盛期で、杜甫の青年時代は、国が豊かで平和な時代だった。20代の杜甫は各地を旅して回り、735年ごろ、科挙の進士科を受けて落ちた。744年には洛陽で、11歳年上の李白と出会った。李白は宮廷を追われたばかりだったが、すでに天下に名の知られた詩人だった。二人は詩人の高適も交えて、ともに旅をし、酒を飲み、狩りをした。別れた後も、杜甫は李白を思う詩を何度も書いている。李白から杜甫に宛てた詩は、それに比べるとずっと少ない。
746年ごろ、杜甫は官職を求めて都の長安へ出た。翌年、玄宗が広く人材を求める特別の試験を行ったが、宰相の李林甫は、在野に埋もれた賢者などいないと上奏するため、受験者を一人残らず落とした。杜甫もその中にいた。それから10年近く、杜甫は有力者の門を叩いては詩を献じ、職を求め続けたが、長安での暮らしは苦しく、家族を都の外に預けていた。751年、宮廷の儀式を称える賦を献じると玄宗の目に留まったが、すぐに官職は与えられなかった。ようやく得たのは、755年、太子の護衛の役所で武器庫を管理する、ごく低い職だった。杜甫は40代の半ばになっていた。

その年の冬、杜甫は家族のもとへ向かう途中、玄宗と楊貴妃が冬を過ごす驪山の離宮のそばを通り、長い詩を書いた。朱塗りの門の内では酒や肉が腐るほど余り、道ばたには凍え死んだ者の骨が転がっている、という一節がある。たどり着いた家では、幼い子が飢えて死んでいた。自分は官人の身で税も兵役も免れているのに、それでもこうなのだから、貧しい民はどれほどだろうか、と杜甫は書いている。
翌月、北方の節度使安禄山が反乱を起こした(安史の乱)。756年、反乱軍は長安を落とし、玄宗は蜀へ逃れた。皇太子が北方の霊武で即位して粛宗になったと聞くと、杜甫は家族を疎開先に残して駆けつけようとしたが、途中で反乱軍に捕らえられ、長安に連れ戻された。身分が低かったため厳しく見張られることはなく、杜甫は荒れ果てた都で、翌757年の春を迎えた。そのとき作ったのが「春望」である。国破れて山河在り、城春にして草木深し。国は壊れても、山や川はもとのまま残り、町には春が来て草木が茂っている。戦乱の知らせは三月も続き、家族からの手紙は万金にも値する。白髪は掻くほどに薄くなり、もう冠を留める簪もさせない。

その年の4月、杜甫は長安を脱け出し、粛宗のいる鳳翔の仮の宮廷にたどり着いた。ぼろをまとい、靴も履いていなかったという。その忠誠が認められて、皇帝を諫める役目の左拾遺に任じられた。生涯でいちばん皇帝に近い官職だった。だが、敗戦の責任を問われた宰相房琯を弁護して粛宗の怒りを買い、翌年、地方の下役に左遷された。
この頃から、杜甫の詩は戦乱の下にいる人々に向けられるようになった。759年に作った一連の詩、のちに三吏三別と呼ばれるものでは、成年に満たない若者まで兵に取られていく様子や、新婚の翌朝に戦場へ送られる夫、帰る家も家族も失った兵士を描いた。中でも「石壕吏」は、杜甫が泊まった村の家に、夜中に役人が兵を徴発しに来る場面を描く。家の老人は塀を乗り越えて逃げ、老婆が出て行って、息子3人はみな戦に取られ、2人はすでに死んだと訴える。それでも役人が引き下がらないので、老婆は、自分が行って軍の飯炊きをしましょうと言い、夜明けに連れて行かれる。杜甫はその家の老人だけに別れを告げて旅立った、と詩は結ばれる。

759年、杜甫は官職を捨て、飢饉の続く関中を離れて、家族とともに西の秦州へ、さらに険しい山道を越えて蜀の成都へ移った。成都では、友人で節度使の厳武らの援助を受け、町の西の浣花渓のほとりに草堂を建てて暮らした。厳武の幕僚となり、名目だけの工部員外郎の肩書きを得たので、後世は杜工部とも呼ぶ。成都での数年は、生涯でいちばん穏やかな時期で、田園の暮らしや草花を詠んだ詩が多い。秋風に草堂の屋根の茅を吹き飛ばされた夜に、天下の貧しい人々をみな安らかに住まわせる大きな家があれば、自分の家だけが壊れて凍え死んでもかまわない、と詠んだのもこの頃である。
765年に厳武が死ぬと、杜甫は成都を去り、長江を下った。三峡の入り口の夔州に2年近く留まり、ここで400首を超える詩を残している。「登高」や「秋興八首」など、律詩の到達点とされる作品の多くはこの時期のものである。768年、三峡を出て、湖北から湖南へと、舟を住まいとして漂泊を続けた。体は肺の病や糖尿病とみられる病に冒され、耳も遠くなった。770年の冬、潭州から岳州へ向かう舟の中で死んだ。数えで59歳だった。牛肉と酒を一度に大量にとって死んだという話も伝わるが、後の伝説とされる。

生前の杜甫は、詩人としてはそれほど知られていなかった。唐の同時代の詩の選集には、ほとんど採られていない。死後40年あまりたって、詩人の元稹が孫の頼みで墓誌を書き、古今の詩人の中で杜甫ほど全てを備えた者はいない、と称えた。白居易や韓愈らも杜甫を高く評価し、宋の時代になると、その評価は揺るがないものになった。民の苦しみと時代の出来事を詩に刻んだことから、その詩は詩史と呼ばれ、杜甫自身は詩聖と呼ばれるようになった。李白の詩仙と並び、中国の詩の頂点に立つ二人とされている(唐詩の頂点)。日本でも、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で平泉の跡に立ち、国破れて山河あり、と杜甫の句を引いて涙を流したことはよく知られている。