人物

ミケランジェロ

Michelangelo
AD1475年3月6日 – AD1564年2月18日(享年88)
フィレンツェ/教皇領重要度 5

概要

自分は彫刻家だと言い張りながら、天井画を4年かけて描いた。石の中に像が既にあると考えていた。

関わったできごと(1)

システィーナ礼拝堂の天井画1508年 · 当人

本文

1475年3月6日、フィレンツェ共和国の領内の小さな村カプレーゼに生まれた。父ルドヴィーコは、村の役人を務めていた、落ちぶれかけた古い家柄の人だった。母は息子が6歳のときに死んでいる。幼い頃、フィレンツェ近郊の石工の村で、石工の妻を乳母として育てられた。のちに、自分は乳と一緒に鑿と槌を飲み込んだのだ、と冗談を言ったと伝記作家ヴァザーリは書いている。

ミケランジェロの肖像(ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ画、部分)
ミケランジェロの肖像(ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ画、部分)Wikimedia Commons Attributed to Daniele da Volterra · Public domain

父は、職人の仕事を家柄にふさわしくないと嫌い、息子が絵を描くのを叱りつけた。それでも13歳で、フィレンツェの画家ギルランダイオの工房に弟子入りした。まもなく、フィレンツェの実質的な支配者だったロレンツォ・デ・メディチの目に留まり、メディチ家の彫刻の庭で古代の彫刻を学びながら、その屋敷に住んで家族同然に暮らした。食卓では人文学者や詩人の会話を聞いて育った。同じ年頃の彫刻家と喧嘩をして鼻を殴られ、鼻筋が曲がったまま一生を過ごした。

1492年にロレンツォが死に、2年後にメディチ家がフィレンツェを追われる。修道士サヴォナローラが町を支配するなか、ミケランジェロはボローニャ、次いでローマへ移った。

『階段の聖母』(1491年頃)カーサ・ブオナローティ(フィレンツェ)
『階段の聖母』(1491年頃)カーサ・ブオナローティ(フィレンツェ)Wikimedia Commons Michelangelo · Public domain

1498年から翌年にかけて、ローマで「ピエタ」を彫った。死んだキリストを膝に抱く聖母の像で、20代前半の若者の作とは思えない完成度だった。聖母の胸の帯に、自分の名を刻んでいる。名を刻んだ作品はこれだけで、見物人が別の彫刻家の作だと話しているのを聞いて、夜中に刻み込んだという話が伝わる。

1501年、フィレンツェに戻ると、大聖堂の工房に何十年も放置されていた細長い大理石の塊を任された。前の彫刻家たちが手をつけて、使いものにならないとされた石だった。3年かけて、高さ5メートルを超える「ダヴィデ」を彫り上げる。巨人ゴリアテに立ち向かう羊飼いの若者の像は、大国に囲まれた小さな共和国フィレンツェの象徴として、政庁の前に置かれた。置き場所を決める委員会には、レオナルド・ダ・ヴィンチも加わっていた。二人は仲が悪く、政庁の壁画の制作でも腕を競っている。

『ピエタ』(1498年 - 1500年)サン・ピエトロ大聖堂
『ピエタ』(1498年 - 1500年)サン・ピエトロ大聖堂Wikimedia Commons Stanislav Traykov · CC BY 2.5

1505年、教皇ユリウス2世に呼ばれてローマへ行き、教皇の巨大な墓の制作を命じられた。40体を超える彫像で飾る計画で、ミケランジェロは何か月もカッラーラの石切り場にこもって大理石を選んだ。だが教皇の関心はすぐにサン・ピエトロ大聖堂の建て替えの建て替えへ移り、計画は棚上げにされた。墓の仕事はその後40年近く、契約を何度も結び直しながら縮小を重ね、ミケランジェロはこれを「墓の悲劇」と呼んだ。墓のために彫られた「モーセ」は、いまローマの教会にある。

自分は彫刻家だと言い張りながら、天井画を4年かけて描いた。1508年、ユリウス2世はシスティーナ礼拝堂の天井に絵を描くよう命じた。フレスコ画の経験はほとんど無く、ミケランジェロは嫌がったが、断れなかった。手紙には「彫刻家ミケランジェロ」と署名し続けている。

『アダムの創造』(1508年 - 1512年)システィーナ礼拝堂(ヴァチカン)
『アダムの創造』(1508年 - 1512年)システィーナ礼拝堂(ヴァチカン)Wikimedia Commons Michelangelo · Public domain

システィーナ礼拝堂の天井画の作業は、足場の上に立ち、首を反らせて上を見上げる姿勢で続けられた。仰向けに寝て描いたという話は誤りである。助手の多くを早々に帰し、ほとんど一人で描いた。その苦しさを、ひげが天を向き、絵の具が顔に滴り、背骨は弓のようにしなる、と自嘲する詩を書いて、自分の姿の落書きを添えている。急かす教皇と口論になり、杖で打たれたという話もある。1512年に完成した天井には、天地創造からノアの物語までの場面と、300を超える人物が描かれた。アダムの指に神が指を伸ばす場面は、その中の一つである。

その後はメディチ家の教皇たちに仕え、フィレンツェでメディチ家の礼拝堂と図書館を手がけた。1527年、皇帝の軍がローマを略奪し、フィレンツェではメディチ家が再び追われて共和政が戻った。ミケランジェロは共和国の側に立ち、町を守る城壁の設計を任された。1530年に町がメディチ家の軍に降伏すると、しばらく身を隠している。1534年、ローマへ移り、二度とフィレンツェに戻らなかった。

『ローマ教皇レオ10世』(1518年 - 1519年)、ラファエロウフィツィ美術館(フィレンツェ)左に描かれている枢機卿は後のクレメンス7世であるジュリオ・デ・メディチである。
『ローマ教皇レオ10世』(1518年 - 1519年)、ラファエロウフィツィ美術館(フィレンツェ)左に描かれている枢機卿は後のクレメンス7世であるジュリオ・デ・メディチである。Wikimedia Commons Raphael · Public domain

1536年から5年かけて、システィーナ礼拝堂の正面の壁に「最後の審判」を描いた。400人近い人物の多くが裸体で描かれ、教皇の儀典長は、浴場か居酒屋にふさわしい絵だと非難した。ミケランジェロは、地獄の裁判官ミノスの顔をこの儀典長に似せ、ロバの耳をつけて描き込んだと伝えられる。死の直前、宗教改革に対抗して規律を引き締めたカトリック教会の方針で、裸体に布を描き足すことが決まり、弟子の画家がその仕事を引き受けた。

1546年、70歳を過ぎてサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任じられた。報酬は受け取らず、神のための仕事だとして、死ぬまで工事を指揮した。いまローマの空に浮かぶ大きな円屋根は、彼の設計をもとに、死後に完成したものである。

『最後の審判』(1541年 - 1547年)システィーナ礼拝堂(ヴァチカン)
『最後の審判』(1541年 - 1547年)システィーナ礼拝堂(ヴァチカン)Wikimedia Commons Michelangelo · Public domain

石の中に像が既にあると考えていた。どんな優れた芸術家も、一つの大理石がその内に含んでいないものを思い描くことはできない、という意味の詩を書いている。彫刻とは、石の中に閉じ込められた姿を、余分なところを取り除いて解き放つことだった。晩年の未完成の像には、石から体が半ば抜け出しかけたものがいくつもある。

詩人でもあり、300篇ほどの詩が残る。晩年には、貴族の女性詩人ヴィットリア・コロンナと信仰をめぐって深く交わり、若い貴族トンマーゾ・デ・カヴァリエーリに熱い詩を送った。生涯結婚しなかった。大きな富を得ても質素に暮らし、靴を履いたまま眠ることもあったと弟子は伝える。気難しく、人を寄せつけず、家族の金の無心には生涯応え続けた。

1564年2月18日、ローマで死んだ。89歳の誕生日まであと少しだった。遺体はひそかにフィレンツェへ運ばれ、サンタ・クローチェ聖堂に葬られた。ヴァザーリは『芸術家列伝』で、イタリア・ルネサンスの盛期の芸術はこの人で頂点に達した、と書いている。生きているうちに伝記が二冊も出た、初めての芸術家だった。

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