できごと

出雲阿国のかぶき踊り

Izumo no Okuni's kabuki dance
AD1603年(慶長8年)
重要度 4
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概要

出雲大社の巫女と称する女が、京の北野で、男装して刀を差し、傾いた(かぶいた)派手な格好で踊った。茶屋の女と戯れる寸劇。「ややこ踊り」から「かぶき踊り」。関ヶ原の3年後。江戸に呼ばれ、女歌舞伎が流行り、1629年に幕府が風紀で禁じ、若衆歌舞伎も禁じ、野郎歌舞伎に。歌舞伎は女が始めて、男のものになった。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(1)

出雲阿国AD1572年頃–? · 踊った

本文

1600年の関ヶ原の戦いの後、徳川家康は1603年に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた(江戸幕府の成立)。京の町は、長い戦乱がようやく終わったという解放感の中にあった。そのころ、都で大評判をとったのが、出雲の阿国という女性の踊りだった。

慶長8年(1603年)の出来事を記した『当代記』という記録に、次のような記事がある。この頃、かぶき踊りというものが起こった。出雲の国の巫女で名を国という女が京へ上り、異様な男の姿をして、刀と脇差を差し、茶屋の女と戯れる様子を演じた。京の人々はもてはやし、伏見城でも何度も踊った、という。『当代記』はさらに、国は美しい女ではないと書き添えている。評判の中心は、容姿よりも、その演じ方の新しさにあったのだろう。

出雲阿国
出雲阿国Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

出雲阿国の素性については、出雲大社の巫女で、社殿の修理の費用を集める勧進のために諸国を回っていたと伝えられるが、確かなことは分からない。それより前の1600年ごろ、公家の日記に、出雲から来た「ややこ踊り」の一座が踊ったという記事が見える。ややこ踊りは、少女が小歌に合わせて踊る、当時はやっていた踊りである。阿国も初めは、このややこ踊りを踊っていたと考えられている。

「かぶき」は、「傾く」という言葉から来ている。並外れた派手な格好をし、世間の常識から外れたふるまいをすることで、そうした人々は「かぶき者」と呼ばれた。戦国の気風が残る中で、奇抜な衣装に長い刀を差して町を練り歩く若者たちが、都の名物になっていた。阿国は、そのかぶき者の姿を舞台に持ち込んだ。男装した阿国が茶屋に遊びに行き、茶屋の女と戯れるという寸劇を、念仏踊りや小歌の踊りと組み合わせて演じたのである。女が男を演じ、茶屋の女の役は男が演じたとされる。

京都国立博物館収蔵『阿國歌舞伎圖屏風』六曲一隻、紙本金地著色(出雲阿国を描いた最古の屏風絵)。
京都国立博物館収蔵『阿國歌舞伎圖屏風』六曲一隻、紙本金地著色(出雲阿国を描いた最古の屏風絵)。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author (probably an artist of the Hasegawa school) · Public domain

人気の演目の一つに、名古屋山三郎の亡霊が現れる場面があったと伝えられる。山三郎は、美男で知られた実在のかぶき者で、1603年に美作で争いに巻き込まれて殺された。後世には阿国の恋人だったと語られるようになるが、それを示す確かな史料はない。阿国の一座は、北野天満宮の境内などに舞台を構えたといい、当時の様子は「阿国歌舞伎図」などの屏風絵や草紙に描かれている。舞台の上で刀を肩にかけ、首から十字架のような飾りを下げた阿国の姿も描かれている。

阿国の踊りは、たちまちまねされた。京の六条や、のちの江戸の遊女屋が、遊女たちに歌舞伎踊りを演じさせ、客寄せにした。大勢の遊女が三味線に合わせて踊る華やかな舞台は大人気になったが、舞台をめぐる喧嘩や風紀の乱れが問題になった。1629年、幕府は女性が舞台に立つことを禁じた。代わって前髪のある少年たちが演じる若衆歌舞伎が流行したが、これも同じ理由で1652年に禁じられた。その後に許されたのは、前髪を剃り落とした成人の男性が演じる野郎歌舞伎だけだった。こうして舞台から女性が消え、女性の役を男性が演じる女形が生まれた。

阿国歌舞伎発祥地
阿国歌舞伎発祥地Wikimedia Commons mariemon · CC BY 3.0

歌舞伎は、踊りを中心とした見せ物から、次第に筋のある芝居へと形を変えていく。元禄の時代には、上方で坂田藤十郎が、江戸で初代市川團十郎が人気を集め、近松門左衛門が歌舞伎や人形浄瑠璃の台本を書いた。18世紀には『仮名手本忠臣蔵』の初演のような大作が生まれる。

阿国自身のその後は、ほとんど分からない。1607年に江戸城で歌舞伎を演じたとされる記録を最後に、確かな消息は途絶える。出雲には、阿国が晩年に故郷に戻って尼になったという伝えが残り、出雲大社の近くに阿国の墓とされるものがある。京都の大徳寺の塔頭にも墓と伝えられるものがある。没年も分からない。いまでは男性だけが演じる歌舞伎は、一人の女性が男の姿で踊ったことから始まったのである。

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