二つの大戦

概要
一発の銃声から31年。二つの戦争は別々ではなく、前者の終わらせ方が後者を呼んだ。
この物語について
なぜ一度目のあと、二十年で二度目が起きたのか。問題は、戦争の始め方より、終わらせ方にあった。
話は1871年に始まる。プロイセンがフランスを破り、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ帝国の成立を宣言した。ヨーロッパの真ん中に、人口でも工業でも抜きんでた国が突然できたのである。宰相のビスマルクは、フランスの復讐を恐れ、ロシアやオーストリアと条約を結んでフランスを孤立させる網を張った。だが1890年に彼が退くと、若い皇帝ヴィルヘルム2世はロシアとの条約を更新せず、イギリスと海軍の拡張を競い始めた。ロシアはフランスと、イギリスはやがてフランス、ロシアと手を結ぶ。大陸は二つの陣営に分かれ、どこかで火が付けば全体に燃え広がる形ができていた。

1914年6月28日、ボスニアの町サラエヴォで、オーストリアの皇位継承者夫妻がセルビア系の青年に撃たれて死んだ。オーストリアはセルビアに厳しい要求を突きつけ、7月28日に宣戦する。セルビアを支えるロシアが兵を動かし始めると、ドイツはロシアとフランスに宣戦し、フランスを早く片づけるために中立国ベルギーへ攻め込んだ。これを見てイギリスが参戦した。暗殺からわずか5週間あまりで、ヨーロッパの大国がすべて戦争に入っていた。多くの人は、クリスマスまでには終わると思っていた。
第一次世界大戦は、そうはならなかった。9月のマルヌの戦いでドイツ軍の進撃が止まると、両軍はスイスの国境から北海まで塹壕を掘って向かい合った。機関銃と鉄条網の前では、突撃する歩兵はなぎ倒されるだけだった。1916年7月1日、ソンムの戦いの初日に、イギリス軍は一日で約2万人の戦死者を出している。毒ガス、戦車、飛行機、潜水艦が次々に投入され、工場と鉄道と国民全体を動員する総力戦になった。

戦争の行方を変えたのは、海と東からの知らせだった。ドイツが中立国の船も含めて無差別に沈める潜水艦作戦を始めると、1917年4月、アメリカが参戦した。同じ年、ロシアでは食糧不足から革命が起き、権力を握ったレーニンらはドイツと単独で講和を結んで戦争から抜けた。1918年の春、ドイツは西部戦線で最後の大攻勢をかけたが押し返され、11月、国内で水兵の反乱が広がって皇帝が退位し、休戦に応じた。兵士の死者は900万から1000万人、民間人を合わせればさらに数百万が死んだ。その上、戦争の末期から世界に広がったスペイン風邪が、戦争そのものより多くの命を奪ったとされる。
戦争は地図も書き換えた。ロシア、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマンの四つの帝国が崩れ、東ヨーロッパにはポーランドやチェコスロヴァキアなどの新しい国が生まれた。オスマン帝国の領土だった中東は、イギリスとフランスが委任統治の名で分け合い、戦争中に双方へ別々の約束をしていたことが、後々まで続く争いの種になった。植民地からは、インドやアフリカの兵士が数十万の単位で戦場へ送られた。銃後で工場を支えた女性たちは、戦後、多くの国で選挙権を得ている。
1919年、パリで講和会議が開かれた。アメリカの大統領ウィルソンは民族自決と国際連盟の創設を唱えたが、戦場となったフランスは、ドイツが二度と立ち上がれないようにすることを求めた。6月28日に調印されたヴェルサイユ条約で、ドイツは植民地と領土の一部を失い、軍備を厳しく制限され、戦争を始めた責任を負わされて巨額の賠償を課された。経済学者のケインズは、この講和はドイツを貧しくし、次の災いを招くと批判した。もっとも、賠償が本当に払えない額だったのかについては、今も研究者の評価が分かれる。確かなのは、ドイツの人びとがこの条約を、戦場で負けてもいないのに押しつけられた屈辱として受け止めたことである。

しかも、新しい秩序を支えるはずの国際連盟に、提案したアメリカ自身が加わらなかった。ドイツでは1923年に通貨の価値が崩れ、パンを買うのに手押し車いっぱいの紙幣が要った。その後、アメリカからの資金でいったん持ち直したが、1929年10月、ニューヨークの株価の暴落から世界恐慌が始まる。アメリカの資金が引き揚げられ、ドイツの失業者は1932年に600万人を超えた。各国は自分の国と植民地を高い関税で囲い込み、貿易は縮んだ。持たざる国は、奪って手に入れようと考え始める。
ドイツで票を集めたのは、ヴェルサイユ体制の打破と、ユダヤ人と共産主義者への憎しみを叫ぶヒトラーの党だった。1932年の選挙で第一党になり、1933年1月、ヒトラーは合法的に首相に任命された。わずか2か月後、議会は政府に法律を作る権限を渡す法を可決し、ほかの政党は解散させられた。ドイツは再軍備を進め、1938年にはオーストリアを併合し、ミュンヘンの会談でイギリスとフランスからチェコスロヴァキアの一部を譲り受けた。もう一度の大戦を避けたい両国は、譲れば止まると考えた。
東アジアでも、秩序はすでに崩れていた。1931年、日本の関東軍は奉天郊外で鉄道を自ら爆破して中国軍の仕業とし、満洲全体を占領した。満洲事変を国際連盟が認めないと、日本は1933年に連盟を去る。1937年には北京郊外での衝突から日中戦争が全面化し、首都南京の占領では多くの捕虜や市民が殺された。犠牲者の数は資料と定義によって大きく異なり、今も論争が続いている。1935年にはイタリアがエチオピアに攻め込み、連盟はこれも止められなかった。

1939年8月、ドイツは思想の上で最大の敵だったソ連と不可侵条約を結び、9月1日にポーランドへ攻め込んだ。イギリスとフランスが宣戦し、第二次世界大戦が始まる。1940年の春、ドイツ軍は戦車と飛行機を組み合わせた速い戦いでフランスをわずか6週間で降伏させた。首相になったチャーチルのもとでイギリスは空の戦いに耐え、1941年6月、ヒトラーは条約を破ってソ連に攻め込んだ。同じ年の12月、日本はハワイの真珠湾を攻撃し、アメリカが参戦する。二つの戦争が、一つの世界大戦になった。
日本がアメリカとの戦争に踏み切るまでには、いくつもの段階があった。1940年、日本はドイツ・イタリアと三国同盟を結び、翌年には南部仏印、いまのベトナム南部へ兵を進めた。アメリカは日本への石油の輸出を止め、中国とインドシナからの撤兵を求めた。石油の大部分をアメリカからの輸入に頼っていた日本は、蓄えが尽きる前に南方の資源を奪いに行くか、要求をのむかを迫られた。指導者の多くは、アメリカとの国力の差を知りながら、開戦を選んだ。
1942年の6月のミッドウェー海戦と、その冬から翌年にかけてのスターリングラードの攻防で、戦いの流れは変わった。その陰で、ドイツは占領した東ヨーロッパに絶滅収容所を作り、ユダヤ人をはじめ、ロマや障害のある人びとを組織的に殺していった。ホロコーストで殺されたユダヤ人は約600万人とされる。名簿を作り、列車の時刻表を組み、効率を競う。近代国家の官僚の仕組みと技術が、人を消すために使われた。

太平洋では、アメリカ軍が島づたいに日本本土へ迫った。1945年3月10日の東京大空襲では、一夜で約10万人が死んだとされる。4月から始まった沖縄戦では、住民を巻き込んだ地上戦で、県民の4人に1人ともいわれる人びとが命を落とした。
1944年6月、連合軍はノルマンディーに上陸し、1945年5月、ヒトラーが自殺した後にドイツは降伏した。日本は降伏を受け入れないまま本土の都市を空襲で焼かれ、8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が落とされた。8日にはソ連が日本に宣戦している。広島・長崎への原爆投下による死者は、その年の暮れまでに二つの都市で20万人を超えたと推計される。8月15日、天皇の声がラジオで降伏を告げた。

二度目の大戦の死者は、5000万人から8000万人と推計に幅がある。その多くは兵士ではなく民間人だった。一度目の終わらせ方の失敗を、勝った国々は覚えていた。1945年10月の国際連合の成立では、今度はアメリカもソ連も初めから加盟国に名を連ね、敗戦国には賠償を搾り取る代わりに占領と復興の援助が行われた。だがその戦勝国どうしが、すぐに別の形の争いを始めることになる。
一発の銃声から31年で、ヨーロッパは世界の中心の座を失い、植民地の多くは独立へ向かった。そして人類は、自分たちを滅ぼしうる兵器を手にした。戦争をどう始めないかと同じくらい、どう終わらせるかが問われる。広島と長崎の後に生まれた私たちは、その問いの上で暮らしている。
動画(1)
この物語が起きた場所
筋(191)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- シャップの腕木通信できごとAD1794年天候と昼間に縛られた塔の上に、動く腕木を組んだ装置を置く。腕の角度の組み合わせで196通りの符号を作り、望遠鏡で次の塔から読み取って、送り継ぐ。革命政府が採用し、1794年、リールからパリへ、オーストリア軍から町を奪還した知らせが、一時間ほどで届いた。ナポレオンが全土に広げ、最盛期には534の塔が5000キロを結んだ。天候と昼間に縛られ、内容は暗号だったので、送る側と受ける側しか意味が分からない。1850年代、電気の電信に取って代わられて消えた。パリ
- アペールの瓶詰と缶詰できごとAD1810年軍の食料のための懸賞革命政府とナポレオンが、軍の食料を保存する方法に懸賞を出したと伝えられる。パリの菓子職人ニコラ・アペールが、食品を瓶に詰め、コルクで栓をして、湯で長時間加熱する方法を14年かけて完成させた。政府は1万2000フランを与え、その方法を本にして公開させた。なぜ腐らないのかは分からないまま(微生物の発見はパスツールの50年後)。同じ年、イギリスのデュランドがブリキ缶の特許を取った。缶切りが発明されるのは45年後で、初期の缶にはノミと槌で開けよと書いてあった。パリ
- ビスマルク人物AD1815年4月1日 – AD1898年均衡を崩した側の設計者三つの戦争を計算ずくで使い、ドイツを統一した。統一後は一転して平和の維持に腐心する。
- ゴム長靴できごとAD1856年天然のゴムは、暑ければ溶け、寒ければ割れる。加硫の方法が見つかって、初めて実用の素材になった。1856年、スコットランドで、ゴム引きの部品を貼り合わせて加硫する長靴の製造が始まる。水を通さない。農民と漁師が買い、第一次世界大戦では、塹壕の水に立ち続ける兵のために百万足を超える長靴が作られた。塹壕足という、足が腐る症状を防ぐためである。雨の日に足を濡らさないという当たり前は、化学と戦争を経由して届いている。エディンバラ
- フリッツ・ハーバー人物AD1868年12月9日 – AD1934年1月29日毒ガス戦を指揮した空気の窒素から肥料を作る方法を見つけ、いまの人口の半分を養っている。同じ人が毒ガス戦を指揮した。ユダヤ人として国を追われて死ぬ。
- ネヴィル・チェンバレン人物AD1869年3月18日 – AD1940年11月9日平和の人バーミンガムの実業家。大蔵大臣で財政を立て直し、1937年に首相。「私は平和の人」。ヒトラーの所へ三度飛んだ。飛行機に乗ったのは初めてだった。ミュンヘン。「我々の時代の平和」。1939年9月、宣戦。1940年5月、ノルウェーの失敗で退き、チャーチルに。半年後、癌で死んだ。
- 包囲された都市からできごとAD1870年包囲は、風に乗るものまでは止められなかった普仏戦争でパリが包囲され、鉄道も電信も断たれた。外へ連絡する手段として、気球が使われる。駅舎を工場にして気球を縫い、水夫や志願者が乗り込んで、風まかせで飛び立った。四か月で六十以上が上がり、二百万通を超える手紙と、伝書鳩を運んだ。鳩は縮小した文書を持って戻り、幻灯で拡大して読まれる。着地した先はノルウェーやドイツ領のこともあり、捕まった者もいた。包囲は、人と物は止められても、風に乗るものまでは止められないことを示した。パリ
- ドイツ帝国の成立できごとAD1871年1月18日ヨーロッパの均衡が崩れた出発点プロイセンがフランスを破り、ヴェルサイユ宮殿で帝国の成立を宣言した。ヨーロッパの均衡が崩れる。ヴェルサイユ
- チャーチル人物AD1874年11月30日 – AD1965年1月24日英国が単独で枢軸に向き合った時期を率いた。戦後は「鉄のカーテン」を名づける。
- ヨシフ・スターリン人物AD1878年12月18日 – AD1953年3月5日30年ソ連を握った。工業化を急いだ代償に数百万人が餓死し、粛清でさらに多くが殺された。
- アインシュタイン人物AD1879年3月14日 – AD1955年4月18日核開発を促す手紙に署名し、後に悔いた時間と空間が絶対でないと示した。核兵器の開発を促す手紙に署名し、後に悔いる。
- エンヴェル・パシャ人物AD1881年11月22日 – AD1922年8月4日サルカムシュの雪イスタンブール。参謀将校。1908年、マケドニアの山で反乱の英雄。「自由の英雄」。1913年、クーデターで陸相。皇族の娘と結婚した。ドイツと組んで大戦に。1914年12月、サルカムシュで9万人をカフカスの雪で凍死させた。アルメニアの追放と虐殺の責任者の一人。1918年、ドイツの潜水艦で逃げ、ソ連に行き、中央アジアでバスマチの反乱に加わって、赤軍に撃たれた。
- フランクリン・ローズヴェルト人物AD1882年1月30日 – AD1945年4月12日ニューディールで恐慌に対処し、大戦を指導した。終戦を見ずに死ぬ。
- ベニート・ムッソリーニ人物AD1883年7月29日 – AD1945年4月28日ファシズムという言葉を作り、ヒトラーより先に政権を取った。エチオピアに毒ガスを使う。
- ハリー・トルーマン人物AD1884年5月8日 – AD1972年12月26日原爆の使用を決め、冷戦の封じ込め政策を始めた。副大統領になって82日で大統領になっている。
- パットン人物AD1885年11月11日 – AD1945年12月21日私は戦争が好きだ象牙の柄のリボルバー。1912年の五輪で近代五種。シチリアで神経症の兵を殴って解任されかけた。第3軍でフランスを横断し、バルジで3日で向きを変えてバストーニュへ。「私は戦争が好きだ」。戦後、ソ連と戦えと言い、ドイツで交通事故で死んだ。
- 蒋介石人物AD1887年10月31日 – AD1975年4月5日国民党を率いて中国を統一しかけ、日本と戦い、内戦に敗れて台湾へ渡った。
- モントゴメリー人物AD1887年11月17日 – AD1976年3月24日戦争は準備で勝つ「モンティ」。第一次大戦で肺を撃たれた。1942年、第8軍。エル・アラメイン。シチリア、イタリア、ノルマンディーの地上軍を指揮した。マーケット・ガーデンで失敗した。傲慢でアイゼンハワーと衝突し続けた。ベレー帽。禁酒禁煙。「戦争は準備で勝つ」。
- ルース・ベネディクト人物AD1887年6月5日 – AD1948年9月17日日本へ行かないまま、戦時情報局の依頼で日本人論を書いた文化人類学者。人種に優劣は無いと戦前から主張し続けた人でもある。
- ヒトラー人物AD1889年4月20日 – AD1945年4月30日合法的に権力を得て独裁を敷き、戦争とホロコーストを引き起こした。民主制が自ら独裁を選びうることを示した例として残る。
- シャルル・ド・ゴール人物AD1890年11月22日 – AD1970年11月9日ロンドンから抵抗を呼びかけ、戦後に第五共和政を作った。アルジェリアの独立を認めたのもこの人になる。
- モロトフ人物AD1890年3月9日 – AD1986年11月8日火炎瓶に名を残した「ハンマー」。スターリンの最も忠実な部下。1939年、外相になってリッベントロップと署名した。1941年6月22日、開戦をラジオで国民に告げた。「勝利は我々のもの」。妻はユダヤ人で、1948年に離婚し、翌年、彼女は逮捕された。スターリンの死後、二人はまた暮らした。火炎瓶に名を残した。1986年、96歳まで生きた。
- パウルス人物AD1890年9月23日 – AD1957年2月1日元帥は降伏しない参謀出身の第6軍司令官。スターリングラードで包囲され、ヒトラーは降伏を禁じて元帥にした。「ドイツの元帥は降伏しない」。翌日、降伏した。ソ連の捕虜としてナチスを批判する放送をし、ニュルンベルクで証言した。東ドイツのドレスデンで死んだ。
- 栗林忠道人物AD1891年7月7日 – AD1945年3月26日玄関の隙間風長野の生まれ。アメリカに2年駐在し、車で大陸を横断した。「アメリカと戦ってはいけない」。硫黄島の司令官。万歳突撃を禁じ、地下に潜って持久した。家族に「お勝手の床下から吹き込む隙間風を直しておくように」と手紙を書いた。最後は兵と共に突撃して、遺体は見つかっていない。
- ハイレ・セラシエ1世人物AD1892年7月23日 – AD1975年8月27日イタリアの侵略を国際連盟で訴え、聞き入れられなかった。その演説はいま集団安全保障の失敗の記録として読まれる。
- ハーグ平和会議できごとAD1899年5月18日戦争に法の枠をはめるロシア皇帝ニコライ2世の呼びかけで、1899年5月、26か国の代表がオランダのハーグに集まった。軍備の競争を止めることが表向きの目的だったが、軍備を減らす約束はまとまらなかった。そのかわり、国どうしの争いを裁判のような手続きで解く常設の仲裁裁判所を作り、陸の戦争で捕虜や住民をどう扱うかの決まりを条約にした。毒ガスを撒く砲弾、体の中で広がる弾丸、気球からの爆弾の使用を禁じる宣言も出された。1907年の2回目の会議には44か国が集まる。戦争を禁じることはできなくても、戦争に法の枠をはめる試みだった。ハーグ
- 杉原千畝人物AD1900年1月1日 – AD1986年7月31日本国の指示に反してビザを書きつづけたリトアニアの領事館で、本国の指示に反して日本通過のビザを書きつづけた。一か月で2000通あまり。それで6000人が逃げたとされる。
- 飛行船できごとAD1900年気球は風に流されるままだが、骨組みを持ち、発動機で進む船なら航路を選べる。退役軍人のツェッペリン伯は私財と寄付を集め、ボーデン湖の上に浮かぶ格納庫で巨大な飛行船を組み立てた。1900年の初飛行は十八分で終わり、失敗と書かれたが、改良は続く。第一次世界大戦ではロンドンを爆撃し、戦後は大西洋を越える定期の旅客輸送を担った。船室で食事をし、寝台で眠って海を渡る。速さでは飛行機に劣っても、快適さでは勝っていた。フリードリヒスハーフェン
- 昭和天皇人物AD1901年4月29日 – AD1989年1月7日在位62年。戦争と敗戦、そして象徴としての戦後を通した。
- 血液型の発見できごとAD1901年血液銀行輸血は17世紀から試みられ、しばしば患者を殺した。ラントシュタイナーは、同僚と自分の血を組み合わせ、混ぜると固まる組と固まらない組があることに気づいた。A、B、C(後のO)。翌年、弟子がABを見つけた。合う血を選べば輸血は安全になる。第一次大戦で輸血が実用になり、クエン酸ナトリウムで凝固を止め、冷やして運ぶ「血液銀行」が生まれた。彼は1930年にノーベル賞。後にRh因子も見つけた。ウィーン
- 安全剃刀できごとAD1901年剃刀を自分で研ぐのは技がいる。だから男は床屋へ通った。1901年、キング・ジレットが、使い捨ての薄い刃を挟む剃刀を売り出す。本体を安く配り、刃で儲ける売り方の原型になった。第一次世界大戦で、アメリカ軍が兵に配る。防毒面を顔に密着させるには髭が邪魔だった、という事情もある。帰還した兵が家でも剃るようになり、床屋へ行く回数が減った。やがて同じ会社が女性向けの剃刀を売り、脇と脚を剃る習慣を広告で作っていく。ボストン
- 旅順攻囲戦できごとAD1904年8月19日機関銃と鉄条網の要塞乃木の第三軍が要塞を5か月囲み、203高地を取るまでに6万人の死傷者を出した。乃木は二人の息子をここで失った。機関銃と鉄条網とコンクリートの要塞に歩兵で向かう戦争の、最初の大きな例になる。旅順

- ロバート・オッペンハイマー人物AD1904年4月22日 – AD1967年2月18日ロスアラモスで原爆の開発を率いた。戦後は水爆に反対し、赤狩りのなかで公職を追われる。
- マジマジ蜂起できごとAD1905年ドイツ領東アフリカで、綿花の強制栽培に対して蜂起した。「マジ」は水を意味する。聖水を浴びれば弾が水に変わると信じられた。25万から30万が死んだとされる。ソンゲア
- 日本海海戦できごとAD1905年5月27日ヨーロッパの大国に海で勝った7か月かけて地球を半周してきたバルチック艦隊を、連合艦隊が対馬沖で2日で沈めた。ロシア側は38隻のうち21隻を失い、日本は水雷艇3隻。アジアの国がヨーロッパの大国に海で勝った最初。対馬沖(位置は特定されていない)

- ポーツマス条約できごとAD1905年9月5日ローズヴェルトの仲介セオドア・ローズヴェルトの仲介で、小村寿太郎とウィッテが結んだ。韓国の指導権、旅順・大連、南満洲鉄道、樺太の南半分。賠償金はなし。日本にはもう戦う金も兵もなかった。ポーツマス(ニューハンプシャー)
- ドレッドノートの進水できごとAD1906年2月10日英独の建艦競争1906年2月10日、イギリスのポーツマスの造船所で、新しい戦艦ドレッドノートが国王エドワード7世の手で進水した。それまでの戦艦は、大きさの違う砲をいくつも積んでいたが、ドレッドノートは同じ大口径の砲を10門そろえ、蒸気タービンで当時としては速い21ノットを出した。起工からおよそ1年で就役している。この一隻で、世界のすべての戦艦が一度に古くなった。ドイツはすぐに同じ型の戦艦を造り始め、英独の建艦の競争は第一次世界大戦へとつながる。日本語の「弩級」「超弩級」は、この艦の名の頭の音から来ている。ポーツマス(イギリス)
- 盗まれた世代できごと1910年先住民の子どもが、同化のために家族から引き離され施設や里親に預けられた。数は分かっていないが、10人に1人から3人に1人と推定される。2008年に首相が謝罪した。シドニー
- バルカン戦争できごとAD1912年小国の戦争が、同盟を通じて世界に広がったオスマン帝国が弱ると、バルカン半島の小国たちは残る領土を狙った。1912年、セルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロが同盟を組んで攻め、オスマンはヨーロッパの領土のほとんどを失う。翌年、分け前をめぐって、今度はブルガリアとかつての同盟国が戦った。勝ったセルビアは勢いづき、オーストリアとの対立を深める。一年後、サラエヴォで放たれた銃弾が、この半島の争いを世界大戦に変えた。ハドリアノポリス(エディルネ)
- ファスナーできごとAD1913年靴のボタンを留めるのは面倒だ、という不満から始まった。最初の試作は外れやすく、二十年ほど売れない。1913年、ギデオン・サンドバックが、同じ形の歯をかみ合わせる方式にたどり着いた。第一次世界大戦で軍が採用し、金の袋と救命胴衣に使われる。服に入るのはさらに後で、子ども服が最初だった。自分で着替えられるから、という理由である。1930年代、男性のズボンに採用されると一気に広まった。名は、閉じるときの音から付いた擬音語である。ミードビル
- 第一次世界大戦できごと1914年サラエヴォの一発から、同盟の連鎖で世界が巻き込まれた。塹壕と機関銃と毒ガスで1000万人が死ぬ。サラエヴォ

- マルヌの戦いできごとAD1914年9月6日タクシー600台開戦から5週間、ドイツ軍はパリの40キロ手前まで来ていた。シュリーフェン計画。右翼が内側に曲がり、パリの守備隊がタクシー600台で兵を運んで側面を突いた。ドイツは退いた。「奇跡」。それから塹壕が海まで伸び、4年動かなかった。マルヌ(モー)

- 捕虜の消息を集めるできごとAD1914年8月21日一人ひとりの名前を、カード一枚として扱った第一次世界大戦が始まって三週間、ジュネーヴの赤十字国際委員会は、美術館の建物を借りて捕虜の消息を扱う窓口を開いた。家族からは「息子は生きているか」という手紙が届き、交戦国からは捕らえた兵の名簿が届く。その二つを突き合わせるために、名前ごとに一枚のカードを作り、国籍と身分で分けて並べた。ボランティアは千人を超え、戦争が終わるころ、カードは六百万枚を超えていた。消息が分かれば家族に知らせ、手紙と小包の通り道にもなった。一人ひとりの名前を、国の数ではなく紙の一枚として扱う仕組みだった。ジュネーヴ
- クリスマス休戦できごとAD1914年12月24日無人地帯での握手1914年のクリスマス・イヴ、ベルギーのイーペルのまわりなど西部戦線の各地で、ドイツ軍の塹壕の縁に、ろうそくを灯したクリスマス・ツリーが並んだ。「きよしこの夜」の歌声が聞こえ、向かいのイギリス兵も歌で応えた。翌日、両軍の兵士たちは誰の命令もなく塹壕を出て、敵味方の間の無人地帯で握手し、たばこや食べ物、軍服のボタンを交換し、倒れたままの仲間を一緒に葬った。サッカーをしたという話も残る。司令部はこれを嫌い、翌年からは厳しく禁じた。戦争はこのあと4年近く続いた。イーペル
- ガリポリの戦いできごと1915年連合軍が撤退した。オーストラリアとニュージーランドでは、この犠牲が国民意識の原点として記憶される。ガリポリ

- アルメニア人虐殺できごとAD1915年4月24日何と呼ぶかが、百年後も争いになる第一次世界大戦のさなか、オスマン帝国の政府は、帝国内のアルメニア人がロシアに通じていると疑った。1915年4月24日、首都でアルメニア人の知識人や指導者が一斉に逮捕される。続いて各地のアルメニア人がシリアの砂漠へ向けて移送され、途中で殺され、あるいは飢えと渇きで死んだ。死者は数十万から百五十万人と推計される。のちに法学者レムキンがジェノサイドという言葉を作ったとき、念頭にあった例の一つがこれだった。トルコ政府はいまも、ジェノサイドと呼ぶことを認めていない。コンスタンティノープル
- ルシタニア号の撃沈できごとAD1915年5月7日民間人の船が標的になったイギリスを海上封鎖で締め上げるため、ドイツは潜水艦で商船も沈めると宣言していた。1915年5月7日、ニューヨークからリヴァプールへ向かう大型客船ルシタニア号が、アイルランド沖で魚雷を受け、十八分で沈んだ。千二百人近くが死に、その中には百人を超えるアメリカ人がいた。船は弾薬も積んでいた。アメリカの世論はドイツへの怒りに燃えたが、参戦はまだ二年先になる。民間人を乗せた船が戦争の標的になった。キンセール沖(位置は特定されていない)
- イーペルの毒ガスできごとAD1915年4月22日毒ガスの始まり1915年4月22日の夕方、ベルギーのイーペルの北で、ドイツ軍は塹壕に並べた五千本あまりのボンベの栓を開け、170トンほどの塩素を風に乗せて流した。黄緑色の雲が、アルジェリアの兵とフランスの兵の塹壕に流れ込み、兵は喉と肺を焼かれて逃げ出した。前線に数キロの穴が開いたが、ドイツ軍にも突破に回す兵がなく、カナダ兵がその穴をふさいだ。大がかりな毒ガスの使用はこれが初めてで、指揮したのは化学者フリッツ・ハーバーだった。以後、両軍がガスを撃ち合い、1917年にここで使われたマスタードガスは、町の名から「イペリット」と呼ばれる。イーペル
- ソンムの戦いできごとAD1916年7月1日初日に5万7000人7日間の砲撃のあと、イギリスの新軍が横一列で歩いて出た。初日に5万7000人が倒れ、1万9000人が死んだ。イギリス軍史上最悪の一日。9月、戦車が初めて出た。11月まで。100万人の死傷者で、前線は10キロ動いた。「失われた世代」の言葉はここから。ソンム(アルベール)

- ユトランド沖海戦できごとAD1916年5月31日戦術で勝ち戦略で負けたイギリス151隻、ドイツ99隻。史上最大の戦艦の戦い。イギリスの巡洋戦艦が3隻爆発した。「今日は我々の忌々しい艦に何か問題があるようだ」。ドイツの艦隊は、二度と決戦を挑まなかった。戦術で勝ち、戦略で負けた。海の封鎖は続いた。ユトランド沖
- 時計を一時間進めるできごとAD1916年4月30日時計の針は、太陽ではなく国が決めるものになったイギリスの建築業者ウィリアム・ウィレットは、夏の朝、日が昇っているのに人々が寝ているのを惜しみ、夏のあいだだけ時計を進めようと唱えた。議会は相手にしなかった。実行したのは、第一次世界大戦のさなかのドイツである。1916年4月30日の夜十一時、ドイツとオーストリア=ハンガリーは時計を一時間進めた。夕方の明かりに使う石炭を節約するためだった。三週間後にはイギリスも追いかけた。時計の針は太陽の位置ではなく、国が決めるものになった。日本も占領下の四年間だけ、この制度を試している。ベルリン
- 無制限潜水艦作戦できごとAD1917年2月1日アメリカを引き込んだ封鎖で飢えたドイツが、警告なしに商船を沈めると宣言した。「イギリスを5か月で屈服させる。アメリカが参戦する前に」。4月、アメリカが参戦した。船団方式で沈没は減り、5か月後にイギリスは屈服せず、ドイツは1年半後に降伏した。ベルリン

- 二月革命(ロシア)できごとAD1917年3月8日(露暦2月23日)1週間で300年が終わった国際女性デーにペトログラードの女工がパンを求めて出た。5日で守備隊が加わった。皇帝は列車の中で退位した。300年のロマノフ朝が1週間で終わった。臨時政府とソヴィエトが並び、戦争は続いた。8か月後、レーニン。サンクトペテルブルク

- ツィンメルマン電報できごとAD1917年暗号を解く力が、戦争の行方を変えた1917年1月、ドイツの外務大臣ツィンメルマンは、メキシコの政府に暗号の電報を送った。アメリカが参戦するなら、ドイツと組んでアメリカと戦ってほしい、勝てばテキサスなどの失った土地を取り戻させる、という申し出である。イギリスの暗号解読班がこれを読み解き、アメリカに渡した。3月に新聞で公表されると、中立を保ってきたアメリカの世論は一気に傾く。4月6日、アメリカは参戦した。暗号を解く力が、戦争の行方を変えた。ワシントンD.C.
- フィンランドの独立できごとAD1917年12月6日フィンランドは六百年ほどスウェーデンの一部で、1809年からはロシア皇帝を大公とする大公国だった。自前の議会と通貨を持ったが、19世紀の末からロシア化の圧力が強まる。1917年、ロシアで革命が起きて帝国が崩れると、12月6日、フィンランドの議会は独立の宣言を承認した。年末にはレーニンの政府も独立を認める。だが翌1918年1月、国は社会主義の赤衛隊と、マンネルヘイムが率いる白衛隊に割れて内戦になり、ドイツの支援を受けた白衛隊が5月に勝った。三か月半の内戦と、その後の収容所で、三万数千人が死んだ。ヘルシンキ
- スペイン風邪できごと1918年大戦の死者を上回るのに長く忘れられていた世界で5000万人以上が死んだとされる。大戦の死者を上回るのに、長く忘れられていた。

- ブレスト・リトフスク条約できごとAD1918年3月3日全部飲んだレーニンは戦争を終えるためにドイツの条件を全部飲んだ。ポーランド、バルト、ウクライナ、フィンランド。人口の3分の1、耕地の半分、工業の半分。トロツキーは「戦争でも平和でもない」と席を立ち、ドイツが進軍して、飲んだ。8か月後、ドイツが負けて紙になった。ブレスト・リトフスク

- 十四か条の平和原則できごとAD1918年1月8日言った国が最初に捨てたウィルソンが議会で読んだ。秘密外交の廃止、海洋の自由、軍備縮小、民族自決、国際連盟。ドイツはこれを信じて休戦を求め、ヴェルサイユで違うものを受け取った。アメリカ議会は連盟を拒んだ。理想は、言った国が最初に捨てた。ワシントンD.C.

- キール軍港の水兵反乱できごとAD1918年11月3日革命が戦争を終わらせた海軍が「名誉のために」艦隊を最後に出撃させようとし、水兵が火を落とした。キールで4万人が労兵評議会を作った。1週間でドイツ中の都市に広がり、9日にベルリンで共和国が宣言され、皇帝はオランダへ。11日、休戦。革命が戦争を終わらせた。キール
- シェール・アミできごとAD1918年10月4日無線の無い森から、最後の一羽が砲撃を止めた第一次世界大戦の終わり近く、アルゴンヌの森で、アメリカ軍の一個大隊がドイツ軍に囲まれて孤立した。数日目、味方の砲兵が、大隊のいる場所をドイツ軍の陣地と取り違えて砲撃を始めた。無線は無い。指揮官は、残る最後の伝書鳩に「我々の砲撃が我々の上に落ちている。頼むから止めてくれ」と書いた紙を託した。鳩は撃たれて胸と脚に傷を負いながら、四十キロ離れた鳩舎まで飛び、砲撃は止んだ。生き残った兵は二百人足らずだった。フランス語で「親しい友」という名のこの鳩は、いまもワシントンの博物館にいる。アルゴンヌの森(位置は特定されていない)
- ロシア内戦できごとAD1918年内戦の非常の手法が、平時の統治に革命で権力を握ったボリシェヴィキに対し、旧軍の将校、農民、民族の独立を求める人びとが各地で立ち上がった。赤軍と白軍の戦いに、イギリス、フランス、アメリカ、日本の軍が干渉し、日本はシベリアに最も長く兵を置いた。ボリシェヴィキは穀物を強制的に取り立て、秘密警察で反対を潰して勝ち残る。戦闘と飢饉と疫病で、七百万から千二百万人が死んだと推計される。1922年、ソヴィエト社会主義共和国連邦が生まれた。モスクワ
- シベリア出兵できごとAD1918年得たものは無く、不信が残ったロシアの革命のあと、捕らえられていたチェコの軍団を救うという名目で、1918年、アメリカ、イギリス、フランス、日本がシベリアに兵を送った。日本は約束の数をはるかに超える七万を送り込み、勢力を広げようとする。革命のパルチザンとの戦いは泥沼になり、ニコラエフスクでは日本人の居留民が殺される事件も起きた。各国が兵を引いたあとも日本は居座り、撤兵したのは1922年だった。得たものは無く、多くの死者と費用と、国際的な不信が残った。ウラジオストク
- ヴェルサイユ条約できごとAD1919年6月28日この終わらせ方が20年後を呼ぶ敗戦国に過酷な賠償を課した。この不満が20年後の戦争の土壌になる。ヴェルサイユ

- 最初のラジオ放送できごとAD1920年11月2日ヒトラーもローズヴェルトもウェスティングハウス社の技師が、大統領選挙の開票を電波に乗せた。局名KDKA。聴取者は数百人。無線は、それまで船と船、軍と軍が一対一で交わすものだった。これを、名も知らぬ多数へ一方的に送る(放送する)という考え方が生まれた。5年で全米に500局。音楽と、野球と、そして広告。政治家の声が、家の中に入った。ヒトラーもローズヴェルトも、この装置を使った。ピッツバーグ
- 無名戦士の墓できごとAD1920年11月11日誰でもない一人を葬ることで、誰もがそこに我が子を置けた第一次世界大戦のイギリスの戦死者のうち、何十万人かは、遺体が見つからないか、誰か分からなかった。従軍牧師デイヴィッド・レイルトンは、前線で「名も知れぬイギリス兵」と書かれた十字架を見て、その一人を国の真ん中に葬ることを思いつく。1920年11月、いくつかの戦場から掘り出された遺体が並べられ、准将が、どこの遺体か知らされないまま一つを選んだ。誰であるかを、誰も知らない。11月11日、その棺はウェストミンスター寺院に納められた。同じ日、フランスも一人を凱旋門へ運んだ(その下に葬ったのは翌年1月)。遺族は、そこに自分の息子がいるかもしれないと思うことができた。ロンドン
- 国際連盟の発足できごとAD1920年1月10日提唱した国が加わらなかった第一次世界大戦のあと、二度と戦争を起こさないために、国々が集まって争いを話し合いで解く常設の組織が作られた。1920年1月10日、ジュネーヴに本部を置いて国際連盟が発足する。提唱したのはアメリカの大統領ウィルソンだったが、アメリカの議会は加盟を認めなかった。日本は常任の理事国となり、新渡戸稲造が事務次長を務めた。難民や衛生や労働の分野では成果を残したが、大国の侵略を止める力は無かった。その反省から国際連合が作られる。ジュネーヴ
- ナンセン・パスポートできごとAD1922年52か国が受け入れた第一次大戦とロシア革命の後、国籍を失った人が数百万人いた。旅券がなければ国境を越えられず、働けず、しかしどこにも帰れない。国際連盟の難民高等弁務官フリチョフ・ナンセン(探検家である)が、無国籍者に発行する身分証を作らせた。52か国が受け入れ、45万人以上が使った。ストラヴィンスキー、シャガール、ラフマニノフ、ナボコフが持った。旅券という近代の装置が、逆に、旅券を持てない人を作り出したことへの、最初の応急処置だった。ジュネーヴ

- ローマ進軍できごとAD1922年10月28日暴力の威しが、合法の手続きで権力に第一次世界大戦のあと、イタリアでは物価が上がり、工場の占拠やストライキが続いた。ムッソリーニの率いる黒シャツ隊は、社会主義者を暴力で襲い、秩序を守る者として地主や経営者の支持を集める。1922年10月28日、彼らはローマへ向けて行進を始めた。軍で鎮めることはできたが、国王は戒厳令への署名を拒み、ムッソリーニを首相に任じる。暴力の威しが、合法の手続きで権力に変わった。ファシズムが国を握った最初の例である。ローマ
- 南洋群島の委任統治できごとAD1922年委任統治の島が、海軍の前線になる1914年、第一次世界大戦に加わった日本は、赤道の北に散らばるドイツ領の島々(マリアナ・カロリン・マーシャル)を占領した。戦後、国際連盟はここを日本の委任統治領とし、1922年、パラオのコロールに南洋庁が置かれる。サトウキビの畑と製糖の会社が開かれ、沖縄などから移り住んだ日本人は、1930年代の半ばには島の人々の数を上回った。学校では日本語が教えられた。連盟を脱退したあとも日本は島を手放さず、やがて海軍の拠点が築かれて、島々は太平洋の戦場になっていく。コロール
- ワシントン海軍軍縮条約できごとAD1922年2月6日戦艦の数を縛る第一次世界大戦のあと、アメリカ、イギリス、日本は、巨大な戦艦を次々に造る競争に入り、どの国の財政も悲鳴を上げていた。1921年、アメリカの呼びかけでワシントンに各国が集まり、会議の初日、アメリカの国務長官は、建造中の戦艦を含めて多くの艦を廃棄しようと、具体的な艦の名を挙げて提案した。翌年2月6日に結ばれた条約は、主力艦の保有量を、米英5・日本3・仏伊1.67の割合に抑え、10年間は新しい戦艦を造らないと決めた。軍備を数字で縛る、最初の大きな軍縮条約だった。日本の海軍の中では、この割合を受け入れるかどうかで深い亀裂が残った。ワシントンD.C.
- ミュンヘン一揆できごとAD1923年11月9日次は合法的にビアホールで州の首脳を拳銃で脅し、ルーデンドルフを担いで街を行進した。警察が撃ち、16人が死んだ。ヒトラーは肩を脱臼して逃げ、捕まった。裁判で演説し、5年の判決で9か月。獄で『わが闘争』を口述した。「次は合法的に」。ミュンヘン
- ドイツのハイパーインフレできごとAD1923年鞄一杯の札束でパンを買う1914年に1ドル4.2マルクだったものが、1923年11月に4兆2000億マルクになった。第一次大戦の戦費を国債で賄い、敗戦後は賠償と、ルール占領への消極的抵抗の費用を、紙幣の増刷で支えた。物価は数時間で変わり、賃金は日に二度払われ、鞄一杯の札束でパンを買った。年金と預金と生命保険が、紙になった。11月、レンテンマルクの発行で収まったが、中間層の貯蓄と、通貨への信頼と、共和国への支持が、同時に失われた。ベルリン
- インターポールの始まりできごとAD1923年9月7日鉄道と汽船が速くなると、犯罪者は国境を越えて逃げ、偽札や盗品も国から国へ渡るようになった。1923年9月7日、ウィーンの警察の長官ヨハネス・ショーバーの呼びかけで、20あまりの国の警察の代表がウィーンに集まり、国際刑事警察委員会を作った。各国の警察が、指名手配の情報や指紋、犯罪の記録を交換し合う仕組みである。1938年、ナチ・ドイツがオーストリアを併合すると、委員会はナチの手に落ちた。戦後の1946年に作り直され、のちに電報の宛名から「インターポール」と呼ばれるようになった。政治や宗教、人種に関わる事件には関わらないことを原則にしている。ウィーン
- ハチ公できごとAD1925年5月21日東京帝国大学の教授、上野英三郎の飼い犬は、毎日渋谷駅まで送り迎えをした。1925年5月21日、上野は勤務先で急死する。犬はそれから約九年、駅に通い続けた。駅員に追われ、子どもに叩かれた時期もある。1932年に新聞が取り上げると一変し、忠犬として全国に知られた。生前に銅像が建ち、戦時下では忠義の手本として使われる。犬が何を考えていたかは分からない。人の側が、そこに読み取りたいものを読み取った。像は撤去と再建を経て、いまも待ち合わせの目印になっている。東京
- 治安維持法できごとAD1925年4月22日思想を罰する法1925年4月22日、国の形(国体)を変えることや、私有財産の制度を否定することを目的に、結社を作ったり加わったりした者を罰する治安維持法が公布された。この年、25歳以上のすべての男に選挙権を与える法も成り、ソ連と国交を結んでいた。共産主義の広がりを抑える狙いだった。1928年には最高刑が死刑に引き上げられ、取り締まりの網は共産主義者から、労働運動、自由主義の学者、宗教団体へと広がった。特高警察の拷問で死んだ者も出た。1941年の改正では、刑期を終えた者を閉じ込め続けることもできるようになった。敗戦後の1945年10月、占領軍の指令で廃止された。東京
- 張作霖爆殺事件できごとAD1928年6月4日同盟者を自分で殺した蒋介石の北伐に負けて北京から奉天へ戻る列車を、関東軍の河本大作大佐が、南満洲鉄道との交差点で爆破した。満洲の軍閥を、日本が自分で殺した。田中義一首相は昭和天皇に処分を約束して、できず、天皇に叱られて辞めた。息子の張学良は国民政府についた(易幟)。3年後、柳条湖。奉天(瀋陽)

- 不戦条約できごとAD1928年8月27日戦争を違法にした条約1928年8月27日、パリで、15か国の代表が、国の政策の手段としての戦争を放棄し、争いは平和的な手段でだけ解くと約束する条約に署名した。フランスの外相ブリアンが持ちかけた米仏の約束を、アメリカの国務長官ケロッグが多くの国に広げたもので、のちに六十を超える国が加わる。日本も加わった。違反した国を罰する仕組みはなく、自衛のための戦いは認められると解釈された。各国は戦争を「事変」と呼び替えて戦い続け、条約は十年あまりで無力をさらけ出した。だが戦争を違法とする考えは残り、戦後の国際連合の憲章や、侵略を裁いた戦犯の裁判の土台になった。パリ
- 世界恐慌できごと1929年賠償の重荷に恐慌が重なったニューヨークの株価暴落が世界へ波及した。各国がブロック経済に閉じ、対立が深まる。ワシントンD.C.

- アンネ・フランク人物AD1929年6月12日 – AD1945年2月または3月600万という数を、一人の人間に戻す隠れ家で2年日記を書き、15歳で収容所で死んだ。600万という数を、一人の人間に戻す文章になっている。
- 昭和恐慌できごとAD1930年1930年1月、政府は金の輸出を解禁し、為替を戦前の相場に戻した。その直後、アメリカから始まった大恐慌が世界に広がる。輸出は激減し、生糸の値が暴落し、翌年には東北を冷害が襲った。農村では、弁当を持って来られない子どもが増え、娘を売る家まで現れた。都市では失業者があふれる。政党と財閥への怒りは、青年将校や右翼の暴力に向かい、五・一五事件へとつながっていった。仙台
- 創価学会の始まりできごとAD1930年11月18日小学校の校長だった牧口常三郎は、日蓮の仏教の教えに基づく教育の研究会を、1930年11月18日に作った。戦時中、国家神道の神札を祀ることを拒み、不敬の罪で捕らえられ、1944年に獄中で死ぬ。戦後、弟子の戸田城聖が会を立て直し、都市に出てきた人びとの間で急速に信者を増やした。のちに政党を作り、政治にも深く関わるようになる。戦後の日本で最も大きな新しい宗教の一つになった。東京
- 満洲事変できごとAD1931年9月18日自作自演の爆破から始まる関東軍が自ら鉄道を爆破し、それを口実に満洲を占領した。日本が国際連盟を脱退する契機になる。北京

- ホロドモールできごと1932年ウクライナで数百万人が餓死した。急いだ集団化と穀物の徴発が重なった人為の飢饉で、いまジェノサイドと認める国が多い。ハルキウ

- 五・一五事件できごとAD1932年5月15日暴力に甘い世論が、次の暴力を招いた1932年5月15日の夕方、海軍の青年将校らが首相官邸に押し入り、首相の犬養毅を撃った。話せば分かる、と言った犬養に、問答無用と応じたと伝えられる。政党と財閥の腐敗を正すと称した凶行だったが、世間には犯人に同情する声が広がり、減刑を求める嘆願が百万通を超えた。刑は軽く済む。この事件のあと、政党の党首が首相になる慣行は途絶え、戦後まで戻らなかった。暴力に甘い世論が、次の暴力を招いた。東京
- ナチスの政権掌握できごとAD1933年1月30日合法的に選ばれた政権が独裁へ移った選挙を経て合法的に政権を取り、そこから独裁へ移した。民主制が自ら独裁を選びうると示した例。ベルリン

- ニューディールできごとAD1933年3月9日恐慌は戦争で終わった就任の翌日、銀行を全部閉めた。「100日」。緊急銀行法、農業調整法、テネシー川流域開発公社、全国産業復興法、市民保全部隊、証券法。1935年、社会保障法、ワグナー法(労組の権利)、公共事業促進局。「恐れなければならないのは、恐れそのものだ」。炉辺談話。連邦政府が経済に手を入れる国になった。恐慌は終わらず、戦争で終わった。ワシントンD.C.

- 炉辺談話できごとAD1933年3月12日就任直後、ローズベルトは取り付け騒ぎを止めるために全国の銀行を閉めた。閉めたままでは終わらない。開けたときに、また人が押しかければ同じことになる。彼はラジオで、銀行に預けた金がどこへ行っているのかを、演説の口調ではなく、台所で話すような言葉で説明した。使った語の八割は、英語でもっともありふれた千語の中にあったという。翌日、多くの銀行が開いたが、行列はできなかった。名づけたのは放送局の側で、「炉辺談話」と呼ばれた。政治の言葉が、広場から家の中へ移った。ワシントンD.C.
- 国際連盟からの脱退できごとAD1933年3月27日孤立を誇りとして語った満洲事変のあと、国際連盟は調査団を送り、満洲国は住民の意思で生まれた国ではない、とする報告をまとめた。1933年2月24日、連盟の総会はこれを四十二対一で採択する。反対は日本だけだった。全権の松岡洋右は演説を終えると議場を出て、日本は3月27日に脱退を通告した。国内では、松岡は英雄として迎えられた。孤立は誇りとして語られ、日本は国際社会との話し合いの場を自ら離れた。ジュネーヴ
- 国会議事堂放火事件できごとAD1933年2月27日一夜の火事が、独裁への扉を開けたヒトラーが首相になって一か月足らずの1933年2月27日の夜、ベルリンの国会議事堂が炎に包まれた。現場で捕まったのは、オランダの若い共産主義者だった。ナチスは共産党の陰謀だと叫び、翌日、大統領の緊急令で、言論、集会、通信の秘密といった基本的な権利を停止させる。共産党の議員たちは次々に捕らえられた。三週間後、議会は政府に立法の権限を丸ごと委ねる法を可決する。一夜の火事が、独裁への扉を開けた。ベルリン
- 国民受信機できごとAD1933年1933年、政権を取ったナチスは、宣伝相ゲッベルスのもとで、安いラジオの受信機を作らせた。「国民受信機」である。値段はふつうのラジオの半分ほどで、月賦でも買えた。受信できる局は限られ、遠くの外国の放送は入りにくい作りだった。数年のうちにドイツの家庭のラジオは大きく増え、ヒトラーの演説は国じゅうの居間に流れた。戦争が始まると、外国の放送を聞くことは罪になり、重い刑が科された。新しいメディアを、国が丸ごと宣伝の道具にした例である。ベルリン
- イタリアのエチオピア侵攻できごと1935年毒ガスが使われた。国際連盟は止められず、集団安全保障が機能しないことがはっきりする。アディスアベバ
- ニュルンベルク法できごとAD1935年9月15日ユダヤ人から市民権を奪う1935年9月15日、ニュルンベルクで開かれていたナチ党の党大会に合わせて国会が招集され、二つの法が通された。帝国市民法は、ドイツの血を持つ者だけを市民とし、ユダヤ人から市民の権利を奪った。ドイツ人の血と名誉を守る法は、ユダヤ人とドイツ人の結婚と性的な関係を禁じた。では誰がユダヤ人なのか。血を測る方法は無かったので、11月の施行令は、祖父母のうち何人がユダヤ教の共同体に属していたかで人を分けた。人種の名による差別が、国の法になった。ロマや黒人にも同じ法が当てはめられ、3年後の水晶の夜へ、そして虐殺へと続いていく。ニュルンベルク
- アウトバーンの開通できごとAD1935年5月19日宣伝の道1933年に政権を握ったヒトラーは、全国に自動車専用の高速道路網を造る計画を打ち出し、その年の9月、フランクフルトで自ら最初の鍬を入れた。1935年5月19日、フランクフルトとダルムシュタットの間の最初の区間が開通した。交差点も信号も無く、上りと下りが分けられた道は、国民に車の時代を約束する宣伝の道具になり、国民車フォルクスワーゲンの計画とも結びついた。失業をなくすための事業と宣伝されたが、雇われた人の数は限られ、のちには捕虜や強制労働も使われた。高速道路の考え方自体は、ナチより前からイタリアやドイツにあった。フランクフルト
- 大粛清できごと1936年党と軍の幹部が自白のうえ処刑された。数十万人が銃殺され、さらに多くが収容所へ送られる。モスクワ

- ハイレ・セラシエの国際連盟演説できごとAD1936年6月30日侵略された国の元首が直接訴えたが、制裁は解かれた。「今日は我々、明日はあなたたちだ」という一節が残る。ジュネーヴ
- 西安事件できごとAD1936年12月12日内戦を止めろ共産党を討てと言われていた張学良が、満洲を日本に取られたまま、内戦を続けることに耐えられなくなって、督戦に来た蒋介石を華清池で捕らえた。「抗日のために内戦を止めろ」。周恩来が来て交渉した。ソ連が蒋を殺すなと言った。2週間で蒋は釈放され、口約束で国共合作。張学良は蒋について南京へ行き、54年、軟禁された。西安

- 有給休暇の夏できごとAD1936年1936年、フランスで人民戦線の内閣ができると、各地の工場でストライキが広がった。政府と経営者と労働組合の合意で、賃上げとともに、年に二週間の有給休暇が認められる。その夏、多くの労働者が、割引の鉄道切符で生まれて初めて海を見た。自転車で田舎へ出かける人も増える。休暇は、裕福な人だけのものではなくなった。夏になると都市が空になるフランスの習慣は、ここから始まる。休む権利は、働く権利と同じく、闘って得られた。パリ
- 二・二六事件できごとAD1936年2月26日鎮圧した側が、狙いの半分を手に入れた1936年2月26日の未明、雪の東京で、陸軍の青年将校らが千四百人ほどの兵を率いて決起した。大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実らを殺し、首相官邸や警視庁を占拠する。天皇を中心とする新しい国家を作ると称した。だが天皇は激しく怒り、反乱軍として鎮圧を命じる。兵は原隊へ帰れと呼びかけられ、29日に投降した。首謀者は処刑されたが、陸軍はこの事件を背景に政治への発言力をかえって強め、戦争への道が太くなった。東京
- スペイン内戦できごとAD1936年7月17日次の大戦の試し場1936年、左派の人民戦線が選挙で勝つと、7月17日、モロッコのスペイン軍が反乱を起こし、フランコ将軍が率いる内戦になった。ドイツとイタリアが反乱側に兵器と部隊を送り、ソ連が共和国側を助けた。イギリスとフランスは干渉しないとして手を引く。世界から、ファシズムと戦うために義勇兵が集まった。1939年4月、フランコが勝ち、独裁は彼が死ぬ1975年まで続く。この戦争は、次の大戦の新兵器と戦い方の試し場にもなった。マドリード
- ベルリン・オリンピックできごとAD1936年8月1日祭典の裏に、それぞれの抑圧ナチスのドイツは、1936年8月に開いたオリンピックを、国の力と秩序を世界に見せる舞台にした。ギリシャから聖火を走ってつなぐリレーは、この大会で始まる。記録映画も作られた。だが陸上ではアメリカの黒人の選手ジェシー・オーエンスが四つの金メダルを取る。マラソンでは、日本の選手として出場した朝鮮の孫基禎が優勝し、朝鮮の新聞が表彰の写真から胸の日の丸を消して載せ、発行を止められた。祭典の裏に、それぞれの国の抑圧が映っていた。ベルリン
- 日中戦争できごと1937年8年に及び、中国側の死者は1000万を超えるとされる。南京では大規模な虐殺が起きた。南京

- 南京事件できごと1937年日本軍が占領した南京で、多数の捕虜と市民が殺された。犠牲者の数は資料によって大きく違い、いまも論争が続く。南京

- 盧溝橋事件できごとAD1937年7月7日誰が最初に撃ったか北京の南西の橋の近くで夜間演習中の日本軍に、銃声。兵が1人いない(用便で、戻った)。翌朝、戦闘。現地で停戦したのに、東京が3個師団を送り、蒋介石が「最後の関頭」と言った。日中戦争。8年。誰が最初に撃ったか、いまも分からない。8月、上海。12月、南京。北京
- ヒンデンブルク号できごとAD1937年5月6日全長二百四十五メートルの飛行船が、着陸の直前に燃え上がり、三十数秒で骨組みだけになった。乗員乗客九十七人のうち三十五人と、地上の一人が死んだ。設計では不燃のヘリウムを使う予定だったが、産出国のアメリカが軍事物資として輸出を禁じていたため、燃える水素を詰めていた。現場には報道陣が集まっており、写真と映像と、泣き声混じりの実況が世界に流れた。飛行船による旅客輸送は、この一件で終わる。事故そのものより、それが映像で見られたことが大きかった。レイクハースト
- ゲルニカ爆撃できごとAD1937年4月26日都市を空から焼く戦争の始まりスペイン内戦のさなかの1937年4月26日、バスクの町ゲルニカは市の日だった。フランコ側を支援するドイツとイタリアの飛行機が、数時間にわたって町を爆撃した。軍の施設ではなく、町そのものが焼かれ、多くの市民が死んだ。パリにいたピカソは、この知らせを受け、万国博覧会のスペイン館のために巨大な白黒の絵を描く。ゲルニカである。都市を空から焼く戦争のやり方は、この後の大戦で世界中に広がった。ゲルニカ
- ミュンヘン会談できごとAD1938年9月30日我々の時代の平和チェコスロヴァキアのズデーテンを、当のチェコ抜きで英仏がヒトラーに渡した。チェンバレンは紙を振って「我々の時代の平和」。6か月後、ヒトラーはプラハに入った。「宥和」は、それ以来、譲歩の悪い名前になった。ミュンヘン
- 核分裂の発見できごとAD1938年1938年の暮れ、ベルリンの化学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンは、ウランに中性子を当てると、ずっと軽いバリウムができることに気づいた。意味が分からず、ユダヤ人として亡命していた元の共同研究者リーゼ・マイトナーに手紙で相談する。マイトナーと甥のフリッシュは、雪の中を歩きながら、原子核が二つに割れ、莫大なエネルギーを出したのだと解き明かした。数年後、それは原子爆弾になる。ノーベル賞はハーン一人に贈られた。ベルリン
- オーストリア併合できごとAD1938年3月12日抵抗なく迎えられた併合ドイツ語を話すオーストリアを一つのドイツに加えることは、ヒトラー自身の故郷をめぐる夢でもあった。オーストリアの首相が独立を問う国民投票を行おうとすると、ドイツは圧力をかけて辞めさせ、1938年3月12日、軍を国境の向こうへ入れた。抵抗はなく、ウィーンでは多くの市民が歓迎した。その直後から、ユダヤ人たちは街頭で歩道を磨かされるなどの辱めを受ける。イギリスとフランスは抗議にとどまり、ヒトラーは次にチェコスロヴァキアへ目を向けた。ウィーン
- 水晶の夜できごとAD1938年11月9日迫害が、法から暴力へ移った夜パリでドイツの外交官がユダヤ人の青年に撃たれた事件を口実に、1938年11月9日の夜から翌日にかけ、ドイツ各地でユダヤ人の商店や住宅や礼拝堂が襲われた。千を超える礼拝堂が焼かれ、割られたガラスが通りに散らばったことから、水晶の夜と呼ばれる。百人近くが殺され、三万人ほどの男性が強制収容所に送られた。しかもユダヤ人の側に、被害の賠償金が科された。警察も消防も、ユダヤ人の建物を守らなかった。迫害が、法から暴力へ移った夜だった。ベルリン
- 国家総動員法できごとAD1938年4月1日議会が自分の手で自分を空にした中国との戦争が長引くと、政府は国の人と物のすべてを戦争に振り向ける権限を求めた。1938年4月1日に公布された国家総動員法は、議会の承認を経ずに、政府が勅令で賃金や物価、物資の配分、労働者の徴用、新聞の記事まで統制できるようにする。審議の場で、軍の説明員が議員に黙れと怒鳴った事件もあった。議会は自ら、国の大事を決める権限を手放した。東京
- キンダートランスポートできごとAD1938年12月2日一万人の子どもを逃がす1938年11月の水晶の夜のあと、イギリスは、ナチ・ドイツの支配下にいるユダヤ人の17歳以下の子どもを、親を伴わずに受け入れることを決めた。1938年12月から第二次世界大戦が始まる翌年9月まで、ドイツ、オーストリア、チェコスロヴァキアなどから、およそ一万人の子どもが列車と船でイギリスへ渡った。受け入れの費用は民間が保証し、子どもたちは里親の家や施設に引き取られた。駅のホームで親と別れた子どもの多くは、二度と親に会えなかった。親たちは、その後ホロコーストで殺された。ロンドン
- 第二次世界大戦できごと1939年人類史で最大の戦争。軍民あわせて5000万人以上が死に、世界の枠組みが作り替えられた。ベルリン
- 独ソ不可侵条約できごとAD1939年8月23日一晩で組んだ10年憎み合った二人が、一晩で組んだ。秘密議定書でポーランドとバルトとフィンランドとベッサラビアを分けた。8日後、ドイツがポーランドに入り、17日後にソ連が東から入った。世界はソ連の議定書の存在を1989年まで公式に知らなかった。モスクワ
- ノモンハン事件できごと1939年5月開戦の2年前。ここで学ばなかった関東軍が中央の意向を無視して始め、ソ連の機械化部隊に敗れた。負けを負けとして扱わず、参加した参謀が処罰されずに次の作戦を立てていく。ノモンハン(ハルハ河畔)(位置は特定されていない)

- 冬戦争できごとAD1939年11月30日小国が大軍を食い止めた冬独ソ不可侵条約でフィンランドをソ連の勢力の範囲に置いたスターリンは、レニングラードに近いカレリア地峡の国境を下げるよう求め、フィンランドは拒んだ。1939年11月30日、ソ連軍が攻め込み、ヘルシンキに爆弾が落ちた。人口370万の小国は、雪の森をスキーで動く部隊と、マンネルヘイム線の守りで大軍を食い止め、ソ連は国際連盟から除名される。翌年2月、ソ連は兵と砲を増やして守りを破り、3月の講和でフィンランドは国土の一割ほどを譲った。独立は守ったが、四十万人が故郷を離れた。カレリア地峡(位置は特定されていない)
- 大西洋の戦いできごとAD1939年9月3日Uボートと船団島国イギリスは、食料と燃料と武器の多くを、大西洋を渡ってくる船に頼っていた。第二次世界大戦が始まると、ドイツは潜水艦Uボートでこの命綱を断とうとした。Uボートは群れをなして夜の海で船団を襲い、イギリスは船を船団にまとめ、護衛の艦と飛行機で守った。チャーチルは、戦争中に本当に恐ろしかったのはUボートの脅威だけだったと書いている。1943年の春、護衛の空母、長距離の哨戒機、レーダー、暗号の解読がそろうと形勢は逆転し、5月だけで40隻を超えるUボートが沈んだ。戦争の全期間を通じて続いた、最も長い戦いだった。北大西洋(位置は特定されていない)
- エニグマの解読できごとAD1940年ポーランドの研究を引き継ぎ、機械で機械の暗号を解いた。従事した数千人は戦後30年、この仕事について話すことを許されなかった。ブレッチリー・パーク
- カティンの森できごとAD1940年4月2万2000人ソ連がポーランドの将校、警官、知識人2万2000人を後頭部から撃った。1943年にドイツが森で見つけて発表し、ソ連は「ドイツがやった」と言い続けた。連合国は黙った。1990年、ゴルバチョフが認めた。2010年、追悼に向かうポーランド大統領機がスモレンスクで落ちた。カティン

- ダンケルクの撤退できごとAD1940年5月26日漁船と遊覧船フランス北部で包囲されたイギリス軍とフランス軍33万8000人を、駆逐艦と漁船と遊覧船の800隻が9日で海峡を渡して運んだ。ヒトラーの戦車が2日止まった理由は、いまも論じられている。「撤退で戦争は勝てない」とチャーチルは言い、それから「我々は浜で戦う」と言った。ダンケルク

- バトル・オブ・ブリテンできごとAD1940年7月10日これほど少ない人に上陸の前に制空権を。ドイツ空軍が飛行場を、それからロンドンを、3か月爆撃した。レーダーとスピットファイアと、ポーランド人とチェコ人の操縦士。「これほど多くの人が、これほど少ない人に、これほど多くを負ったことはない」。ヒトラーは上陸をやめ、東を向いた。ロンドン

- 襟のクリップできごとAD1940年代小さな道具が、国の物語を背負った針金を二重に曲げたクリップは、十九世紀末のイギリスで作られていた。ノルウェーの特許局の職員ヨハン・ヴォーラーも、似た形の特許を取っている。ドイツに占領された1940年代、ノルウェーの人びとは服の襟にクリップを付けた。まとめる、つなぐ、という意味を込めた、声に出さない抵抗の印である。占領当局はこれを禁じた。戦後、クリップはノルウェー人の発明だという話が広まり、巨大なクリップの像まで建てられた。小さな道具が、国の物語を背負った。オスロ
- 『独裁者』できごとAD1940年10月15日声の無い映画にこだわってきたチャールズ・チャップリンは、初めて全編で台詞を語る映画に、ヒトラーを笑いものにする話を選んだ。撮影はヨーロッパで戦争が始まった直後に始まる。1940年10月15日、ニューヨークで公開された。独裁者と瓜二つのユダヤ人の床屋が、最後に独裁者の代わりに演壇に立ち、憎しみでなく人間らしさを、と長い演説をする。のちにチャップリンは、強制収容所の実態を知っていたら作れなかった、と語った。ニューヨーク
- ロンドン大空襲できごとAD1940年9月7日都市を焼くやり方が当たり前になった空の戦いでイギリスの空軍を倒せなかったドイツは、1940年9月7日から、ロンドンなどの都市を夜ごと爆撃した。八か月あまりのあいだに、四万人を超える市民が死ぬ。人びとは地下鉄の駅のホームで夜を明かし、子どもたちは田舎へ疎開した。爆撃は、市民の心を折って降伏させるためのものだったが、かえって抵抗の意志を固めたとも言われる。その後、連合国の側も、ドイツや日本の都市をはるかに大規模に焼くことになる。ロンドン
- ヴィシー政権できごとAD1940年7月10日自分の国の罪を認めるまで半世紀ドイツ軍に六週間で敗れたフランスは、国の北半分を占領された。1940年7月10日、温泉町ヴィシーに集まった議会は、第一次世界大戦の英雄ペタン元帥に全権を与え、共和国は終わる。ヴィシーの政府はドイツに協力し、自らの手でユダヤ人を捕らえ、占領者に引き渡した。ロンドンからはド・ゴールが抵抗を呼びかけていた。戦後長く、フランスはヴィシーの罪をドイツの占領のせいにしてきたが、1995年、大統領が国家の責任を初めて認めた。ヴィシー
- 日独伊三国同盟できごとAD1940年9月27日勝ち馬に乗ったつもりの同盟ヨーロッパでドイツが勝ち進むのを見て、日本の指導者たちは、バスに乗り遅れるな、と唱えた。1940年9月27日、ベルリンで、日本とドイツとイタリアは、互いの勢力圏を認め、いずれかが今戦争していない国に攻撃されたときは助け合う、という同盟を結ぶ。相手として想定されたのはアメリカだった。同じ月、日本軍は北部の仏印に進駐している。アメリカとの対立は決定的になり、外交で戦争を避ける道は狭まった。ベルリン
- 大政翼賛会できごとAD1940年10月12日近所のつながりが統制の網にドイツやイタリアのような一国一党の強い体制を作ろうという新体制運動のなかで、既存の政党は次々に自ら解散した。1940年10月12日、首相の近衛文麿を総裁とする大政翼賛会が発足する。政党の代わりに、国民を上から組織する団体だった。町内会や隣組がその下に置かれ、配給や防空や貯蓄の呼びかけが隣近所の単位で行き渡る。互いに見張り合う仕組みにもなった。議会の政党政治は、こうして形を失った。東京
- ドイツのデンマーク・ノルウェー侵攻できごとAD1940年4月9日中立の北欧へ1940年4月9日の未明、ドイツ軍は中立のデンマークとノルウェーに同時に攻め込んだ。狙いは、スウェーデンの鉄鉱石を積み出すノルウェーのナルヴィクの港と、イギリスをにらむ北の海岸である。デンマークは数時間で降伏した。ノルウェーでは、オスロへ向かう巡洋艦ブリュッヒャーが、狭い湾の要塞の砲と魚雷で沈められ、そのあいだに王と政府は首都を脱出した。親ナチの政治家クヴィスリングはラジオで政権の奪取を宣言し、その名はのちに「裏切り者」の代名詞になる。ノルウェーは2か月戦って6月に降伏し、王はロンドンへ渡った。オスロ
- ロッテルダム爆撃できごとAD1940年5月14日交渉中の爆撃1940年5月10日、ドイツ軍は中立のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに攻め込んだ。ロッテルダムでは、川の橋をはさんでオランダ軍が抵抗を続けていた。14日、ドイツ軍は降伏しなければ町を爆撃すると迫り、話し合いが進んでいた昼すぎ、爆撃機の編隊が中心街に爆弾を落とした。中止の合図は一部の機にしか届かなかった。火は燃え広がり、九百人近くが死に、八万人ほどが家を失う。ユトレヒトも同じ目に遭わせると脅されたオランダは、翌日降伏し、女王と政府はロンドンへ渡った。古い中心街を失ったロッテルダムは、戦後、近代建築の町として建て直された。ロッテルダム
- ホロコーストできごと1941年近代の官僚機構と技術が絶滅のために使われた約600万人のユダヤ人が組織的に殺された。近代の官僚機構と技術が、絶滅のために使われた。アウシュヴィッツ

- 真珠湾攻撃できごとAD1941年12月7日日本が米艦隊を奇襲し、アメリカが参戦した。この一撃が戦争の帰趨を決める。真珠湾

- レニングラード包囲できごとAD1941年9月8日パン125グラム872日。最初の冬、パンは1日125グラム。100万人以上が餓死した。凍ったラドガ湖の上の「命の道」。ショスタコーヴィチが第7交響曲を書き、飢えた楽団が1942年8月に街で演奏した。1944年1月、解かれた。サンクトペテルブルク
- 金属類回収令できごとAD1941年8月30日集めることより、差し出させることが目的だった銅と鉄が足りない。政府は、寺の梵鐘、家庭の鍋と釜、火鉢、仏具、門扉、そして銅像を供出させた。町内会と隣組が割当を負い、出さない家は非国民と呼ばれた。全国で数万口の梵鐘が失われたとされる。渋谷のハチ公像も供出された。集めた金属の多くは、選別と輸送と溶解が追いつかず、山積みのまま終戦を迎えている。物が足りないことより、全員が差し出したという事実のほうが、目的として大きかったと論じられている。東京
- 独ソ戦の始まりできごとAD1941年6月22日死者の最も大きな部分を占めた東の戦場二年前に互いに攻めないと約束していたドイツが、1941年6月22日の未明、三百万を超える兵でソ連に攻め込んだ。スターリンは警告を信じず、国境の部隊は不意を突かれる。ドイツ軍は数か月でモスクワの手前まで迫ったが、冬と抵抗に阻まれた。この戦争は、スラヴの人びとを滅ぼし、土地を奪うための絶滅の戦争として戦われた。ソ連の死者は兵と市民を合わせて二千数百万人に上るとされ、第二次世界大戦の死者の最も大きな部分を占める。ブレスト・リトフスク
- ハル・ノートできごとAD1941年11月26日石油が止まり、時間切れになった1941年7月、日本軍が南部の仏印に進駐すると、アメリカは日本の資産を凍結し、石油の輸出を止めた。石油の大半をアメリカに頼っていた日本にとって、それは時間切れを意味した。交渉は続いたが、11月26日、アメリカの国務長官ハルが示した文書は、中国と仏印からの日本軍の撤兵などを求めていた。日本の指導部は、これを最後通牒と受け止める。すでに艦隊はハワイへ向けて動き出していた。十二日後、真珠湾が攻撃された。ワシントンD.C.
- ミッドウェー海戦できごと1942年日本が空母4隻を失い、太平洋の主導権が移った。開戦から半年での転換点になる。ミッドウェー

- スターリングラードの戦いできごとAD1942年8月23日帰ったのは5000人ヴォルガの街で家ごとに戦った。11月、ジューコフが両側から包囲し、第6軍33万人が袋に入った。パウルスは1943年2月2日に降伏した。捕虜9万人のうち帰ったのは5000人。死傷者は両軍と市民で200万。ドイツが東で退き始めた場所。スターリングラード(ヴォルゴグラード)

- エル・アラメインの戦いできごとAD1942年10月23日始まりの終わりロンメルはカイロの100キロ手前で止まっていた。モントゴメリーが2倍の兵と戦車と、900門の砲で12日押した。ロンメルは退いた。「これは終わりではない。終わりの始まりでもない。だが始まりの終わりかもしれない」。アフリカの戦いが北へ向きを変えた。エル・アラメイン

- マンハッタン計画できごとAD1942年8月我は死なりドイツが先に作ることを恐れて、ロスアラモスに物理学者を集めた。13万人、20億ドル。1945年7月16日、アラモゴードの砂漠で最初の爆発。オッペンハイマーは『バガヴァッド・ギーター』を思い出した。「我は死なり、世界の破壊者なり」。3週間後、広島。ロスアラモス

- 包囲下の種子できごとAD1942年食べられる種に囲まれて餓死した1941年から900日近く、レニングラードは包囲された。市民100万人以上が死んだ。多くが餓死である。市の中心に、ヴァヴィロフが集めた種子の研究所があった。食べられる米、麦、豆、じゃがいもが、数十トン。職員は、それを守った。交代で不寝番に立ち、鼠を追い、そして手をつけなかった。米の担当者ドミトリー・イワノフは、米の袋に囲まれた机で死んだ。落花生の担当者も、じゃがいもの担当者も。記録に残るだけで、9人が餓死した。標本は、戦後、各地に配られた。サンクトペテルブルク
- 母子手帳できごとAD1942年1942年、戦時の日本で、妊娠を届け出た女性に手帳が配られた。妊産婦手帳である。人口を増やすという国の方針のもと、健診を促し、出産に要る米や綿の配給を受けるための証明にもなった。戦後の1948年、子どもの成長と予防接種まで記録する母子手帳に改められる。一冊に妊娠から幼児期までの記録がまとまり、どの医者にかかっても続きが分かる。戦争のために作られた仕組みが、戦後の乳児死亡の減少を支え、いまは海外の多くの国に広がっている。東京
- ヴァンゼー会議できごとAD1942年1月20日書類と分担で進められた抹殺1942年1月20日、ベルリン郊外の湖畔の邸宅に、ナチスの親衛隊と各省庁の次官ら十五人が集まり、昼食をはさんで九十分ほど話し合った。議題は、ヨーロッパのユダヤ人一千百万人の「最終的解決」を、役所どうしでどう分担して進めるかだった。すでに東方では大量の射殺が始まっていた。会議の記録は、殺戮を遠回しの役所の言葉で書いている。国家の行政の仕組みそのものが、民族の抹殺のために動かされたことを示す文書である。ベルリン
- シンガポール陥落できごとAD1942年2月15日アジアの人びとの前で、白人の帝国が敗れたイギリスは、海からの攻撃に備えてシンガポールを難攻不落の要塞と誇っていた。日本軍は、北のマレー半島を自転車も使って南へ駆け下り、陸から迫った。1942年2月15日、イギリス軍の八万を超える将兵が降伏する。チャーチルは、イギリスの軍の歴史で最悪の惨事と呼んだ。アジアの人びとの前で、白人の帝国が敗れた。占領のあと、日本軍は華人の住民を粛清し、多くの人が殺された。シンガポール
- バターン死の行進できごとAD1942年捕虜を人として扱えなかった軍1942年4月、フィリピンのバターン半島で、アメリカとフィリピンの七万を超える将兵が日本軍に降伏した。日本軍は、予想をはるかに超える捕虜を収容所まで百キロ近く歩かせる。暑さの中、食べ物も水もほとんど与えられず、倒れた者や遅れた者は殺された。行進とその後の収容所で、数千から一万を超える人が死んだとされる。捕虜の扱いの国際的な決まりを、日本の軍は守らなかった。戦後の裁判で、指揮官は責任を問われた。バターン半島(位置は特定されていない)
- ダーウィン空襲できごとAD1942年2月19日本土が初めて攻撃された日1942年2月19日の朝、オーストラリア北部の港町ダーウィンを、日本の空母四隻から飛び立った機と、陸上の基地の爆撃機が襲った。真珠湾を攻めたのと同じ機動部隊である。港の船が次々に沈み、二百数十人が死んだ。オーストラリアの本土が外国から攻撃を受けたのは、これが初めてだった。北部への空襲は1943年の終わりまで百回近く続く。政府は被害を小さく発表し、国民が全容を知ったのは戦後になってからである。ダーウィン
- 珊瑚海海戦できごとAD1942年5月7日艦どうしが相手を見ずに戦った最初の海戦1942年5月、日本はニューギニア島の東南のポートモレスビーを海から攻め取ろうと、輸送船団を空母に守らせて南へ送った。暗号を読んでいたアメリカは、空母二隻で待ち受ける。5月7日と8日、両軍の空母の機が互いの艦隊を襲った。艦どうしが一度も相手を目にしないまま戦った、史上初めての海戦である。日本は小型の空母を一隻、アメリカは大型の空母レキシントンを失った。沈めた数では日本の勝ちに見えたが、船団は引き返し、海からのポートモレスビー攻略は取りやめになった。傷ついた日本の大型空母二隻は、一か月後のミッドウェーに加われなかった。珊瑚海(位置は特定されていない)
- ココダの戦いできごとAD1942年山を越えられなかった補給海から行けなくなった日本軍は、1942年7月、ニューギニア島の北岸に上陸し、標高二千メートルを超えるオーエン・スタンレー山脈を歩いて越え、ポートモレスビーを目指した。道は人がひとり通れるほどの山道である。迎え撃ったのは、訓練の浅いオーストラリアの民兵の部隊だった。日本軍は9月、ポートモレスビーまで五十キロほどのところまで迫ったが、補給が続かず、飢えと病に倒れながら引き返した。オーストラリアでは、国を守った戦いとしていまも記憶されている。荷を担ぎ、傷ついた兵を背負って山を越えたパプアの人々の働きも語り継がれる。ココダ
- 食糧管理法できごとAD1942年2月21日米を国が一本で握る1942年2月、戦争のさなかの日本で、米や麦を国が生産者から買い上げ、配給で国民に渡す法律ができた。食糧管理法である。農家は決められた量を国に売らなければならず、町の人々は通帳を持って配給所で米を受け取った。量は一人一日二合三勺と決められたが、戦争の末期から戦後にかけては、それも届かないことが多かった。戦後も法律は残り、国は米を農家から高く買って消費者に安く売った。その赤字と米の余りが、のちの減反につながる。法律が廃止されたのは、1995年である。東京
- 「インドを立ち去れ」運動できごとAD1942年8月8日1942年8月8日、日本軍がビルマまで迫るなか、インド国民会議はボンベイで、イギリスはただちにインドから立ち去れと求める決議をした。ガンディーは「行動か死か」と訴える。翌朝、イギリスはガンディーとネルーら指導者をいっせいに捕らえた。指導者を失った人々は各地で役所や鉄道や電信を襲い、軍と警察は発砲して、千人を超える人が死んだ。運動は数か月で抑え込まれたが、戦争のさなかに十万人を牢に入れなければ治められない植民地を、イギリスが戦後も持ち続けることは難しくなった。ムンバイ
- クルスクの戦いできごとAD1943年7月5日史上最大の戦車戦ドイツはティーガーとパンターを待って攻めた。ソ連は知っていて、地雷と対戦車砲を8列に敷いて待った。プロホロフカで戦車が数百両ぶつかった。史上最大の戦車戦。ヒトラーは8日で止めた。それからドイツは、東で一度も攻めなかった。クルスク

- 学徒出陣できごとAD1943年10月21日学ぶことより戦うことが優先された大学や専門学校の学生は、それまで卒業まで兵役を猶予されていた。戦局が悪くなると、1943年、理系などを除く学生の猶予が止められる。10月21日、雨の明治神宮外苑の競技場で、出陣する学生の壮行会が開かれ、銃を担いだ学生たちが行進した。スタンドでは女子学生たちが見送った。彼らの多くは士官として前線に送られ、特攻隊員として死んだ者も少なくない。学ぶことより戦うことが優先される国になっていた。東京
- 大東亜会議できごとAD1943年11月5日解放の言葉と、占領の現実1943年11月5日、東京に、日本が後ろ盾となった満洲国、南京の中国の政府、タイ、フィリピン、ビルマの代表と、自由インド仮政府の指導者が集まった。欧米の植民地支配からアジアを解き放つ、と宣言が読み上げられる。だが、集まった政府の多くは日本の軍の占領の下にあり、資源と労働は日本の戦争のために取り立てられていた。解放の言葉と、占領の現実のずれは、いまもこの会議の評価を分けている。東京
- ワルシャワ・ゲットー蜂起できごとAD1943年4月19日勝てないと知った上での抵抗ワルシャワのユダヤ人は、塀で囲まれた地区に四十万人以上押し込められ、飢えと病で次々に死んだ。1942年の夏、三十万人近くが絶滅収容所へ送られる。残された若者たちは、どうせ死ぬなら戦って死ぬと決めた。1943年4月19日、地区の最後の住民を運び出しに来たドイツ軍に、わずかな拳銃と火炎瓶で立ち向かう。ひと月近く抵抗が続いたが、ドイツ軍は地区を一軒ずつ焼き払った。ナチスの占領下で起きた、最初の大きな市街の蜂起だった。ワルシャワ
- デンマークのユダヤ人の救出できごと1943年10月海峡を渡った七千人占領されたデンマークでは、政府が残ってドイツと協力する形をとり、ユダヤ人は3年のあいだ手を付けられなかった。1943年秋、ドイツは一斉検挙を決める。ドイツ大使館の海運担当ドゥクヴィッツがその日取りを漏らし、10月1日の夜に兵が家々を回ったとき、ほとんどのユダヤ人は隣人や見知らぬ人にかくまわれていた。それから数週間、漁師たちが夜の海峡を小舟で往復し、七千人あまりを中立のスウェーデンへ渡した。捕まったのは五百人に満たない。デンマークのユダヤ人の九割以上が、ホロコーストを生き延びた。コペンハーゲン
- ワルシャワ蜂起できごとAD1944年8月1日川の向こうで止まった赤軍がヴィスワの対岸まで来た日、国内軍が立った。63日。ソ連軍は川の向こうで止まった。連合国の空輸は届かなかった。市民20万人が死に、ドイツは街を計画的に壊した。85%。赤軍は5か月後に瓦礫に入った。ゲットー蜂起の1年後の、二度目の蜂起。ワルシャワ
- バルジの戦いできごとAD1944年12月16日Nuts!ヒトラーの最後の攻勢。霧のアルデンヌを25万で突いた。バストーニュで囲まれた第101空挺の将軍が降伏勧告に「Nuts!」と答えた。晴れて航空機が飛び、パットンが北へ回った。アメリカ軍史上最大の死傷者。1か月で燃料と予備が尽き、ドイツは西でも終わった。バストーニュ

- ブレトン・ウッズ会議できごとAD1944年7月1日上陸の3週間後ノルマンディー上陸の3週間後、44か国の代表がニューハンプシャーの山中のホテルに集まった。目的は、両大戦の間の混乱——為替の切り下げ競争、ブロック経済、そしてそこから戦争へ至った道——を繰り返さない仕組みを作ることである。ケインズは、どの国にも属さない国際通貨バンコールと、黒字国にも調整を課す清算同盟を提案した。アメリカのホワイト案が通った。ドルを金に固定し(1オンス35ドル)、各国通貨をドルに固定する。IMFと世界銀行ができた。ブレトン・ウッズ
- インパール作戦できごと1944年3月補給の見込みがないまま山を越えさせ、9万人のうち3万人が死んだ。多くは戦闘ではなく飢えと病で死んでいる。反対意見が通らない組織の帰結として語られる。インパール

- レイテ沖海戦できごとAD1944年10月23日艦隊として戦う力を失ったアメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸すると、日本の海軍は残る艦隊のほぼすべてを出して、上陸部隊を叩こうとした。1944年10月23日から数日、フィリピンの周りの広い海で、史上最大とされる海戦が続く。囮の艦隊で敵の主力を引きつける作戦は一時は成功しかけたが、突入はならなかった。戦艦武蔵をはじめ多くの艦が沈み、日本の海軍は艦隊として戦う力を失う。この戦いの中で、最初の組織的な特攻が行われた。レイテ湾(位置は特定されていない)
- 特攻できごとAD1944年10月25日命を兵器の一部にする戦い方レイテ沖海戦のさなか、フィリピンのマバラカットの飛行場で、爆弾を積んだ戦闘機で敵艦に体当たりする部隊が作られた。1944年10月25日、最初の組織的な特攻が行われる。はじめは限られた作戦とされたが、やがて陸軍も加わり、沖縄の戦いでは数千人の若者が飛び立った。志願の形をとったが、断れる空気ではなかったと多くの生き残りが語っている。命を兵器の一部にする戦い方を、国が組織として命じた。マバラカット
- サイパンの戦いできごとAD1944年6月15日絶対国防圏が破れ、B29が本土に届く1944年6月15日、アメリカ軍はマリアナ諸島のサイパン島に上陸した。日本が「絶対国防圏」の要とした島である。救いに向かった日本の艦隊は、6月19日からのマリアナ沖海戦で空母三隻と航空機の大半を失い、島は見捨てられた。7月7日、残った兵は最後の突撃をし、守備隊はほぼ全滅する。島には二万人を超える日本の民間人が暮らしていて、北の端の崖から身を投げた人を含め、一万人ほどが命を落とした。サイパンを失った責めを負って、東条内閣は倒れる。この島と隣のテニアン島から、B29が日本の本土を爆撃するようになった。サイパン島
- ペリリューの戦いできごとAD1944年9月15日玉砕をやめて持久する1944年9月15日、アメリカ軍はパラオ諸島のペリリュー島に上陸した。指揮官は数日で終わると見ていた。日本の守備隊は、珊瑚の岩山に掘った洞窟に潜み、水際で全滅する代わりに、じっくりと持ちこたえる戦い方をとった。戦いは二か月余り続き、守備隊一万人余りはほぼ全滅したが、アメリカ軍も多くの死傷者を出した。この戦い方は、硫黄島と沖縄で繰り返される。生き残った34人の兵は戦争が終わったことを信じず、1947年4月まで洞窟に隠れていた。島の人々は、戦いの前にほかの島へ移されていた。ペリリュー島
- オランダの飢餓の冬できごと1944年9月球根を食べた冬1944年9月、連合軍はオランダ東部のアルンヘムのライン川の橋を取ろうとして失敗し、オランダの西半分はドイツの占領下に残された。ロンドンの亡命政府が鉄道員にストライキを呼びかけると、ドイツは仕返しに西部への食料の輸送を止めた。運河が凍る厳しい冬、アムステルダムやロッテルダムの配給は一日数百キロカロリーまで落ちる。人々はチューリップの球根やテンサイを食べ、薪を求めて空き家を壊した。二万人ほどが死んだ。1945年4月末、連合軍はドイツ軍と取り決めを結び、爆撃機から食料を落とした。この冬に母親の胎内にいた子どもたちは、のちの研究で、成人してからの病気のなりやすさを追われることになる。アムステルダム
- 学童疎開できごとAD1944年6月30日親元を離れた四十万人サイパン島の守りが危うくなり、本土への空襲が避けられなくなった1944年6月30日、政府は、都市の国民学校の3年生から6年生の子どもを地方へ疎開させることを決めた。親類を頼れない子どもたちは、学校ごとに集団で、農村の寺や旅館に移った。8月から、東京や大阪などの十数の都市から、四十万人を超える子どもが親元を離れた。食べ物は乏しく、子どもたちはひもじさと寂しさに耐えた。沖縄から九州へ子どもを運ぶ対馬丸は、8月22日、潜水艦に沈められ、多くの子どもが死んだ。疎開先から帰ったとき、空襲で家族を失っていた子どもも少なくなかった。東京
- 広島・長崎への原爆投下できごとAD1945年8月6日ここから人類は自らを絶滅させうる一発で都市が消えた。人類が自らを絶滅させうる力を持ったことが、この日から前提になる。広島

- 国際連合の成立できごとAD1945年10月24日二度の大戦を経て作られた枠組み二度の大戦を経て、戦争を防ぐ枠組みが作られた。安保理の拒否権が、その限界も最初から抱え込む。ジュネーヴ
- ヤルタ会談できごとAD1945年2月4日冷戦の地図クリミアの宮殿で8日間。ドイツの分割、ポーランドの国境と政府、国際連合、ソ連の対日参戦と千島樺太。ローズヴェルトは2か月後に死んだ。「ヤルタ」は東欧では「売られた」の意味になった。冷戦の地図は、ここで引かれた。ヤルタ

- ドレスデン爆撃できごとAD1945年2月13日スローターハウス5「エルベのフィレンツェ」に、戦争が終わる3か月前、英米の爆撃機1200機が13日の夜から15日にかけて焼夷弾を落とした。火災旋風。2万5000人。避難民で膨れた街だった。「軍事目標はあったか」は、いまも問われる。ヴォネガットは捕虜として地下の食肉庫にいて、『スローターハウス5』を書いた。ドレスデン
- 沖縄戦できごとAD1945年4月1日4人に1人本土決戦の前に、時間を稼ぐための戦い。3か月。県民の4人に1人、9万4000人が死んだ。集団自決、壕からの追い出し、スパイ容疑の殺害。首里が落ち、軍は南へ退いて住民を巻き込んだ。6月23日、牛島司令官が自決。沖縄はそれから27年アメリカが持った。首里

- ポツダム会談できごとAD1945年7月17日黙殺ドイツ降伏の2か月後、ベルリンの郊外。トルーマンは会談の途中で原爆実験の成功を聞き、スターリンに「新しい強力な兵器」とだけ言った。スターリンは知っていた。26日、日本に降伏を求める宣言。日本は「黙殺」し、8月6日。チャーチルは会談中に選挙で負けて帰った。ポツダム

- 東京大空襲できごとAD1945年3月10日一晩で10万人B29が300機、低空から焼夷弾1665トン。2時間半で下町が燃え、10万人が死んだ。一晩の死者として史上最大。ルメイは「日本の家は紙と木だ」と言った。同じ方法で64の都市が焼かれ、それから原爆。犠牲者の名前はまだ全部分かっていない。東京

- トリニティ実験できごとAD1945年7月16日広島の3週間前人類が最初に核爆弾を爆発させた。夜明け前の砂漠で試されたのは、3週間後に長崎で使われるのと同じ型だった。広島の型は試さずに使われている。トリニティ実験場

- 玉音放送できごとAD1945年8月15日国民が天皇の声を聞いたのは、この日が初めてだったポツダム宣言の受諾が決まった8月14日の深夜、宮内省で天皇の朗読が二度録音された。それを奪って放送を止めようとする将校たちが宮城に押し入ったが、円盤は隠されて運び出された。15日正午、全国のラジオが鳴った。多くの国民が天皇の声を聞くのは、これが初めてである。文語で、雑音が多く、「降伏」の語は出てこない。共同宣言を受諾すると述べただけなので、放送のあとにアナウンサーが意味を説明しなければならなかった。戦争の終わりが、声で伝えられた。東京
- シベリア抑留できごとAD1945年戦争が終わってから始まった被害1945年8月、ソ連は日本に宣戦し、満洲や朝鮮北部、樺太にいた日本の兵士と民間人を捕らえた。戦争が終わったあと、およそ五十数万人がシベリアなどの収容所に送られ、鉄道や炭鉱や森林で働かされる。零下数十度の寒さと飢えと重労働で、五万人以上が死んだとされる。帰国は数年がかりで進み、最後の人びとが戻ったのは1956年だった。戦争が終わってから始まった、もう一つの戦争の被害である。ハバロフスク
- 引き揚げできごとAD1945年帝国の終わりは、人の大移動でもあった敗戦のとき、日本の外には、兵士と民間人を合わせて六百万人を超える日本人がいた。満洲や朝鮮や台湾、南の島々から、船で本国へ戻る引き揚げが始まる。満洲からの逃避行では、飢えと病と襲撃で多くの人が死に、親と別れて中国に残された子どももいた。舞鶴の港は、1958年まで引き揚げ船を受け入れ続けた。帰らない息子を岸壁で待ち続けた母の歌が、はやった。帝国の終わりは、人の大移動でもあった。舞鶴
- ニュルンベルク裁判できごとAD1945年11月20日指導者個人が、国際法で裁かれる戦争に負けた国の指導者を、勝った国々が法廷で裁く。1945年11月20日、ナチスの党大会が開かれた町ニュルンベルクで、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の判事による裁判が始まった。侵略の戦争を計画したこと、そして人道に対する罪が問われる。命令に従っただけだ、という弁明は退けられた。翌年、十二人に死刑が言い渡される。勝者の裁きだという批判もあったが、国家の指導者個人が国際法で裁かれるという原則は、のちの国際刑事裁判所につながった。ニュルンベルク
- 硫黄島の戦いできごとAD1945年2月19日死傷者の数でアメリカが上回った島1945年2月19日、アメリカ軍は東京の南千二百キロあまりの硫黄島に上陸した。本土へ向かうB29が、往き帰りに降りられる飛行場が欲しかったのである。司令官の栗林忠道は、島じゅうに地下の坑道を掘らせ、水際での反撃も万歳の突撃も禁じて、一日でも長く持ちこたえるよう命じた。五日で落ちると見られた島は、一か月余り持ちこたえた。守備隊二万人余りのほとんどが死に、アメリカ軍の死傷者は二万六千人を超えて日本側を上回った。摺鉢山に星条旗を立てる兵の写真は、アメリカで戦争の象徴になった。島が返されたのは1968年で、いまも自衛隊の基地があり、元の島民は帰れていない。硫黄島
- 神道指令できごとAD1945年12月15日国家神道の解体明治以来、日本の政府は、神社を宗教ではなく国の祭祀だとして特別に扱い、国のお金で支え、学校や軍で参拝させてきた。1945年12月15日、占領軍の総司令部は、国家と神道を切り離すよう命じた。神社への国や地方の公金の支出をやめ、公立学校から神棚を外させ、神道の教えを国の教育に使うことを禁じた。公の文書で「大東亜戦争」や「八紘一宇」といった言葉を使うことも禁じられた。神社は、ほかの宗教と同じ一つの宗教の団体になった。翌年の元日には天皇のいわゆる人間宣言が出され、新しい憲法は政教分離を定めた。東京
- 東京裁判できごとAD1946年5月3日勝者の裁きか文明の裁きか市ヶ谷の旧陸軍省。11か国の判事。A級戦犯28人。「平和に対する罪」。2年半。7人が絞首刑。東条英機、広田弘毅。インドのパル判事は全員無罪の意見書を書いた。天皇は訴追されなかった。「勝者の裁き」か「文明の裁き」か、日本ではいまも二つの答えがある。東京

- ENIACできごとAD1946年弾道計算のためにペンシルベニア大学。弾道計算表を作るために陸軍が資金を出した。真空管17468本、重さ27トン、部屋一杯。それまで一発の弾道の計算に人が20時間かけていたものが、30秒になった。配線を差し替えて「プログラム」したのは、6人の女性数学者だった(当時「計算手(コンピューター)」と呼ばれていた職の出身)。彼女たちの名は長く公表されなかった。翌年からノイマン型の記憶プログラム方式へ移る。フィラデルフィア
- 『菊と刀』の刊行できごとAD1946年敵国を知ろうとして書かれた本一度も日本へ行かないまま、収容された日系人と映画と本から書かれた日本人論。占領政策の参考にされ、日本でも翻訳が読まれ、批判もされ続けている。ワシントンD.C.
- 日本国憲法できごとAD1946年11月3日一度も改められないまま敗戦後、日本の政府が出した憲法の改正案は、明治の憲法をほとんど変えないものだった。連合国軍総司令部は自ら草案を作って示し、政府はこれをもとに案を作り直す。帝国議会の審議で、戦力を持たないとする条文の書き方や、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利が加えられた。1946年11月3日に公布され、翌年5月3日に施行される。国民が主権を持ち、戦争を放棄し、基本的人権を保障する。一度も改められないまま、いまに至っている。東京
- 人間宣言できごとAD1946年1月1日天皇は神ではない1946年1月1日、昭和天皇は、新しい日本を建てることについての詔書を出した。詔書は冒頭に明治の五箇条の御誓文を掲げ、そのうえで、天皇と国民の絆は、信頼と敬愛で結ばれているのであって、神話や伝説によるものではなく、天皇を生きた神とし、日本人をほかの民族より優れた、世界を支配すべき民族とする考えは、架空のものだと述べた。新聞はこれを天皇の「人間宣言」と呼んだ。文案には占領軍の側の人々もかかわっていた。天皇を神とする考えは、戦争へと国民を動員するときの支えになっていた。東京
- ニュルンベルク綱領できごとAD1947年医師裁判ニュルンベルク継続裁判の「医師裁判」。強制収容所で行われた人体実験——低体温、与圧、海水、毒ガス、双子の研究——について、23人が裁かれ、7人が処刑された。判決文に添えられた10項目が、この綱領である。第一条「被験者の自発的な同意が、絶対に不可欠である」。1964年のヘルシンキ宣言、各国の倫理委員会、そして「インフォームド・コンセント」という語の系譜が、ここから始まる。ニュルンベルク
- 日本のサマータイムできごとAD1948年占領下の1948年、連合国軍総司令部の意向で、日本は夏のあいだ時計を一時間進めた。電力の節約と、明るい夕方を余暇に使うことがうたわれた。だが実際には、明るいうちは働かされて帰りが遅くなり、寝不足になると不評だった。「サンマータイム」と呼ばれたりもする。独立を前にした1952年、法律ごと廃止された。以後、何度も導入が議論されては見送られている。同じ仕組みでも、働き方が違えば結果が変わる。東京
- 国民の祝日できごとAD1948年7月20日戦前の日本の休日は、紀元節や天長節のように、皇室の祭祀や天皇の事績に結びついた祝祭日だった。1948年7月20日、国民の祝日に関する法律ができる。元日、成人の日、春分の日、憲法記念日、こどもの日などが並び、休日の意味が国民の暮らしの側へ置き直された。紀元節は廃止されたが、のちに建国記念の日として戻る。祝日を何の日とするかは、国が自分をどう語るかと切り離せない。東京
- アーレント『全体主義の起原』できごとAD1951年人間を余計にする実験室反ユダヤ主義と、帝国主義と、そして全体主義。三部。ナチズムとスターリニズムを、暴政の一種でなく、新しい種類の支配として分析した。孤立した大衆、イデオロギーとテロル、そして「あらゆることが可能である」という信念。強制収容所は、人間を余計なものにする実験室だった。1961年、アイヒマン裁判を傍聴して『イェルサレムのアイヒマン』。「悪の陳腐さ」。友人の多くを失った。ニューヨーク
- サンフランシスコ講和条約できごとAD1951年9月8日48か国と結んで日本が主権を回復した。ソ連と中国は加わらず、沖縄と小笠原はアメリカの施政下に残る。同じ日に日米安全保障条約が結ばれた。サンフランシスコ

- アイヒマン裁判できごとAD1961年4月11日悪の凡庸さアドルフ・アイヒマンは、ナチ・ドイツの親衛隊で、ヨーロッパ中のユダヤ人を収容所へ送る列車の手配を取り仕切った。戦後、偽名でアルゼンチンに逃れていたが、1960年5月、イスラエルの情報機関に捕らえられ、ひそかにイスラエルへ運ばれた。1961年4月、エルサレムで裁判が始まる。防弾ガラスの箱の中の被告の前で、百人を超える生き延びた人々が、収容所で起きたことを語り、裁判の様子は録画されて世界に流された。12月、アイヒマンは死刑を言い渡され、翌年絞首刑になった。傍聴した哲学者アーレントは、命令に従っただけだと語る平凡な役人の姿を「悪の凡庸さ」と書いた。エルサレム
- 残留孤児の訪日調査できごとAD1981年3月2日1945年8月、ソ連軍が満洲に入り、開拓団の日本人は逃げまどった。途中で親と死別し、あるいは生きるために預けられた子どもたちが、中国の家庭で育てられた。国交が正常化してから九年後の1981年3月、中国に残された孤児四十七人が、肉親を探しに初めて集団で日本へ来た。名前も、生まれた村も覚えていない人が多い。手がかりは、預けられたときの服や、かすかな記憶や、体の傷だった。報道が顔と特徴を伝え、心当たりのある人が名乗り出た。この回では三十人の身元が分かった。調査はその後も続いたが、分かったのは三割ほどにとどまる。東京
- 慰安婦の証言できごとAD1991年8月14日個人の声が、解決済みを問い直した戦争中、日本軍は各地に慰安所を設け、朝鮮半島をはじめアジアの各地から集められた女性たちが、兵士の相手をさせられた。戦後、長いあいだ、その経験は語られなかった。1991年8月14日、韓国の金学順が、元慰安婦として初めて名乗り出て証言する。各地で名乗り出る人が続いた。1993年、日本の政府は、軍の関与と強制性を認めて謝罪する談話を出す。一方で、連行の強制をめぐる議論は続き、日韓のあいだの大きな争点になっている。ソウル
- 国際刑事裁判所できごとAD2002年7月1日勝者の裁きを越えてニュルンベルクと東京の裁判は、勝者が敗者を裁く臨時の法廷だった。旧ユーゴとルワンダの法廷も、事件ごとに作られた。常設の裁判所を作る構想は1948年からあり、冷戦で止まり、1998年のローマ規程で実現した。集団殺害、人道に対する罪、戦争犯罪、そして侵略の罪。国家ではなく個人を裁く。国内の裁判が機能しないときにだけ動く(補完性)。アメリカ、ロシア、中国、インドは加盟していない。逮捕は加盟国の協力に頼るしかない。ハーグ

重なっているストーリー
同じできごとや人物を含む物語です。何件を共有しているかを添えました。
技術と産業23件を共有 / 道具が人を変え、その人がまた道具を作った。速さが加速していく話。ムンディ先生の講義で学ぶ歴史23件を共有 / 高校の先生「ムンディ先生」が、世界史と日本史を200講ずつで通した授業の動画。ここに並ぶ項目には、その講の動画が付いている。戦争と平和の歴史17件を共有 / 戦争を無くせなかった人類が、それでも戦争を縛り、減らし、裁こうとしてきた工夫の歴史。主権はだれのものか16件を共有 / 王が決めるのか、議会が決めるのか、国民が決めるのか。800年かけて答えが動いた。差別の歴史11件を共有 / 線を引いて内と外を分ける。理屈は、たいてい後から付けられた。冷戦10件を共有 / 撃ち合わずに40年競った。ただし代理の戦場では、実際に人が死に続けた。確かめるという方法10件を共有 / 偉い人がそう言ったから、をやめた話。誰が最初かは、思っているほどはっきりしない。帝国と独立7件を共有 / 数十年で世界の大半が数か国のものになり、また数十年で戻った。法と裁判の歴史7件を共有 / 力の強い者の思いのままだった裁きを、書かれた法と手続きで縛ってきた歴史。都市の歴史6件を共有 / 人が密集して住むという異常な選択が、文明のほとんどを生んだ。民族移動の時代6件を共有 / 4〜6世紀、ユーラシアの東西で同時に人が動いた。ローマだけの話ではない。コテンラジオで聞く歴史6件を共有 / ポッドキャスト「コテンラジオ」が取り上げた人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。メディアの歴史6件を共有 / 誰が、どれだけ速く、何人に届けられるか。その力を誰が握るかをめぐる歴史になる。誰が書き残したか5件を共有 / 残っているものが全部ではない。誰の筆によるかで、同じ出来事が違って見える。『サピエンス全史』で読む歴史5件を共有 / ハラリが人類史を三つの革命で切った本。その筋に沿って、このデータベースの項目を並べ直す。『暴力の人類史』で読む歴史5件を共有 / 人が人を殺す率は、狩猟採集の時代から今まで、長い目で見ればずっと下がってきた、という本。反論も多い。『菊と刀』で読む日本5件を共有 / 一度も日本へ行かないまま、戦時中のアメリカで書かれた日本人論。読み継がれ、批判され続けている。『失敗の本質』で読む日本軍5件を共有 / なぜ負けたのかを、作戦ではなく組織の性質から説明した本。六つの作戦を並べて、同じ型を取り出す。海の歴史5件を共有 / 海は人と物と病と戦争を運び、人はその海を測り、守り、汚してきた。中田敦彦のYouTube大学で学ぶ歴史5件を共有 / 「中田敦彦のYouTube大学」が講義した世界史・日本史・偉人伝の人物とできごと。ここに並ぶ項目には、その回の動画が付いている。明治4件を共有 / 藩を消し、身分を消し、40年で列強と戦えるところまで作り替えた。その代償も含めて。中国の王朝4件を共有 / 殷から清まで3000年。王朝は替わっても、同じ型で替わり続けた。感染症と人類4件を共有 / 人が動くほど病も動いた。文明の広がりと感染の広がりは、同じ地図の上にある。女性の権利4件を共有 / 人口の半分が、参政権を得るまでに文明の歴史のほとんどを要した。支え合いの歴史4件を共有 / 働けなくなった人を、誰が支えるのか。家族か、宗教か、国か。答えは何度も入れ替わってきた。働くことの歴史4件を共有 / 一日八時間、週に五日。その区切りは、二百年かけて争って手に入れたものになる。お金の歴史4件を共有 / 金属の塊が、紙になり、数字になった。お金が成り立っているのは、皆が信じているあいだだけになる。近代と宗教4件を共有 / 科学と国家と世俗化の時代に、信仰は消えるどころか、形を変えて燃え上がり続けた。子どもの歴史4件を共有 / 子どもは、いつから守られ、学び、遊び、権利を持つ一人の人として扱われるようになったのか。交易路とお金3件を共有 / 運ぶ/両替する/貸す。人と物が動くところには、いつも同じ仕組みが生えてくる。考えることの歴史3件を共有 / 同じ数百年のあいだに、ギリシアでも中国でもインドでも、人が根本から考え直した。『暴力と不平等の人類史』で読む格差3件を共有 / 格差を大きく縮めたのは、改革ではなく破局だった。戦争、革命、国家の崩壊、疫病の四つしかない、という本。老いと死の歴史3件を共有 / どう老い、どう死に、どう弔うか。いちばん私的に見えることが、いちばん制度に支えられている。食の歴史3件を共有 / 何を食べるかは、誰が作り、どう運び、どう残すかで決まってきた。台所の外の仕組みの歴史になる。交通と旅の歴史3件を共有 / 人が速く遠くへ動けるようになるたびに、世界は狭くなり、旅は一部の人の冒険から誰もの楽しみになった。朝鮮半島2件を共有 / 大陸と島国のあいだで、独自の文字と技術を育てた1300年。表現の歴史2件を共有 / 書いた人、描いた人、作った人。政治と戦争のあいだに、ずっと別の営みがあった。『世界史』(マクニール)で読む歴史2件を共有 / 文明どうしが接触し、借り、競い合うことで歴史が動く。世界を一つの物語として書いた最初の教科書。『大転換』で読む歴史2件を共有 / 市場はずっと社会の一部だった。それが逆転して、社会のほうが市場に合わせはじめた19世紀に何が起きたか。インドと仏教1件を共有 / 一人の王子が始めた問いが、アショーカ王に拾われ、玄奘に運ばれ、東アジアへ届くまで。東ローマ千年1件を共有 / ローマの西半分が消えたあと、東半分は1000年続いた。その中身をローマの続きとして並べる。冷戦のあと1件を共有 / 対立の構図が消えたあと、何が残ったのか。1989年からの三十年。『国家はなぜ衰退するのか』で読む歴史1件を共有 / 国境をひとつ挟んで豊かさが違うのは、地理でも文化でもなく制度のせいだ、という本。2024年のノーベル経済学賞の元になった。『文明崩壊』で読む歴史1件を共有 / イースター島、マヤ、グリーンランドのノルウェー人。環境を使い尽くした社会と、そうしなかった社会。『疫病と世界史』で読む歴史1件を共有 / 歴史を動かしたのは王でも思想でもなく、目に見えない微生物だった、と最初に言い切った本。『繁栄』で読む歴史1件を共有 / 人類が豊かになったのは交換のおかげで、悲観する理由はいつも外れてきた、という本。反論側も付けてある。『想像の共同体』で読む歴史1件を共有 / 国民とは、会ったこともない人を同じ仲間だと思える想像力のことだ、という本。『近代世界システム』で読む歴史1件を共有 / 国ごとの発展を比べるのをやめる。16世紀からずっと、世界は一つの分業の仕組みとして動いてきた、という本。『ホモ・デウス』で読む次の歴史1件を共有 / 飢餓と疫病と戦争を抑え込んだ人類が、次に何を目指すか。『サピエンス全史』の続編。教育の歴史1件を共有 / 子どもが学校へ行くのが当たり前になったのは、ごく最近になる。誰が、誰に、何のために教えてきたか。大学の講義で学ぶ歴史1件を共有 / 東京大学の公開講座や放送大学の動画から、歴史の項目に当たる講義を選んで付けた。研究者が自分の専門を語る、長めの講義が中心になる。