クリケットの決まり
概要
十八世紀のイングランドで、クリケットは村の遊びから、貴族が大金を賭ける勝負になった。賭けるなら、勝ち負けの決め方が村ごとに違っていては困る。1744年、ロンドンのクラブが決まりを書き上げ、印刷された。両端の柱(ウィケット)の間の長さは二十二ヤード。これは当時の測量に使う鎖一本の長さである。球の重さ、柱の高さ、審判の立つ場所まで決めた。書かれた決まりがあれば、知らない村どうしでも試合ができ、賭けの揉め事も収まる。のちにローズのクラブがこの決まりを引き継ぎ、帝国の広がりとともに、決まりごと世界へ運ばれていった。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
クリケットは、イングランドの南東部、ケントやサセックスやサリーの村々で生まれた遊びだとされる。羊の草をはむ低い草地で、木の棒で球を打ち、打たれまいと守る。16世紀の末には子どもの遊びとして記録に現れ、17世紀には大人たちも村どうしで試合をするようになった。始まりについては、羊飼いが杖で球を打ったのが起こりだという話もあるが、確かなことは分からない。
18世紀に入ると、この村の遊びに貴族と紳士たちが加わった。彼らは自分の領地の村人や使用人から腕の良い者を集めてチームを作り、よその貴族のチームと試合をさせた。そして試合に大金を賭けた。数百ポンド、ときには千ポンドを超える賭け金が動き、試合の噂を聞きつけた見物人が何千人も集まった。ロンドンでは、町の北にあるアーティラリー・グラウンドと呼ばれる広場が、大きな試合の舞台になった。
賭けるとなると、困ることがあった。決まりが村ごとに違うのである。柱の高さ、柱と柱の間の距離、球の重さ、打者がどうなればアウトか。慣れた村のやり方で試合をしたい両者が、試合の前に、あるいは後で、「それは反則だ」ともめることになる。大金がかかっていれば、もめごとは裁判にまで持ち込まれた。1727年には、リッチモンド公と別の紳士が試合の前に、決まりを書面で取り交わした記録が残っている。試合ごとに約束を書いていたのでは、きりがない。
1744年、ロンドンのクラブに集まる貴族と紳士たちが、クリケットの決まりを一つにまとめて書き上げた。これが、まとまった形で今に伝わる最も古いクリケットの規則である。この年、アーティラリー・グラウンドでは、ケント州のチームとイングランドの残りから選んだチームの大試合が行われ、大きな評判を呼んでいた。規則はのちに印刷されて広まった。
規則は具体的だった。投げる側の柱(ウィケット)と打つ側の柱は、22ヤード(約20メートル)離して立てる。この22ヤードは、当時の土地の測量に使われた鎖一本の長さで、イングランドの人々にはなじみのある単位だった。この距離は、いまのクリケットでも変わっていない。柱は高さ22インチ、二本の柱の上に横木を渡す。このころのウィケットは二本の柱でできていて、三本目の柱が加わるのは数十年後のことである。球の重さは5オンスから6オンスの間と決められた。そのほか、投手が投げるときにどこに足を置くか、打者がどうなればアウトか、そして二人の審判がどこに立ち、どんなときに判定を下すかまで定めてあった。賭けの勝ち負けを決めるのは、審判の判定だった。
書かれた決まりがあれば、知らない村どうしでも、同じ紙を見れば試合ができる。試合の後で揉めても、紙に照らせば決着がつく。賭けの対象としての信用が高まり、試合はいっそう盛んになった。規則は、その後も少しずつ書き換えられていった。
1787年、ロンドンに新しいクラブが作られた。トマス・ロードという男が用意したグラウンドを本拠にしたことから、このクラブの名は「ロード」の名を冠して知られる。このクラブが翌年に規則を改め、以後、クリケットの規則を管理する役目を担うようになった。今でも、世界のクリケットの規則は、このクラブが定めた文書に基づいている。
クリケットは、イギリスの帝国(大英帝国)が広がるにつれて、世界中へ運ばれた。兵士や役人や商人が、赴任先でクリケットを始めた。オーストラリア、インド、西インド諸島、南アフリカ、ニュージーランドなどで、クリケットは根を下ろした。1877年には、イングランドとオーストラリアの代表が初めて国どうしの試合を戦った。いま、クリケットの観客と競技人口が最も多いのは、かつてイギリスに治められた南アジアの国々である。
スポーツの決まりを書き下ろすことは、遊びを、知らない者どうしが同じ条件で競える競技へ変えることだった。クリケットの規則が書かれてから100年ほどのち、大西洋の向こうでは、似た遊びから生まれた野球が、自分たちの決まりを書き留めることになる(ニッカボッカーの規則)。日本で職業野球が始まるのは、さらに後のことである(日本の職業野球の始まり)。