『文選』

概要
梁の皇太子が、周から梁までの文章と詩を、130人、700余りに選んだ。30巻。経書と諸子と史書は除き、「文」だけ。唐で科挙の教科書になり、「文選爛、秀才半」。日本の『万葉集』と『枕草子』は、これを読んだ人が書いた。
場所
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省
関わった人(1)
蕭統(昭明太子)AD501年–AD531年 · 編者本文
6世紀の初め、中国の南を治めた梁の蕭衍(梁の武帝)は、学問と仏教を篤く重んじた皇帝だった。その長男で皇太子の蕭統(昭明太子)は、501年に生まれ、幼いころから書を読み、数行を一度に目で追うほどだったと伝えられる。東宮には3万巻ともいう書物が集められ、文学に秀でた学者たちが集まった。蕭統は、こうした学者たちとともに、それまでの中国の詩と文章の精華を一つにまとめる仕事に取り組んだ。それが『文選』である。
選ばれたのは、周の時代から梁までのおよそ千年にわたる作品で、作者は130人ほど、作品は700あまりにのぼる。生きている人の作品は入れなかった。全体は30巻で、詩や賦(長い韻文)をはじめ、皇帝の命令の文、上奏の文、手紙、論、弔いの文、碑文まで、30余りの種類に分けて並べられている。

蕭統が序文に書いた選び方は、はっきりしていた。儒教の経書は聖人の言葉であり、手を加えて選ぶべきものではない。諸子の書は思想を述べたもので、文章の美しさを目指したものではない。歴史書は事実を記すもので、これも選ばない。ただし、歴史書の中でも歴史家が自分の考えを述べた論や賛は、深く考えたことが美しい言葉に結実しているから選ぶ、とした。思想や事実と区別された「文学」という考えが、ここではっきりと形になった。
蕭統は父の武帝と同じく仏教を篤く信じ、経典の講義もした。父が寺に身を投じて臣下に莫大な金で買い戻させた、という逸話(梁の武帝の捨身)に見られるように、梁の宮廷は仏教と文学の華やかな中心だった。同じころ、蕭統の東宮に仕えた劉勰は、文学の理論を体系立てて論じた『文心雕龍』を著している。南朝の貴族の社会が、文章の美を学問として磨き上げた時代の産物が、『文選』だった。
収められた作品には、後漢の班固や張衡の、都の繁栄をうたう長大な賦、作者の分からない「古詩十九首」、曹植の「洛神賦」、諸葛亮の「出師表」、陶淵明の「帰去来の辞」、屈原の『楚辞』の作品などがある。陶淵明の作品は多くは選ばれておらず、その評価が高まるのはもっと後のことだった。華やかな対句と典故を好む梁の時代の好みも、選び方には表れている。
蕭統は531年、31歳で亡くなった。池で舟遊びをしていて水に落ち、そのけがが元になったと伝えられる。皇太子の地位には弟が立ったが、梁はやがて戦乱に見舞われ、30年もたたずに滅びる。死後、昭明太子とおくりなされたため、『文選』は『昭明文選』とも呼ばれる。
『文選』の生命は、編者の死とともに終わらなかった。唐の時代、科挙の試験では詩や賦を作る力が問われ、『文選』は受験生が暗記するほど読み込む手本になった。658年には李善が詳しい注をつけ、『文選』の研究は「文選学」という一つの学問になる。杜甫は息子に、『文選』の道理をよく学べ、と詩で説いた。宋の陸游は、『文選』が手垢でぼろぼろになるまで読めば科挙の合格は半ばまで来たようなものだ、という意味の古い言い回しを書き留めている。
日本にも早くから伝わった。役人を育てる大学寮でも読まれ、奈良時代の人々は『文選』の言葉を借りて文章を書いた。『万葉集』(『万葉集』の成立)に収められた歌人たちの手紙や序文には、『文選』の表現がしばしば使われている。平安時代の『枕草子』で、清少納言は、書物では白居易の詩文集と『文選』が良い、と書いた。漢字を音で読み、続けて同じ語を訓で読む、日本独特の「文選読み」と呼ばれる読み方も生まれた。

30歳あまりで世を去った一人の皇太子が選んだ詩文は、それから1500年ちかく、中国と朝鮮、日本の人々が文章を書くときの手本となった。何が「文学」なのかを最初に示した本の一つとして、いまも読み継がれている。