バルトロメオ・クリストフォリ
概要
パドヴァの生まれ。1688年、メディチ家のフェルディナンド大公に招かれ、フィレンツェで楽器の管理と製作にあたった。チェンバロとオルガンを作りながら、弦を槌で打つ仕掛けを考えた。槌が弦から離れて戻る脱進機と、二度打ちを防ぐ受けを備えた完成度の高い機構で、後の改良は多くがその延長にある。生前は評価されず、現存する自作の楽器は三台である。
関わったできごと(1)
ピアノの発明AD1700年頃 · 作った本文
バルトロメオ・クリストフォリは1655年5月4日、北イタリアの大学町パドヴァに生まれた。若いころのことはほとんど分かっていない。誰のもとで楽器作りを学んだのかも不明である。ヴァイオリン作りの名匠ニコロ・アマティの弟子だったという話が広まったことがあるが、根拠はないとされる。

1688年、33歳の彼はフィレンツェに招かれた。招いたのは、トスカーナ大公の世継ぎフェルディナンド・デ・メディチである。フェルディナンドは音楽に深く打ち込んだ人で、のちには若いゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルやアレッサンドロ・スカルラッティの作品を宮廷で取り上げ、自分でもチェンバロを弾いた。集めた鍵盤楽器は数十台にのぼり、その手入れと修理、そして新しい楽器作りを任せられる職人が必要だった。クリストフォリはパドヴァを離れたがらなかったが、破格の待遇で口説かれたと伝えられる。
宮廷での仕事は、楽器の管理、修理と調律、新しい楽器の製作だった。彼がまとめた楽器の目録は、いまでは当時の宮廷の音楽を知る大切な史料になっている。新しい楽器では工夫を重ねた。オペラの楽団の中でもよく聞こえるように大きく作り、狭い場所に収まるよう弦を斜めに張った大型のスピネット。弦をできるだけ長く取るために、楕円形の箱に弦を並べた楽器。後者は1690年の作で、いまもフィレンツェに残っている。

当時の鍵盤楽器の王はチェンバロだった。鍵を押すと、爪が弦をはじいて音を出す。華やかに響くが、指の力を変えても音の大きさはほとんど変わらない。もう一つのクラヴィコードは、金属片で弦を押して鳴らすので強弱がつけられたが、音がとても小さかった。大きな音で、しかも強弱を自在につけられる鍵盤楽器は、まだなかった。
遅くとも1700年までに、クリストフォリはその答えを形にした(ピアノの発明)。メディチ家のこの年の楽器目録には、クリストフォリの新しい工夫による、弱い音と強い音を出す大型の鍵盤楽器が記されている。弦をはじくのではなく、革を巻いた小さな槌で打つのである。

難しいのは、打った槌をどう扱うかだった。槌が弦に触れたままだと音が止まってしまう。かといって勢いよく跳ね返れば、もう一度弦を打ってしまう。クリストフォリは、槌が弦を打った瞬間に鍵との連動が外れて槌が自由に落ちる仕掛け(エスケープメント)を作り、落ちてきた槌を受け止めて二度打ちを防ぐ受けを付けた。鍵から指を離せば、布の止音装置が弦に触れて音を止める。のちの楽器では、鍵盤全体をずらして打つ弦の数を変え、音色を変える仕掛けまで備えている。最初の段階から、ほとんど完成した機構が姿を現したのである。
それでも、この楽器は生前ほとんど広まらなかった。音はまだ小さく、鍵盤は重く、値段は高かった。チェンバロの弾き方のままでは、その良さも出なかった。この楽器のために書かれたと明記された最初の曲集、ロドヴィコ・ジュスティーニのソナタ集が出たのは、クリストフォリの死の翌年の1732年である。楽譜には、強弱の指示が書き込まれていた。
外の世界にこの発明を伝えたのは、ほとんど一本の記事だけだった。1711年、学者シピオーネ・マッフェイが、イタリアの文芸雑誌に機構の図を添えて紹介したのである。その記事のドイツ語訳を読んだオルガン製作者ゴットフリート・ジルバーマンが、ドイツで同じ仕組みの楽器を作り始めた。ヨハン・ゼバスティアン・バッハはジルバーマンの初期の楽器を試して、高音が弱く鍵盤が重いと難点を指摘したが、改良された楽器にはのちに満足したと伝えられる。そこから楽器はヨーロッパ中へ広がっていった。
1713年、パトロンのフェルディナンドが父より先に死んだ。だがクリストフォリは宮廷に雇われ続け、1716年には楽器の管理者の地位にあった。晩年には弟子に工房を継がせる準備をした。生涯独身で、1731年1月27日、フィレンツェで死んだ。75歳だった。墓の場所は分かっていない。
彼の作ったピアノは3台が残っている。1720年作はニューヨークのメトロポリタン美術館に、1722年作はローマの楽器博物館に、1726年作はライプツィヒ大学の楽器博物館にある。音は細く澄んでいて、すぐに消えていく。いまのピアノとは別の楽器のようで、リュートに近いと評されることもある。
それでも、いまのピアノの仕組みは、彼の設計の直系の子孫である。1821年、フランスのエラールが、鍵が戻りきらないうちに同じ音を打ち直せる仕掛けを加えた。鉄の枠が張力を支えるようになり、鍵盤の数も増えた。そうして力強くなった楽器の上で、フレデリック・ショパンやフランツ・リストの音楽が花開いた。けれども、槌で弦を打ち、打った瞬間に槌を放すという根本の考えは、300年前にフィレンツェの宮廷の工房で生まれたまま、変わっていない。