人物

ターハー・フセイン

Taha Hussein
AD1889年11月14日 – AD1973年10月28日(享年83)
エジプト重要度 3

概要

3歳で失明し、アラブ近代文学の中心になった。ジャーヒリーヤ詩の真正性を疑って論争を起こし、教育の無償化を進めた。

関わったできごと(1)

教育の無償化(エジプト)AD1950年 · 大臣

本文

1889年11月14日、上エジプトのミニヤ県の小さな村で、製糖会社に勤める下級職員の家に生まれた。13人きょうだいの7番目だった。3歳のころ、目を病んだ。家族は医者ではなく村の理髪師に手当てを任せ、その処置がもとで光を失ったとされる。のちに書いた自伝『日々』で、彼はこの子ども時代を三人称で描いている。見えない少年が、家の垣根の向こうの世界を音と手触りだけで想像し、家族の気づかいと、ときに向けられる哀れみに傷つく姿である。

ブールギーバ大統領らとともにいるターハー・フセイン(1957年、ザイトゥーナ・モスク)
ブールギーバ大統領らとともにいるターハー・フセイン(1957年、ザイトゥーナ・モスク)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

村の寺子屋(クッターブ)でコーランを暗唱し、13歳ほどでカイロのアズハルに送られた。アズハル学院の創設は千年近い歴史を持つイスラーム世界の最高学府だったが、少年の目には、注釈書の注釈を丸暗記させるばかりの古びた場所に映った。教師に反発して叱られることも多かった。

1908年、カイロに新しくエジプト大学(いまのカイロ大学)が開かれた。彼はここに通い、ヨーロッパから招かれた東洋学者たちの講義で、史料を批判的に読む近代の学問に出会う。1914年、中世の盲目の詩人マアッリーについての論文で、この大学の最初の博士号を得た。同じ年、留学生としてフランスに渡り、モンペリエとパリのソルボンヌで学んで、イブン・ハルドゥーンの社会思想についての論文で二つめの博士号を取った。留学中、本を読んで聞かせてくれたフランス人の女性シュザンヌと出会い、結婚している。彼女は生涯、彼の目となった。

1919年に帰国し、大学で古代史とアラビア文学を教えた。1926年、『ジャーヒリーヤ詩について』を出す。ジャーヒリーヤとは、イスラーム以前の「無明の時代」を指し、その時代の詩はアラビア語の古典として、コーランの言葉を理解する手がかりとしても尊ばれていた。彼はその多くが、実はイスラーム以後に、部族の誇りや言葉の研究のために作られた偽作ではないかと論じた。方法として、デカルトの懐疑を持ち込んだ。まず疑い、証拠から確かめる、と。

猛烈な反発が起きた。古い詩を疑うことは、コーランの言葉の証しを疑うことにつながると受け取られた。アズハルの学者たちは彼を非難し、議会で取り上げられ、検察に告発された。検事は、学問上の主張であり罪を問う意図は無いとして訴えを退けたが、本は回収され、彼は一部を削って翌年『ジャーヒリーヤ文学について』として出し直した。1932年には、政府と衝突して大学を追われている。

文筆でも活躍した。『日々』は、盲目の少年が村からアズハルへ、そして大学へと歩む姿を描いて、近代アラビア語の散文の手本とされた。1938年の『エジプトにおける文化の将来』では、エジプトは東方の一部というより、ギリシア以来の地中海の文明に属する、と論じた。この主張にも賛否が渦巻いた。1934年の小説『カルワーン鳥の呼び声』は、名誉の名のもとに殺された姉の復讐を誓って奉公に入った村の娘を描き、のちに映画にもなった。目が見えないため、作品はすべて口述で書かれている。人々は彼を「アラブ文学の長老」と呼んだ。

1950年、ワフド党の内閣で文部大臣になった。そこで行ったのが、教育の無償化である(教育の無償化(エジプト))。それまで初等教育の一部に限られていた無償の教育を、中等教育にまで広げた。「教育は水や空気のように、すべての人に必要なものだ」と主張した。2年後、王制が倒れて内閣も退くが、無償の教育は、その後のガマール・アブドゥル=ナセルの政権でさらに広げられていく。

ノーベル文学賞の候補に何度も挙げられた。1973年10月28日、カイロで死去した。83歳。エジプトが第四次中東戦争を戦っていた月だった。理髪師の手当てで光を失った村の少年は、すべての子が学校に通える国を夢見た文部大臣になった。その道のりは、20世紀のエジプトが、古い学問と近代の学問のあいだで揺れながら進んだ道のりと重なっている。

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