できごと

平等院鳳凰堂

Phoenix Hall of Byōdō-in
AD1053年(天喜元年)
重要度 5
平等院鳳凰堂に関わる図版:Phoenix Hall in Byodo-in Temple, Ujirenge Uji city 2026
Phoenix Hall in Byodo-in Temple, Ujirenge Uji city 2026 Wikimedia Commons Tomio344456 · CC0

概要

末法の始まりの翌年、藤原頼通が宇治の別荘を寺にして、池の中島に阿弥陀堂を建てた。定朝の阿弥陀如来。寄木造。52体の雲中供養菩薩。天井の鏡。扉の来迎図。極楽をこの世に。10円玉に、鳳凰堂。1万円札に、鳳凰。

場所

平等院
34.89°N 135.81°E · 京都府宇治市

関わった人(2)

藤原頼通AD992年–AD1074年3月2日 · 建てた定朝?–AD1057年 · 阿弥陀を彫った

本文

京都の南、宇治川のほとりの地は、平安時代の貴族たちが別荘を構える景勝の地だった。のちに平等院となる土地も、もとは源融の別荘で、いくつかの手を経て998年に藤原道長のものになった。道長はここを宇治殿と呼んで遊んだ。宇治は『源氏物語』の最後の十帖の舞台でもあり、都の人びとにとって、川霧の立つ少し寂しい土地という印象があった。

1027年に道長が死ぬと、別荘は子の藤原頼通が継いだ。頼通は、後一条、後朱雀、後冷泉の三代の天皇のもとで摂政と関白を50年にわたって務め、藤原氏の栄華の頂点(摂関政治の頂点)を父から受け継いだ人物だった。その頼通が、1052年、別荘を寺に改めて平等院とした。この年は、仏の教えが衰えて世が乱れる末法の始まりの最初の年にあたると信じられていた。翌1053年、池の中島に阿弥陀堂が建ち、本尊が安置された。

Japan Kyoto city urban topographic map
Wikimedia Commons Soren Bradley · CC BY 4.0

末法の世では、自分の力で悟りを開くことはできない。阿弥陀仏を念じれば、死ぬときに仏が迎えに来て、西の極楽浄土に生まれ変わらせてくれる。源信が985年に著した源信『往生要集』は、地獄の恐ろしさと極楽の美しさを描いて、この浄土の信仰を貴族のあいだに広めていた。道長も死の床で、阿弥陀仏の手から引いた糸を握って念仏を唱えたと伝えられる。頼通の阿弥陀堂は、その極楽の姿を地上に作り出そうとするものだった。

堂は池の西側に、東を向いて建つ。中央の堂の左右に翼のような廊が延び、背後には尾のような廊が付く。上から見ると、鳥が翼を広げたような形になる。屋根の両端には金銅の鳳凰が一対据えられた。参る人は池の東岸から、水面越しに西を拝む。夕日が堂の背後に沈むとき、極楽は西の彼方にある、という教えがそのまま目に見える配置だった。この堂が鳳凰堂と呼ばれるようになるのは江戸時代からで、建てられた当時は阿弥陀堂と呼ばれていた。

修復以前の鳳凰堂(2010年)
修復以前の鳳凰堂(2010年)Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

堂の中に座る阿弥陀如来は、仏師定朝の作である。像の高さは2.8メートルほど。定朝は、一本の木から像を彫り出すそれまでのやり方に代えて、寄木造という技法を完成させた。いくつもの木材を組み合わせて像の形を作り、内側を刳り抜いて軽くする。一本の大木がなくても大きな像が作れ、割れにくく、複数の仏師が部分を分担して速く作れる。顔は丸く穏やかで、目は伏し目がち、衣の襞は浅く流れるように刻まれ、全体に柔らかな印象がある。この姿は後の仏師たちの手本となり、定朝様と呼ばれて、平安時代の後期の仏像の標準になった。この像は、定朝の作と確かめられる唯一の現存作でもある。

堂の内側は、極楽の光景そのものとして飾られた。本尊の周りの壁の上部には、雲に乗って楽器を奏で、舞い、合掌する52体の菩薩の像が掛けられている。雲中供養菩薩と呼ばれ、琵琶、笙、鼓などを手にした姿が一体ずつ違う。天井や天蓋には螺鈿や銅の鏡がはめ込まれ、灯りを映してきらめいた。扉と壁には、臨終の人のもとへ阿弥陀仏が菩薩たちを従えて雲に乗って迎えに来る来迎図が描かれた。人の生前の行いに応じた九つの段階の来迎を描き分けたもので、背景には日本の山や川の風景が描かれており、やまと絵の古い例としても貴重とされる。

北翼廊
北翼廊Wikimedia Commons Jean-Pierre Dalbéra from Paris, France · CC BY 2.0

極楽が疑わしいのなら、宇治の御寺を敬え。当時そう歌われたと、平安時代の往生者の伝記を集めた書物が伝えている。極楽はこの世に作ることができる、そう信じさせるほどの堂だった。この平等院を手本として、各地の貴族や豪族が阿弥陀堂を建てた。奥州藤原氏の中尊寺金色堂もその流れの中にある。

頼通の時代は、藤原氏の栄華の終わりの時代でもあった。頼通の娘は皇子を産まず、1068年、藤原氏を母方の親族としない後三条天皇が即位すると、天皇は自ら政治を行い、荘園の整理(延久の荘園整理令)に乗り出した。頼通は宇治に退き、1074年に没した。やがて院政の時代が来る。平等院の堂は、去っていく時代の夢を、ほとんどそのまま後世に伝えることになった。

堂内の彩色(内法長押、無目、支輪)
堂内の彩色(内法長押、無目、支輪)Wikimedia Commons Anonymus painters, book:FUKUYAMA TUNEO and MORI TORU · Public domain

平等院は、その後の兵火をほとんど免れた。周囲の建物の多くは失われたが、阿弥陀堂は平安時代の建物として、本尊と菩薩と扉絵とともに残った。1951年から使われている10円硬貨の表には鳳凰堂が描かれ、2004年から発行された1万円札の裏面には屋根の鳳凰が描かれた。1994年には「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録されている。2012年から2014年にかけての修理では、屋根や柱の塗りを、調査で分かった建立当時に近い赤みを帯びた色に戻し、屋根の鳳凰には金箔を押し直した。

浄土の教えは、この後、法然や親鸞によって、貴族だけでなく誰もが念仏で救われるという教えへと広がっていく(法然の専修念仏)。豪華な堂を建てられる者だけが極楽に近づけるのか、という問いへの答えでもあった。

同じ時代のできごと

西夏文字の制定AD1036年畢昇の活字AD1045年頃宋の活字と羅針盤AD1040年頃ダンダーナカーンの戦いAD1040年慶暦の改革AD1043年パガン朝の成立AD1044年プエブロ・ボニートAD1050年頃カホキアの繁栄AD1050年
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