できごと

メディナ・アッザフラー

Madinat al-Zahra
AD936年
重要度 4
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民トゥアレグハザールマンデ系の人びとキエフ・ルーシベドウィンベルベル系の人びとファーティマ朝サーミキエフ・ルーシ東ローマ帝国スラヴの諸部族アグラブ朝マクリア後ウマイヤ朝東フランク王国イドリース朝カロリング朝フランク王国西フランク王国ノルウェー王国Bejas第一次ブルガリア帝国アルワガーナ帝国アヴァールカネムアクスム王国Magyarsバルトの諸部族ガーナSwedes and Gothsクロアチア王国デーン人IrlandaMerciaアストゥリアス王国セルビアChudsPechenegsLombard duchiesAD936年メディナ・アッザフラー
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD936年の版図を描いています(42勢力)。

概要

コルドバのカリフを名乗ったアブド・アッラフマーン3世が、街の西の山の斜面に宮殿の都を建てた。三段の段丘、大理石、水銀の池、1万人の役人と兵。40年で建て、75年で焼かれた。1911年に掘り出し、まだ1割。アンダルスの頂点の、廃墟。

場所

メディナ・アッザフラー
37.89°N -4.87°E · スペイン・コルドバ

関わった人(1)

アブド・アッラフマーン3世AD891年–AD961年 · 建てた

本文

912年、21歳でコルドバのアミール(君主)になったアブド・アッラフマーン3世は、ばらばらになりかけていたイベリア半島のイスラーム教徒の国、後ウマイヤ朝をまとめ直した。各地で背いた豪族を一つずつ従え、北のキリスト教徒の王国とも戦った。929年、彼はカリフを名のった(コルドバのカリフ宣言)。東のバグダードにはアッバース朝のカリフがいたが、北アフリカでは909年にファーティマ朝(ファーティマ朝の成立)がカリフを名のり、海を挟んでアンダルスに迫っていた。かつてダマスクスでカリフの位にあったウマイヤ家の末として、彼も同じ位に立つことを宣言したのである。

カリフには、それにふさわしい都が要った。936年ごろ、アブド・アッラフマーン3世は、コルドバの町から西へ8キロほど、シエラ・モレナの山並みの麓の斜面に、新しい宮殿の都を築き始めた。名はマディーナ・アッザフラー、「輝く町」「花の町」といった意味になる。カリフが愛した女性ザフラーの名をとったという話は、後世の伝えとされる。945年ごろには宮廷が移り、やがて貨幣を作る役所もここへ移された。

アル・ムギーラの小箱(968年、ルーヴル美術館)
アル・ムギーラの小箱(968年、ルーヴル美術館)Wikimedia Commons Workshop at the court of Medina Azahara · Public domain

都は、斜面を三段の段丘に削って作られた。いちばん上の段にカリフの住まい、真ん中の段に役所と庭園、下の段に兵の詰所や市場、そして人々のモスクが置かれた。広さは東西1.5キロ、南北750メートルほど、100ヘクタールを超える。17世紀の歴史家マッカリーが伝える記録では、毎日1万人が働き、6000個の石が切り出され、1500頭のラバやロバが荷を運び、柱は4000本を超えて、カルタゴやローマ、コンスタンティノープルからも取り寄せられたという。何百年ものちに書かれた数字なので、そのまま信じることはできないが、途方もない工事だったことは確かである。

いちばんの見せ場は、953年から957年ごろに造られた大広間で、いまは「豊かな広間」と呼ばれる。馬蹄形のアーチが列をなし、壁は植物の模様を刻んだ石の板で覆われていた。伝えによれば、別の広間の中央には水銀をたたえた池があり、それを揺らすと、差し込む光が壁と天井に跳ね返って、部屋全体が揺れ動くように見えたという。ビザンツの皇帝から贈られた噴水があり、庭には動物を飼う場所や魚の池もあった。

メディナ・アッザフラー北門の遺構
メディナ・アッザフラー北門の遺構Wikimedia Commons Sombradeparra · Public domain

都は外交の舞台でもあった。ビザンツの皇帝、ドイツ王オットー1世、北のキリスト教徒の王たちが使節を送ってきた。使節たちは、兵の列が並ぶ長い道を歩かされ、いくつもの門と広間を通って、ようやくカリフの前に出た。オットー1世の使節ゴルツェのヨハネスは、待たされたすえに謁見を許され、カリフが神のように近づきがたい様子で座っていたことが、彼の伝記に書き残されている。

961年、アブド・アッラフマーン3世は、49年の治世を終えて死んだ。死後、彼の書きつけが見つかり、そこには、治世のあいだに心から幸せだった日を数えたら14日しかなかった、と書かれていたという。これもマッカリーの伝える話である。跡を継いだハカム2世は学問を好み、宮廷の図書館に40万冊の本を集めたと伝えられる(これも誇張とみられる)。

ダール・アル・ジュンド(上部バシリカ式ホール)の外観
ダール・アル・ジュンド(上部バシリカ式ホール)の外観Wikimedia Commons -JvL- · CC BY 2.0

976年、ハカム2世が死ぬと、まだ幼いヒシャーム2世が位を継ぎ、実権は宰相のイブン・アビー・アーミルに移った。のちに「勝利者」(マンスール)と呼ばれ、キリスト教徒の国々からは「アルマンソル」と恐れられた人物である。彼はコルドバの東に自分の宮殿の都マディーナ・アッザーヒラを築いて政治の中心をそちらへ移し、カリフはザフラーの宮殿の奥に閉じ込められた。

マンスールの死後、1009年に後ウマイヤ朝は激しい内乱に陥った。アッザーヒラは焼き払われ、1010年ごろには、ザフラーも、内乱で動いたベルベル人の兵たちに攻められ、略奪された。都は、建て始めてから75年ほどで廃墟になった。1031年、コルドバのカリフの位はなくなり、アンダルスは「タイファ」と呼ばれる小さな王国に分かれていく。廃墟の石や柱は、その後何百年ものあいだ、コルドバやセビーリャの建物の材料として持ち去られた。

ダール・アル・ムルクの装飾アーチ
ダール・アル・ムルクの装飾アーチWikimedia Commons Sombradeparra · Public domain

1911年、建築家ベラスケス・ボスコらが発掘を始めた。崩れた大広間は、壁の石の板を一枚ずつ拾い集めて組み直す作業が、何十年も続けられた。いまも掘り出されたのは都全体の一割ほどにすぎないとされる。2018年、マディーナ・アッザフラーは世界遺産に登録された。コルドバの町に残る大モスク(コルドバの大モスク)とともに、カリフの時代のアンダルスの栄華を伝える遺跡である。

同じ時代のできごと

契丹(遼)の建国AD916年高麗の建国AD918年渤海の滅亡AD926年コルドバのカリフ宣言AD929年アルシングの開設AD930年紀貫之『土佐日記』とかな文字AD935年(承平5年)ごろ大理国の成立AD937年白藤江の戦いAD938年
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