できごと

第九交響曲の初演

Premiere of the Ninth Symphony
AD1824年5月7日
重要度 4
ロシア帝国大英帝国スペイン帝国オスマン帝国デンマークTuranペルシアポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェーオーストリア帝国エジプトスペインフランスNejdモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国オマーンTripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1824年5月7日ウィーン
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概要

耳の聞こえない作曲家が指揮台に立ち、終わったあと聴衆のほうを向かされて初めて拍手に気づいたと伝わる。

場所

ウィーン
48.21°N 16.37°E · オーストリア

関わった人(1)

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンAD1770年12月(洗礼は16日)–AD1827年3月26日 · 当人

本文

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが耳の不調に気づいたのは、20代の後半だった。1802年、ウィーン郊外のハイリゲンシュタットで書いた弟たちあての手紙(ハイリゲンシュタットの遺書)には、聴力を失っていく絶望と、それでも芸術のために生きるという決意が記されている。50歳を過ぎるころにはほとんど聞こえなくなり、人と話すときは相手に会話帳へ書いてもらっていた。

交響曲第9番は、1822年から1824年にかけて書かれた。ロンドンのフィルハーモニック協会から新しい交響曲の注文を受けていたことが、きっかけの一つである。ただ、その最後の楽章で歌われる詩には、ずっと前からこだわりがあった。フリードリヒ・シラーの詩「歓喜に寄す」に曲をつけたいという考えは、ベートーヴェンがまだ故郷のボンにいた20代の初めから、知人の手紙に記されている。

直筆譜
直筆譜Wikimedia Commons Beethoven, Ludwig van (1770 - 1827) · Public domain

当時のウィーンの聴衆は、イタリアのロッシーニの華やかなオペラに夢中だった。ベートーヴェンは新作をベルリンで初演することも考えたが、それを知ったウィーンの貴族や音楽愛好家たちが、ぜひウィーンで、と連名で頼み込み、初演はこの町で行われることになった。

1824年5月7日、会場はケルントナートーア劇場である。演目は、序曲『献堂式』、大作のミサ曲『ミサ・ソレムニス』からの3曲、そして新しい交響曲だった。ベートーヴェンは舞台に立ち、楽員たちに向かってテンポを示したが、実際に楽団と合唱を率いたのは劇場の楽長ウムラウフだった。ウムラウフはあらかじめ楽員たちに、作曲者の身ぶりは気にせず自分の指揮に従うよう伝えていたという。独唱者のうち、ソプラノのゾンタークは18歳、アルトのウンガーは20歳ほどの若い歌手で、二人とも高い音の多い楽譜に苦しみ、書き直しを求めたが、作曲者は聞き入れなかったと伝えられる。

自筆譜
自筆譜Wikimedia Commons Ludwig van Beethoven · Public domain

演奏が終わったとき、客席は熱狂していた。だがベートーヴェンは聴衆に背を向けたまま、まだ楽譜を見つめていた。見かねたウンガーがその袖を引いて客席の方へ向かせると、人々が立ち上がって拍手し、帽子やハンカチを振っているのが見えた。聞こえない作曲家のために、目で分かるようにしたのだという。この場面は後に何人もの人が書き残していて、細部は語り手によって違うが、よく知られた逸話になった。もっとも、演奏会の収入は期待をはるかに下回り、ベートーヴェンは不機嫌になったとも伝えられる。

交響曲第9番は、その長さと形で人々を驚かせた。演奏には1時間あまりかかり、当時のどの交響曲よりも長い。そして最後の楽章に、独唱と合唱が入る。器楽の芸術とされた交響曲に、声と詩をこれほど大きく持ち込んだ例は、それまでなかった。第4楽章は、それまでの三つの楽章の旋律が次々に現れては低音の弦に退けられたあと、静かに「歓喜」の旋律が始まる。やがてバリトンの独唱が「おお友よ、このような音ではない」と歌い出す。この冒頭の言葉はシラーの詩ではなく、ベートーヴェンが自分で書き足したものである。

1824年のベートーヴェン
1824年のベートーヴェンWikimedia Commons Decker, Johann Stephan (1783 - 1844) · Public domain

詩はすべての人が兄弟になる日を歌い、合唱は「抱き合え、幾百万の人々よ」と呼びかける。シラーがこの詩を書いたのはフランス革命の前の1785年で、そこには自由と友愛への憧れが込められていた。ナポレオン戦争が終わり、ウィーン会議の後のウィーンは、宰相メッテルニヒのもとで検閲と警察の監視が厳しい町になっていた。そのただ中で、この詩は響いた。

初演から3年後の1827年、ベートーヴェンは56歳で亡くなった。第9番は19世紀を通じて、交響曲という形式の到達点として仰がれた。リヒャルト・ワーグナーはこの曲を自ら指揮して広めることに力を注ぎ、後の作曲家たちは、ベートーヴェンの後で交響曲を書くことの重さを感じ続けた。作曲者の手書きの楽譜は、いまベルリンの図書館にあり、ユネスコの「世界の記憶」に登録されている。

初演の会場となったケルントナートーア劇場
初演の会場となったケルントナートーア劇場Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

「歓喜の歌」の旋律は、20世紀には国境を越える歌になった。1972年に欧州評議会がこの旋律を自らの歌とし、1985年には後のEUにあたるヨーロッパ共同体も、歌詞のない形でこれを公式の歌に採り入れた。特定の言葉で歌わず、旋律だけで共通の価値を表すという工夫だった。

日本では、第一次世界大戦中の1918年、徳島県の板東の捕虜収容所で、ドイツ兵の捕虜たちが全曲を演奏したのが、国内で最初の全曲演奏とされる。年末に第九を演奏する習慣は、戦後まもない1940年代の後半に始まった。合唱の団員が家族や知人を連れて来るので客席が埋まり、楽団員の年越しの収入になった、という事情がよく語られる。いまでは12月になると、全国の各地で数多くの第九の演奏会が開かれている。

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