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Person / 人

カラヴァッジョ

Caravaggio
AD1571年9月29日 – AD1610年7月18日(享年38)
イタリア重要度 5

概要

ミラノ近郊カラヴァッジョ村。ペストで両親を失った。ローマで、初め果物と少年を描いて売り、枢機卿デル・モンテに認められた。下絵を描かず、モデルを直接カンヴァスに写した。娼婦を聖母のモデルにして、注文主に拒まれた。1606年、テニスの賭けの喧嘩で人を殺し、死刑を宣告されて逃亡。ナポリ、マルタ、シチリア。赦免の知らせを待ちながら、トスカーナの海岸で熱病で死んだ。38歳。

関わったできごと(1)

カラヴァッジョ『聖マタイの召命』AD1600年 · 描いた

本文

1571年9月29日(洗礼は9月30日、聖ミカエルの日)、ミラノ。ミケランジェロ・メリージ。父フェルモは、カラヴァッジョ侯爵家の執事兼建築技師。

1576〜77年、ミラノのペスト。父、祖父、祖母、叔父が、同じ日か近い日に死んだ。6歳。母と、カラヴァッジョ村へ。

1584年、13歳。ミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノ(ティツィアーノの弟子を自称した)に4年の徒弟。

1592年、母が死に、遺産を分けて、ローマへ。20歳。無一文に近かった。何人かの画家の下働き(他人の絵の花と果物だけを描く仕事)。病気になって、貧民病院で数か月。

1595年頃、絵を路上で売っていたところを、枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテに買われ、その館(パラッツォ・マダマ、いまのイタリア上院)に住み込んだ。デル・モンテは音楽と美術と科学(ガリレオの後援者でもあった)の愛好家。ここで彼は、『音楽家たち』『リュート奏者』『バッカス』『トカゲに噛まれた少年』を描いた。

1599年、コンタレッリ礼拝堂の注文。1600年、公開。ローマの画家たちが見に来た。以後、注文が絶えなくなった。

彼のやり方。(1)下絵を描かない。モデルを直接カンヴァスに写す(そのため、大きな絵で人物の配置がずれることがある)。(2)モデルは街の人。娼婦、宿の給仕、少年。1606年の『聖母の死』(ルーヴル)は、水死体の娼婦をモデルにした、と噂されて、注文主の修道会が受け取りを拒んだ(ルーベンスが価値を認めて、マントヴァ公に買わせた)。(3)暗い部屋に、一方向から強い光。

拒否された絵。『聖マタイと天使』(第一作。天使がマタイの手を取って字を書かせ、マタイが農夫のように足を投げ出している)。『聖アンナと聖母子』(蛇を踏むマリアの胸元が開いていた)。『ロレートの聖母』(巡礼の足が泥だらけ)。

暴力の記録。ローマの裁判所の文書に、彼の名前が繰り返し出てくる。1600年、棒で人を殴る。1601年、剣を持って歩く(許可があった)。1603年、画家バリオーネを中傷する詩で訴えられ、投獄(バリオーネは後に彼の伝記を書いた。悪意のこもった伝記で、しかし史料としては貴重)。1604年、宿の給仕にアーティチョークの皿を投げつける(「バターで料理したのはどれだ」と聞いて、給仕が「匂いを嗅げば分かる」と答えたので)。1605年、公証人を襲う(女をめぐって)。同じ年、大家の窓に石を投げる。

1606年5月28日、カンポ・マルツィオ。テニス(パッラコルダ)の賭けから、ラヌッチョ・トマッソーニと剣で争い、彼を殺した。トマッソーニは地元の顔役の弟。彼自身も重傷を負った。

「バンド・カピターレ」。首に賞金がかかり、誰でも彼を殺してよい、という布告。

逃亡。コロンナ家の領地に隠れ、ナポリ(1606〜07年。『慈悲の七つの行い』『キリストの鞭打ち』)、マルタ島(1607〜08年。騎士団長の肖像を描き、「服従の騎士」に叙された。数か月後、上位の騎士との争いで投獄され、脱獄し、除名された。「腐った、悪臭を放つ一員として」と記録にある)、シチリア(シラクサ、メッシーナ、パレルモ。1年で4点の大作)、ナポリ(1609年。宿の前で4人に襲われ、顔を切り裂かれた。「彼は死んだ」という噂がローマに流れた)。

晩年の絵。『ラザロの復活』『羊飼いの礼拝』『聖ウルスラの殉教』(1610年)。筆が速く、絵具が薄く、闇が広い。『ゴリアテの首を持つダビデ』(ボルゲーゼ美術館)のゴリアテの首は、彼自身の自画像だと言われる。恩赦を求めて、この絵を教皇の甥に送るつもりだった、という説がある。

1610年7月。恩赦が近い、という知らせを受けて、ナポリから船でローマへ向かった。ポルト・エルコレ(スペイン領の要塞地)で、何らかの理由で拘束され(人違い、という説)、釈放されたときには船が荷物を積んだまま出ていた。彼は海岸を追った。熱を出した。7月18日、死んだ。38歳。

死因。マラリア、鉛中毒(絵具)、敗血症、そして殺害説。2010年、ポルト・エルコレの墓地の遺骨から、鉛が高濃度で検出された遺骨が見つかり、「85%の確率で彼のもの」と報じられた。

死後、彼を真似た画家が各地に生まれた(「カラヴァッジェスキ」)。ナポリ、ユトレヒト、スペイン、フランス(ラ・トゥール)。しかし17世紀後半には、アカデミーの基準(デッサン、理想化)から外れるとして評価が落ち、19世紀までほとんど忘れられた。1951年、ミラノの展覧会(ロベルト・ロンギ企画)で、全面的に見直された。

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