できごと

マショー『ノートルダム・ミサ』

Messe de Nostre Dame
AD1360年頃
年に諸説あり重要度 5
シベリアの諸集団キプチャク汗国リャザン公国マムルーク朝ノヴゴロド公国サーミノルウェー神聖ローマ帝国ハフス朝ポーランド王国フランス王国リトアニア大公国English territoryセルジューク朝スウェーデンカスティーリャ王国ハンガリー王国モロッコTeutonic Knights東ローマ帝国アラゴン王国ブルガール可汗国デンマークシチリア王国ポルトガルRaškaスコットランドオスマン帝国ヴェネツィア共和国AD1360年頃ランス
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1360年頃の版図を描いています(29勢力)。

概要

ランス大聖堂の参事会員で、ボヘミア王の秘書で、詩人で、作曲家が、ミサの通常文(キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイ、イテ・ミサ・エスト)を、一人で、4声で、一つの作品として作曲した。最初。「アルス・ノヴァ(新しい技法)」。イソリズム。自分と兄の死後のミサのために。ランスで、毎週土曜日、100年歌われた。

場所

ランス
49.26°N 4.03°E · フランス

関わった人(1)

ギヨーム・ド・マショーAD1300年頃–AD1377年4月 · 作曲した

本文

カトリックのミサで歌われる言葉には二種類ある。キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイ、そして終わりのイテ・ミサ・エストは、どの日も同じ言葉で「通常文」と呼ばれる。入祭唱や昇階唱のように祝日ごとに入れ替わるのが「固有文」である。長いあいだ、これらは単旋律のグレゴリオ聖歌の成立で歌われた。12世紀から13世紀にかけてパリのノートルダム大聖堂などで複数の声部を重ねる音楽が育ったが、多声で飾られたのは主に固有文で、通常文の多声曲も、楽章ごとに別々に作られ、別々に写されていた。14世紀前半の「トゥルネーのミサ」のように通常文を一揃いにした写本もあるが、作曲者も書かれた時期もまちまちな曲の寄せ集めである。

ギヨーム・ド・マショーの『ノートルダム・ミサ』は、一人の作曲家が通常文のすべてを、4声の一つの作品として書いた、知られる限り最初の例とされる。マショーは1300年頃シャンパーニュに生まれ、若くしてボヘミア王ヨハン(ルクセンブルク家)の秘書となり、王に従ってヨーロッパ各地を旅した。王の取りなしで1337年頃からランス大聖堂の参事会員の職を得た。参事会員は大聖堂の聖務を担い、その収入で暮らす聖職者で、必ずしも司祭ではない。主君のヨハン王は1346年、盲目の身でクレシーの戦いに出て戦死した。

クレシーの戦いに関わる図版:Battle of crecy froissart
クレシーの戦いWikimedia Commons Loyset Liédet · Public domain

ランスはフランス王が戴冠式を挙げる町で、マショーが暮らした時代は百年戦争のただ中にあった。1348年には黒死病が町を襲い、1356年、フランス王ジャン2世がポワティエの戦い(1356年)で捕らえられた。1359年の暮れから翌年の初めにかけて、イングランド王エドワード3世がランスを囲んだ。戴冠式を挙げて王位を奪うつもりだったとされる。参事会員たちは城壁の守りについた。ミサが書かれたのは、この包囲の後の1360年代初めと考えられている。

書かれた目的は、長いあいだ1364年のシャルル5世の戴冠式のためと言われてきたが、裏づける史料は無い。いまの研究では、マショーと兄ジャン(同じくランスの参事会員)が、自分たちの死後の魂の救いのために大聖堂へ寄進した、毎週土曜日の聖母のミサのために書かれたと考えられている。題の「ノートルダム」は「われらの貴婦人」、つまり聖母マリアのことである。兄弟の死後、このミサが歌われ続けた記録は15世紀の初めまで残っている。

マショー『ノートルダム・ミサ』のキリエ(楽譜)
マショー『ノートルダム・ミサ』のキリエ(楽譜)Wikimedia Commons manuscrito sob a supervisão do autor · Public domain

4つの声部は、上から順にトリプルム、モテトゥス、テノル、コントラテノルと呼ばれる。キリエ、サンクトゥス、アニュス・デイ、イテ・ミサ・エストでは、テノルに聖歌の旋律を置き、それをいくつかの決まったリズムの型に区切って繰り返す「イソリズム」の技法が使われる。キリエの土台はグレゴリオ聖歌の「全能の父なる神(クンクティポテンス・ゲニトル・デウス)」の旋律である。上の声部はその上を細かく自由に動き、声部が音を交互に投げ合うホケトゥスの技法も聞こえる。歌詞の長いグロリアとクレドは、4声がほぼそろって言葉を運び、最後の「アーメン」だけが長く飾られる。響きは、のちの長調・短調の和音とは違い、空虚な5度と8度で閉じる。全楽章に共通の動機があるかどうかは、研究者の間で意見が分かれている。

この書き方の背景には、「アルス・ノヴァ(新しい技法)」と呼ばれる14世紀の音楽の革新がある。名はフィリップ・ド・ヴィトリのものとされる1320年頃の理論書から来ている。それまで「完全」とされた3分割のリズムに加えて2分割を認め、細かい音符を書き分けられるようにした。教皇ヨハネス22世は1324年から翌年にかけて、新しい流派が音符を刻み、旋律を跳ね回らせて信仰を乱していると教令で非難したが、流れは止まらなかった(教皇のアヴィニョン捕囚の時代である)。

ギヨーム・ド・マショーの肖像
ギヨーム・ド・マショーWikimedia Commons Public domain

マショーは作曲家であると同時に、当代一の詩人でもあった。晩年の物語詩『真実の物語』は、老詩人と若い娘の手紙のやりとりを綴る。彼は自分の詩と曲を、決めた順序で写本にまとめさせた。そうした作品集の写本はいまも6冊ほど残っていて、作者が自分の全集を編んだ早い例として知られる。ミサもその中に収められていたから、600年以上を経て、全曲を楽譜で読むことができる。同時代のペトラルカがイタリアで自作の詩を編み直していたのと、同じ頃である。

マショーは1377年に死んだ。その後、通常文を一つの作品として作曲するミサ曲は、15世紀のデュファイやオケゲム、ジョスカン、16世紀のパレストリーナへと受け継がれ、ヨーロッパの作曲家が腕を示す最大の形式になった。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『ロ短調ミサ』もヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『戴冠ミサ』も、この系譜の上にある。マショーのミサがその直接の手本になったわけではないが、一人の作者がミサ全体を一つの建築として設計するという考え方は、ランスのこの曲に最初の形を見ることができる。

同じ時代のできごと

塩税AD14世紀ペトラルカの桂冠AD1341年4月8日クレシーの戦いAD1346年8月26日黒死病1347年浮浪を罰するAD1349年カホキアの放棄AD1350年頃マジャパヒト王国の隆盛AD1350年頃アユタヤ朝の成立AD1351年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1360年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →