人物

エルヴィス・プレスリー

Elvis Presley
AD1935年1月8日 – AD1977年8月16日(享年42)
アメリカ合衆国重要度 4

概要

ミシシッピ州テューペロの貧しい家。双子の兄は死産だった。教会のゴスペルと、ラジオのブルースとカントリーを同じだけ吸って育った。1954年、サン・スタジオ。腰を振る動きがテレビで問題になり、上半身だけ映された。1958年から2年、陸軍でドイツに駐屯。以後は映画とラスヴェガスの興行に囲い込まれ、処方薬に溺れた。42歳で死んだ。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

エルヴィスとサン・スタジオAD1954年7月5日 · 歌った

本文

エルヴィス・アーロン・プレスリーは1935年1月8日、ミシシッピ州テューペロの、二部屋しかない板張りの家で生まれた。家は父ヴァーノンが自分で建てたものだった。彼は双子で、先に生まれた兄ジェシー・ガロンは死産だった。エルヴィスは生涯、この兄のことを口にし続けたという。

エルヴィス・プレスリー(宣材写真、1955年)
エルヴィス・プレスリー(宣材写真、1955年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

家は貧しかった。1938年、父は小切手の偽造で3年の刑を言い渡され(実際の服役は8か月ほど)、一家は家を失って親類の家を転々とした。1948年、一家はテネシー州メンフィスへ移り、やがて公営住宅ローダーデール・コーツに入った。

音楽は三方から入ってきた。ひとつは母と通ったアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会の礼拝で、そこでは人々が体を揺らし、手を叩き、我を忘れて歌った。もうひとつはラジオのカントリーとゴスペル。そしてメンフィスのビール・ストリートに集まる黒人の店と、そこで鳴るブルースのレコードである(デルタのブルース)。10歳のとき、地元の品評会の歌唱大会で「オールド・シェップ」を歌って入賞した。11歳の誕生日には、母グラディスが金物店で、彼が欲しがっていた別のものの代わりにギターを買い与えた。

ハーレー・ダビッドソンに乗るエルヴィス(1956年)
ハーレー・ダビッドソンに乗るエルヴィス(1956年)Wikimedia Commons Creator:Ted Bruehl · Public domain

1953年にヒューム高校を卒業し、電気工事会社のトラックの運転手になった。1954年7月5日、サム・フィリップスのサン・スタジオで、ギターのスコッティ・ムーア、ベースのビル・ブラックと録った「ザッツ・オール・ライト」が、地元のラジオで繰り返しかかった(エルヴィスとサン・スタジオ)。黒人のブルースを白人の若者が、カントリーの軽さで歌う。その組み合わせが新しかった。

サンから5枚のシングルを出し、南部を巡業した。マネージャーには「大佐」を名乗るトム・パーカーが付いた。のちに分かったことだが、パーカーはオランダからの不法な移民で、本名をアンドレアス・コルネリス・ファン・カイクといった。旅券を取れなかったことが、エルヴィスがほとんど海外で公演しなかった理由だと広く考えられている。

リベラーチェとエルヴィス(1956年)
リベラーチェとエルヴィス(1956年)Wikimedia Commons Associated Press · Public domain

1955年11月、大手のレコード会社がサンから契約を買い取った。1956年の「ハートブレイク・ホテル」が全米1位になり、同じ年に「ハウンド・ドッグ」(もとは黒人歌手ビッグ・ママ・ソーントンの曲)、「ドント・ビー・クルーエル」、「ラヴ・ミー・テンダー」が続いた。腰を揺らして歌う姿に、新聞や司会者は「卑猥だ」と眉をひそめ、その非難が何よりの宣伝になった。1957年1月、エド・サリヴァン・ショーの3度目の出演では、カメラは上半身しか映さなかった。それでも番組の終わりに、サリヴァンはこの若者を「本当に立派な青年だ」と客席に紹介している。

1958年3月、人気の絶頂で徴兵され、2年間陸軍に勤めた。西ドイツのフリートベルクに駐屯し、特別扱いを断って一兵卒として過ごした。入隊の年の8月14日、母グラディスが46歳で死に、彼はひどく取り乱した。ドイツでは、駐留将校の継娘で14歳のプリシラ・ボーリューと出会った。二人は1967年に結婚し、翌年に娘リサ・マリーが生まれ、1973年に離婚した。

エド・サリヴァンとエルヴィス(1956年)
エド・サリヴァンとエルヴィス(1956年)Wikimedia Commons CBS · Public domain

除隊後の1960年代、パーカーの方針で彼は映画に閉じ込められた。出演した長編は31本。多くは筋の薄い、歌の入った軽い喜劇で、歌も映画のための量産品になった。1964年にはビートルズがアメリカに上陸し(ビートルズがアメリカへ)、若者の音楽の中心は彼から離れていった。

1968年12月に全国放送されたテレビの特番は、のちに「カムバック・スペシャル」と呼ばれる。黒い革の服を着て、四方を客に囲まれた小さな舞台で、昔の仲間と汗だくで歌った。翌1969年からはラスヴェガスのインターナショナル・ホテルで大きな公演を始め、以後はラスヴェガスと全米の巡業を死ぬまで繰り返した。

陸軍に勤務していた頃のプレスリー
陸軍に勤務していた頃のプレスリーWikimedia Commons Vittoriano Rastelli · Public domain

その裏で、体は崩れていった。睡眠薬、覚醒剤、鎮痛剤を、専属の医師が大量に処方し続けた(この医師はのちに免許を停止されている)。体重が増え、舞台で言葉がもつれるようになった。1977年8月16日、メンフィスの自宅グレースランドの浴室で倒れ、42歳で死んだ。検死は不整脈としたが、複数の処方薬の影響があったと広く考えられている。

全米1位の曲は18曲。生涯のレコード売上は世界で5億枚以上とも言われるが、正確な集計はできない。黒人の音楽で富を得た白人の象徴として批判される一方、人種で分けられていたレコード店の棚とラジオの番組を崩した一人でもある。本人は1956年の取材で、黒人の歌い手たちは自分が生まれるずっと前から、いま自分がやっているように歌い、演奏してきたのだ、と語っている。

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