人物

フェリックス・メンデルスゾーン

Felix Mendelssohn
AD1809年2月3日 – AD1847年11月4日(享年38)
ドイツ重要度 4

概要

ハンブルクの銀行家の家。祖父は哲学者モーゼス・メンデルスゾーン。裕福で、家に楽団を呼べた。17歳で『真夏の夜の夢』序曲。20歳でバッハの『マタイ受難曲』を復活させた。姉ファニーも同等の才能を持ちながら、女性であるために公にできなかった。ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの指揮者、音楽院の創設者。姉の死の半年後、38歳で死んだ。ナチスは彼の像を壊した。

関わったできごと(1)

マタイ受難曲の復活上演AD1829年3月11日 · よみがえらせた

本文

フェリックス・メンデルスゾーンは1809年2月3日、ハンブルクに生まれた。祖父モーゼス・メンデルスゾーンは、デッサウの貧しいユダヤ人の家から身ひとつでベルリンに出て、独学で哲学者になった人物である。ユダヤ啓蒙(ハスカラー)の中心にいて、友人レッシングの戯曲『賢者ナータン』の主人公の下敷きになったとされる。

フェリックス・メンデルスゾーンの肖像(エドゥアルト・マグヌス画、1833年)
フェリックス・メンデルスゾーンの肖像(エドゥアルト・マグヌス画、1833年)Wikimedia Commons Eduard Magnus · Public domain

父アブラハムは銀行家として成功した。偉大な父と、やがて名を上げる息子に挟まれた自分を、「かつては父の息子と呼ばれ、いまは息子の父と呼ばれる」と自嘲したと伝えられる。1811年、ナポレオン軍の占領下にあったハンブルクを逃れ、一家はベルリンへ移った。1816年、4人の子はプロテスタントの洗礼を受け、両親も数年後に受洗した。姓には、母方の伯父が名乗っていた「バルトルディ」が加えられた。

家は裕福で、日曜には自宅に小さな楽団を呼んで演奏会を開けた。少年はその場で自作を試すことができた。9歳で公開の舞台に立ち、10歳でジングアカデミーに入った。12歳から14歳のあいだに弦楽のための交響曲を12曲書き、16歳で弦楽八重奏曲、17歳で『真夏の夜の夢』序曲を書いた。音楽史の早熟としてはモーツァルトとよく比べられ、16歳の時点の完成度ではメンデルスゾーンが上だと言われることもある。

12歳のメンデルスゾーン1821年 カール・ヨーゼフ・ベガス作
12歳のメンデルスゾーン1821年 カール・ヨーゼフ・ベガス作Wikimedia Commons Carl Joseph Begas · Public domain

同じ教育を受け、同じ才能を見せたのが4歳上の姉ファニーである。父は1820年、彼女への手紙に、音楽は弟にとっては職業になるだろうが、お前にとっては飾りにしかなり得ないし、そうであるべきだ、と書いた。ファニーは生涯に460曲以上を書いたが、初期の歌曲のいくつかは弟の歌曲集に紛れ込ませる形で、弟の名で出版された。1842年、バッキンガム宮殿でヴィクトリア女王がフェリックスの前で「いちばん好きな歌」として歌ったのは、実はファニーの曲だった。弟は手紙にそのことを書き残し、女王に本当の作者を打ち明けている。

1829年3月、20歳のフェリックスはベルリンのジングアカデミーで、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『マタイ受難曲』を指揮した。作曲者の死後ほぼ80年、全曲としてはまず演奏されることのなかった大曲である(マタイ受難曲の復活上演)。演奏会は満員になり、忘れられていたバッハが「過去の偉大な作曲家」として甦るきっかけになった。

「弦楽八重奏曲」の草稿の最初のページ アメリカ議会図書館蔵
「弦楽八重奏曲」の草稿の最初のページ アメリカ議会図書館蔵Wikimedia Commons Felix Mendelssohn · Public domain

同じ年、彼はイギリスに渡った。スコットランドを歩いて『ヘブリディーズ諸島』序曲と交響曲第3番『スコットランド』の着想を得、続くイタリアの旅からは交響曲第4番『イタリア』が生まれた。イギリスには生涯に10回渡り、ヴィクトリア女王とアルバート公に厚く迎えられた。オラトリオ『エリヤ』は1846年、イギリスのバーミンガムで初演されている。

1835年からはライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者を務めた。リハーサルを重ねて演奏の質を上げ、指揮棒で楽団を率い、曲の並べ方に筋を持たせた。それまで新作が中心だった演奏会に、バッハ、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンを定期的に載せ、「古典」を聴く場に変えた。1839年には、シューマンがウィーンで見つけたシューベルトの交響曲『ザ・グレート』を初演した。1843年には、ドイツで最初の音楽院であるライプツィヒ音楽院を開いた。ヴァイオリン協奏曲ホ短調は、楽団の独奏者フェルディナント・ダーヴィトと何年も相談を重ねて書き上げ、1845年に初演された。

ゲーテ 1828年
ゲーテ 1828年Wikimedia Commons Joseph Karl Stieler · Public domain

周囲の人々は、彼の勤勉さと人当たりの良さを書き残している。指揮、作曲、演奏、教育、運営を同時に抱え、晩年に近づくほど疲れを訴えるようになった。

1847年5月、ファニーがリハーサル中に脳卒中で倒れ、41歳で死んだ。知らせを聞いたフェリックスは叫び声を上げて気を失ったと伝えられる。スイスで静養したが回復せず、同じ年の11月4日、ライプツィヒの自宅で死んだ。38歳。死因は姉と同じ脳卒中とされる。

ライプツィヒのメンデルスゾーンの書斎
ライプツィヒのメンデルスゾーンの書斎Wikimedia Commons Zarafa · Public domain

死後、評価は揺れた。リヒャルト・ワーグナーは1850年、偽名で論文『音楽におけるユダヤ性』を発表し、ユダヤ人には模倣しかできないとして彼を名指しで貶めた(1869年に実名で再刊した)。ナチス政権は彼の音楽の演奏を禁じ、1936年にはゲヴァントハウス前の記念像を撤去した。『真夏の夜の夢』の結婚行進曲だけはあまりに広く使われていたため、代わりの曲が作曲家たちに発注されたが、どれも根づかなかった。

ライプツィヒに像が戻ったのは2008年、市民の募金による。いま彼は、甘く整った旋律の作曲家としてだけでなく、過去の音楽を演奏会の中心に据え、指揮と音楽教育の形を整えた人として記憶されている。

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