トルバドゥールの歌
概要
アキテーヌ公ギヨーム9世が、オック語で、恋の歌を作った最初の人。「フィン・アモール(雅な愛)」。手の届かない貴婦人に、騎士が仕える。ベルナール・ド・ヴァンタドゥール、ベルトラン・ド・ボルン、ジャウフレ・リュデル(「遠くの愛」)、女のトロバイリッツ(ディア伯爵夫人)。孫娘アリエノールが北へ、イギリスへ運んだ。トルヴェール、ミンネゼンガー、ダンテ、ペトラルカ。ヨーロッパの恋愛は、ここで作られた。
場所
46.58°N 0.34°E · フランス
関わった人(1)
エレノア・オブ・アキテーヌAD1122年頃–AD1204年4月1日 · 運んだ本文
中世のフランスには、大きく分けて二つの言葉があった。ロワール川より北では「はい」を「オイル」と言い、南では「オック」と言った。南の言葉、オック語の地は、ポワトゥーやリムーザンからトゥールーズ、プロヴァンスにまで広がる。ローマの名残の都市が多く、地中海を通じてイスラーム世界とも行き来のあったこの地方で、11世紀の終わり、恋を歌う新しい詩が生まれた。作り手はトルバドゥール、オック語で「見つける人」と呼ばれた。言葉と節を見つけ出す人、という意味である。
最初のトルバドゥールとして名が残るのは、ギヨーム9世(1071〜1126年)である。アキテーヌ公でポワトゥー伯、領地の広さではフランス王をしのぐ大諸侯だった。第一回十字軍(第1回十字軍のエルサレム占領)には加わらなかったが、1101年に自ら軍を率いて東へ向かい、アナトリアでトルコ軍に壊滅させられて、わずかな供とともに帰ってきた。教会とはたびたび争い、二度破門されている。家臣の妻だったシャテルロー子爵夫人を城に住まわせ、その姿を盾に描かせて、寝床で自分を支えてくれたように戦場でも支えてほしいと言った、とイングランドの年代記作者が書き残している。

この型破りな君主の作とされる歌が、11篇ほど伝わっている。中には酒場の冗談のような下品な歌もあれば、春の訪れとともに貴婦人への思いを打ち明ける端正な歌もある。何についての歌でもない歌を作ろう、と始まる一篇もある。ここに、のちのトルバドゥールが磨いていく主題と形が、もうほとんど出そろっていた。
彼らが歌った愛は、フィン・アモール(洗練された愛)と呼ばれる。歌い手は一人の貴婦人に仕える。その人はたいてい結婚していて、身分も上で、手が届かない。愛は報われないことでかえって歌い手を高め、礼節と節度と忍耐を教える。歌の中で貴婦人は「わが主君」と男の呼び名で呼ばれ、恋する者はその家臣としてふるまった。主君に誓う封建の忠誠を、そっくり恋の言葉に写し替えたのである。

12世紀は、トルバドゥールの盛りの時代だった。ジャウフレ・リュデルは「遠くの愛」を歌った。のちに付けられた伝記によれば、彼は会ったこともないトリポリの伯爵夫人を巡礼者の噂だけで愛し、海を渡り、病に倒れて彼女の腕の中で息を引き取ったという。これは歌から逆に作られた物語とされる。ベルナール・ド・ヴァンタドゥールは城のパン焼きの子と伝えられ、雲雀が喜びのあまり翼を打って舞い上がり、我を忘れて落ちてくるのを見ると妬ましくなる、と歌った。ベルトラン・ド・ボルンは戦の喜びを歌い、のちにダンテ・アリギエーリは『神曲』の地獄で、自分の首を提灯のように提げて歩く姿に彼を描いた。アルナウト・ダニエルは技巧の極みのような詩形セスティーナを作り、ダンテから「最良の職人」と呼ばれた。女性の詩人トロバイリッツも少なくない。ディア伯爵夫人は、恋した騎士をある夕べ裸の腕に抱きたいと、男の詩人に劣らず率直に歌っている。
いまに伝わる歌は2500篇ほど、名の分かる詩人は400人を超える。旋律が残っているのはそのうち一割ほどにすぎない。歌を作る者と、各地の宮廷を回って歌い演じる芸人のジョングルールとは、別の人であることが多かった。君主から職人の子まで、身分の違う人々が同じ技を競ったことも、この文化の新しさだった。

南の歌を北へ運んだのが、ギヨーム9世の孫娘エレノア・オブ・アキテーヌである。1137年にフランス王ルイ7世の妃となり、離婚ののち1152年にアンジュー伯アンリと再婚して、アンリは1154年にイングランド王ヘンリー2世となった。彼女の宮廷にはベルナール・ド・ヴァンタドゥールもいたと伝えられる。娘のマリー・ド・シャンパーニュの宮廷では、クレティアン・ド・トロワが騎士ランスロと王妃の道ならぬ恋の物語を書き、アンドレアス・カペラヌスが『宮廷風恋愛について』で恋の作法を論じた。北フランスではトルヴェール、ドイツではミンネゼンガーと呼ばれる詩人たちが、南の型を自分たちの言葉で歌い継ぐ。
南の宮廷の文化は、13世紀の初めに暴力で断ち切られた。異端とされたカタリ派の討伐を名目に、北フランスの諸侯が南へ攻め込んだアルビジョア十字軍(1209〜29年)である。保護者だった南の領主たちは土地を奪われ、トルバドゥールの多くはスペインやイタリアの宮廷へ移った。オック語の歌の伝統は、13世紀の末にはほぼ途絶える。

だが、歌の型は生き延びた。イタリアでは、シチリアの宮廷の詩人を経て「清新体」と呼ばれる詩が生まれ、ダンテはベアトリーチェを、ペトラルカはラウラを、手の届かない理想の女性として歌った。一人を選び、その人のために自分を磨き、報われなくとも待ち続ける。スイスの思想家ドニ・ド・ルージュモンは『愛と西洋』(1939年)で、ヨーロッパの人が恋と呼ぶものの型はこの南フランスで作られたと論じた。それ以前からあったと反論する研究者も多い。少なくとも、恋を自分の言葉で歌い、それを洗練の証しとする文化が、ここで一つの形になったことは確かである。