人物

ペトラルカ

Petrarch
AD1304年7月20日 – AD1374年7月19日(享年69)
アヴィニョン重要度 5

概要

アヴィニョンの教会でラウラを見て、生涯366篇のソネットを書いた。キケロの手紙を見つけ、古代を「光」、その後を「暗黒」と呼んで、ルネサンスの言葉を作った。ヴァントゥー山に登って景色のために登った最初の人とされる。机で本を読んだまま死んだ。

関わったできごと(1)

ペトラルカの桂冠AD1341年4月8日 · 詩人

本文

フランチェスコ・ペトラルカは、1304年7月20日、トスカーナの町アレッツォに生まれた。父ペトラッコはフィレンツェの公証人だったが、市の政争で白派に属し、1302年、ダンテ・アリギエーリと同じ年に同じ理由で故郷を追放されていた。ペトラルカは亡命者の子として生まれ、生涯、フィレンツェに住むことはなかった。

フランチェスコ・ペトラルカ
フランチェスコ・ペトラルカWikimedia Commons Public domain

1312年、一家は南フランスのアヴィニョンに移った。教皇がローマを離れてこの町に宮廷を置いていた時代である(教皇のアヴィニョン捕囚)。少年は近くの町カルパントラで文法と修辞を学び、ラテン語の古典、とくにキケロとウェルギリウスに夢中になった。父は息子を法律家にしようと、モンペリエ、次いでボローニャの大学へ送った。法学を学んだ年月を、彼はのちに無駄に過ごした7年と書いている。父が古典の本を火に投げ込み、泣き叫ぶ息子を見て、ウェルギリウスとキケロの本だけは炎から拾い上げてやった、という話も本人が伝えている。

1326年に父が死ぬと、彼は法学を捨ててアヴィニョンに戻った。生計のために下級の聖職者となり、ローマの名門コロンナ家の庇護を受けた。教皇庁の町アヴィニョンの腐敗と喧騒を、彼は旧約聖書の堕落の都になぞらえて「バビロン」と呼んで嫌った。

ペトラルカの同時代の肖像(アルティキエロ画、1370-80年頃)
ペトラルカの同時代の肖像(アルティキエロ画、1370-80年頃)Wikimedia Commons Altichiero · Public domain

1327年4月6日の朝、アヴィニョンのサント・クレール教会で、彼は一人の女性を見た。ラウラである。彼はこの日から生涯、彼女を歌い続けた。ラウラが誰だったのかは分かっていない。地元の貴族の妻ラウラ・ド・ノーヴという説が古くからあるが、確証はない。友人の中にさえ、ラウラは実在せず、彼が憧れた月桂樹(ラウロ)と栄光の名を掛けた詩の上の存在にすぎないのではないかと疑う者がいた。彼はこれを強く否定している。

彼はラテン語の学者として名声を得た。古い修道院の図書館を巡って、忘れられていた古代の写本を探した。1333年にはリエージュでキケロの弁論『詩人アルキアス弁護』を、1345年にはヴェローナでキケロが友人アッティクスらに宛てた手紙の写本を見つけた。そこには、彼が理想の賢人と仰いでいたキケロの、政治に揺れ動く生身の姿があった。彼は死んだキケロに宛てて、生きた友に書くように手紙を書いた。古代は光に満ちた時代であり、その後の長い時代は暗闇だった、と彼は考えた。のちに「暗黒時代」と呼ばれる見方の源の一つであり、古代の学問を甦らせようとする人文主義の始まりとされる。

ペトラルカの『ウェルギリウス写本』の表題紙(シモーネ・マルティーニの彩飾、1336年頃、アンブロジアーナ図書館)
ペトラルカの『ウェルギリウス写本』の表題紙(シモーネ・マルティーニの彩飾、1336年頃、アンブロジアーナ図書館)Wikimedia Commons Simone Martini · Public domain

1336年4月26日、彼は弟ゲラルドとともに、プロヴァンスのヴァントゥー山に登った。高さ1900メートルほどの山である。ただ景色を見るために山に登るのは、当時としては珍しいことだった。頂上で、彼は持参したアウグスティヌスの『告白』を開いた。目に入ったのは、人は山の高さや海の広さや星の巡りに驚嘆しに出かけるが、自分自身のことは顧みない、という一節だった。彼は自分に腹を立て、黙って山を下りた。この手紙は、景色を楽しむために山に登った最初の記録として、また近代の個人の内面の目覚めとして、のちの歴史家にたびたび取り上げられた。ただ、手紙は後年にまとめられたもので、出来事そのものが脚色されている、あるいは寓意の創作だとする見方も強い。

1337年からは、アヴィニョンの東、ソルグ川の泉が湧くヴォークリューズの谷に小さな家を持ち、本に囲まれた孤独な暮らしを好んだ。聖職者の身でありながら、この頃、名の伝わらない女性との間に息子と娘をもうけている。古代ローマの名将スキピオを歌うラテン語の叙事詩『アフリカ』に取りかかり、その評判によって、1341年4月、ローマのカピトリウムの丘で桂冠詩人の冠を受けた(ペトラルカの桂冠)。古代の儀式を千年ぶりに甦らせたものだった。

『死の勝利』、または『三女神』を描いたフランドルのタペストリー(1510-20年頃、ヴィクトリア&アルバート博物館)。糸を紡ぎ、断つ運命の三女神
『死の勝利』、または『三女神』を描いたフランドルのタペストリー(1510-20年頃、ヴィクトリア&アルバート博物館)。糸を紡ぎ、断つ運命の三女神Wikimedia Commons Flemish workshop · Public domain

1348年、黒死病がヨーロッパを襲った。4月6日、ラウラが死んだ。初めて彼女を見た日からちょうど21年目の同じ日だった。彼は愛蔵のウェルギリウスの写本の見返しに、彼女を初めて見た日と、彼女がこの世を去った日を書き込んだ。この疫病で、彼は庇護者のジョヴァンニ・コロンナ枢機卿をはじめ、多くの友人を失った。

ラテン語の大作で後世に名を残すつもりだった彼が、実際に最も読まれることになったのは、自分で「俗語の断片」と呼んだイタリア語の詩集だった。のちに『カンツォニエーレ』と呼ばれるこの詩集は、ラウラの生前を歌う詩と死後を歌う詩に分かれ、ソネット317篇を中心に366篇を収める。彼は晩年まで推敲と並べ替えを続けた。愛する人を遠くから仰ぎ、その美しさを星や太陽にたとえ、氷と炎のような相反する心の揺れを歌う彼の様式は、その後300年にわたってヨーロッパ中の詩人に模倣された。シェイクスピアのソネット130番が、私の恋人の目は少しも太陽に似ていない、と歌い出すのは、この型をからかったものである。

ペトラルカは古代ローマの元老院議員キケロの著作・書簡を復興させた(トルヴァルセン作キケロ像)
ペトラルカは古代ローマの元老院議員キケロの著作・書簡を復興させた(トルヴァルセン作キケロ像)Wikimedia Commons Gunnar Bach Pedersen · Public domain

1350年、ローマへの巡礼の途中にフィレンツェに立ち寄り、9歳年下のボッカッチョと会った。二人は生涯の友となった。1353年、彼はプロヴァンスを去ってイタリアに戻り、ミラノの君主ヴィスコンティ家に8年仕えた。自由を説く詩人が僭主に仕えることを、ボッカッチョらフィレンツェの友人は責めた。その後、パドヴァやヴェネツィアに住んだ。ヴェネツィアには、自分の蔵書を死後に寄贈し、誰もが使える図書館の礎にする約束をしたが、約束は果たされず、本は散り散りになった。

晩年は、パドヴァに近いエウガネイの丘の村アルクァに家を建てて暮らした。1374年7月18日の夜から19日にかけて、70歳の誕生日を目前にして死んだ。書斎で本の上に頭を伏せて息絶えているのが見つかったと伝えられる。遺言では、友人ボッカッチョに、冬の夜に勉強するとき羽織る毛皮の上着を買うための金を遺した。

『ペトラルカのラウラ』(アレクサンドル・カバネル画、プリンストン大学美術館)
『ペトラルカのラウラ』(アレクサンドル・カバネル画、プリンストン大学美術館)Wikimedia Commons Alexandre Cabanel · Public domain

彼の書き込みのあるウェルギリウスの写本は、画家シモーネ・マルティーニが描いた口絵とともに、いまミラノのアンブロジアーナ図書館に残っている。古代を手本に人間を見つめ直そうとした彼の仕事は、やがてイタリア・ルネサンスの盛期として花開いていく。

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