人物

ジェイムズ・ジョイス

James Joyce
AD1882年2月2日 – AD1941年1月13日(享年58)
アイルランド重要度 5

概要

ダブリン。落ちぶれた家の長男。ユニヴァーシティ・カレッジ。1904年、ノラ・バーナクルと駆け落ちして、トリエステ、チューリヒ、パリ。英語を教えて貧しく、目を17回手術した。『ダブリナーズ』(1914年)、『若い芸術家の肖像』(1916年)、『ユリシーズ』(1922年)、『フィネガンズ・ウェイク』(1939年、17年、夢の言葉)。アイルランドに帰らず、ダブリンだけを書いた。娘ルチアは統合失調症でユングが診た。

関わったできごと(1)

『ユリシーズ』AD1922年2月2日 · 書いた

本文

ジェイムズ・ジョイスは、1882年2月2日、ダブリン南郊のラスガーに生まれた。育った子供は10人で、彼はその長男だった。父ジョン・スタニスラウス・ジョイスは市の徴税の役所に勤め、歌がうまく、話が面白く、そして酒と借金で家の財産を減らし続けた。役所の職を失ってからは家賃が払えず、一家は夜逃げ同然の引っ越しを何度も繰り返した。ジョイスの小説に出てくるダブリンの通りと人物の多くは、この転々とした暮らしの中で見たものである。

ジェイムズ・ジョイスの肖像
ジェイムズ・ジョイスの肖像Wikimedia Commons Public domain

貧しくなっても、父は長男を名門のイエズス会の学校に通わせた。寄宿学校クロンゴウズ・ウッド、ダブリンのベルヴェディア校、ユニヴァーシティ・カレッジ・ダブリンで、彼はラテン語、フランス語、イタリア語を身につけた。ノルウェーの劇作家イプセンを原語で読むためにノルウェー語まで学んだ。信仰からは離れ、アイルランドを覆うカトリック教会と民族運動の両方から距離を置いた。

1902年、医学を学ぶつもりでパリへ出たが、金が続かなかった。1903年、母の危篤の電報で呼び戻された。母は息子に、跪いて祈ってほしいと頼み、彼は拒んだ。母はその年の夏に死んだ。この場面は、のちに『ユリシーズ』の冒頭で、主人公の一人スティーヴンを苛む罪の意識として描かれる。

1915年
1915年Wikimedia Commons James_Joyce_by_Alex_Ehrenzweig,_1915.jpg : Alex Ehrenzweig derivative work: RedAppleJack ( talk ) · Public domain

1904年6月10日、ダブリンの通りで、ゴールウェイ出身のホテルの客室係ノラ・バーナクルを見かけて声をかけた。初めて二人で歩いたのは6月16日だった。『ユリシーズ』の一日はこの日付に置かれ、いまでは毎年「ブルームズデイ」として世界中で祝われている。その年の10月、二人は結婚せずにアイルランドを出た。教会での結婚を拒んだからで、正式に結婚したのは27年後の1931年、子供たちの相続のためだった。

二人はアドリア海に面したオーストリア領の港町プーラ、次いでトリエステに住み、ジョイスはベルリッツの語学学校で英語を教えた。1905年に息子ジョルジオ、1907年に娘ルチアが生まれた。弟スタニスラウスもトリエステに来て、兄の借金を肩代わりし、家計を支えた。

Dubliners, 1914
Dubliners, 1914Wikimedia Commons Joyce, James · Public domain

出版の道は険しかった。15の短編からなる『ダブリナーズ』は1905年に原稿ができていたが、実在の店名や王室への言及、卑俗な言葉を嫌った出版社が次々に手を引いた。ダブリンの出版社が刷り上げた紙は、印刷所で処分された。ようやく本になったのは1914年である。同じ年、詩人エズラ・パウンドの口利きで、自伝的な長編『若い芸術家の肖像』がロンドンの雑誌『エゴイスト』に連載され、1916年に単行本になった。パウンドはこれ以後、ジョイスを文壇に押し出す役を続けた。

第一次世界大戦でトリエステがイタリアとの戦場に近くなると、一家は中立国スイスのチューリヒに移った。故郷では1916年にイースター蜂起が起き、アイルランドは独立へ向かう激動の中にあったが、彼は帰らなかった。チューリヒで『ユリシーズ』を書き進め、1920年、パウンドに誘われてパリへ移った。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

1922年2月2日、40歳の誕生日に、パリの書店シェイクスピア・アンド・カンパニーの店主シルヴィア・ビーチが『ユリシーズ』を出版した(『ユリシーズ』)。1904年6月16日のダブリンの一日を、ホメロスの『オデュッセイア』になぞらえて、18の章ごとに文体を変えて描いたこの小説は、英米では猥褻な本として長く輸入を禁じられた。アメリカで解禁されたのは1933年の判決による。

暮らしを支えたのは、イギリスの編集者ハリエット・ショー・ウィーヴァーだった。慎ましいクエーカーの家に育った彼女は、会ったこともないうちから匿名で送金を始め、生涯に莫大な金を彼に渡した。ジョイスはそれを、高級レストランでの食事やタクシー、家族の引っ越しに惜しげもなく使った。

若き芸術家の肖像
若き芸術家の肖像Wikimedia Commons The Egoist Ltd., London · Public domain

彼は長く目を病んだ。虹彩の炎症と緑内障を繰り返し、1917年から手術を10回以上受けた。晩年の写真の彼は、片目に眼帯をかけ、分厚い眼鏡の上に虫眼鏡を当てている。大きな字で原稿を書き、それでも足りないときは友人に口述した。

1923年から、彼は最後の作品に取りかかった。完成まで17年かかり、そのあいだは「進行中の作品」とだけ呼ばれた。1939年に出た『フィネガンズ・ウェイク』は、ダブリンの酒場の主人一家の一夜の夢を、英語を土台に数十の言語を混ぜ合わせた造語で書いた。本は文の途中の小文字の語で始まり、最後の文は冒頭の文へとつながって、物語は円を描く。若いサミュエル・ベケットは口述の書き取りを手伝った。パウンドはついていけないと言って離れた。ノラは、なぜ人が読める本を書かないのか、と言ったと伝えられる。

ジョイスの時代にユニバーシティ・カレッジだった、ダブリンのニューマン・ハウス
ジョイスの時代にユニバーシティ・カレッジだった、ダブリンのニューマン・ハウスWikimedia Commons Michael Foley · CC BY 2.0

同じころ、娘ルチアの心が壊れていった。ダンサーを目指していた彼女は、父の家に出入りしたベケットに想いを寄せて拒まれ、1930年代に統合失調症と診断された。ジョイスは娘の異変を長く認めようとせず、1934年には心理学者ユングに診せた。ユングは、父と娘は同じ川の底へ向かっているが、彼は潜っていて、彼女は溺れている、と語ったと伝えられる。ルチアは残りの人生の大半を療養施設で過ごし、1982年にイギリスで死んだ。

第二次世界大戦でドイツ軍がフランスに迫ると、一家は1940年末、苦労して出国の許可を取り、チューリヒへ戻った。1941年1月、十二指腸潰瘍の穿孔で手術を受け、1月13日に死んだ。58歳だった。チューリヒのフルンテルン墓地に葬られ、のちにノラも隣に眠った。アイルランドの政府は、葬儀に誰も送らなかった。

カンポ・デ・フィオーリのジョルダーノ・ブルーノ記念碑(エットーレ・フェラーリ作)。ジョイスはブルーノを敬愛し、ローマでその行進に参列した
カンポ・デ・フィオーリのジョルダーノ・ブルーノ記念碑(エットーレ・フェラーリ作)。ジョイスはブルーノを敬愛し、ローマでその行進に参列したWikimedia Commons Fred Romero · CC BY 2.0

ジョイスは21歳で故郷を出てから、短い帰省を除いて二度とアイルランドに住まなかった。それでいて書いたのはダブリンのことだけだった。いつかダブリンが地上から消えても、自分の本から町を建て直せるようにしたい、と友人に語ったと伝えられる。故郷の冷淡さは長く続いたが、いまではダブリンの町が彼の小説の道筋を記念の銘板でたどり、ブルームズデイには当時の衣装の人々が通りを歩く。

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