魯迅
概要
医学を捨てて小説を書いた。『阿Q正伝』で、変わらない社会を内側から抉る。
関わったできごと(1)
辛亥革命AD1911年10月10日 · この時代を書いた本文
本名は周樹人。1881年9月、浙江省紹興の、代々科挙の合格者を出してきた士大夫の家に生まれた。12歳のとき、北京で役人をしていた祖父が、科挙の試験官に賄賂を贈ろうとした事件で投獄され、家は急に傾いた。続いて父が病に倒れる。少年の魯迅は、毎日のように質屋に家の物を持ち込み、その金で薬屋へ通った。

父を診た漢方医の処方は奇妙だった。三年霜に当たったサトウキビ、つがいのコオロギ、といった薬の材料を探して町を走り回ったことを、魯迅は後に随筆『父の病』に書いている。父は1896年に死んだ。家が落ちぶれると、親戚や近所の人の態度が変わった。人の顔つきが変わるのを見たことが、のちの小説の目の冷たさにつながったと、本人は振り返っている。
科挙の道を捨て、学費の要らない南京の新式の学校で、海軍と鉱山の技術を学んだ。そこで西洋の進化論の翻訳に触れる。1902年、官費の留学生として日本へ渡り、2年後、仙台の医学専門学校に入った。中国人の留学生は彼一人だった。解剖学の藤野厳九郎教授が、彼のノートを毎週添削して返してくれたことを、のちに『藤野先生』という文章に感謝をこめて書いている。
転機は授業の合間に来た。細菌学の授業で、時間が余ると日露戦争の時事の幻灯(スライド)が映された。その中の一枚に、ロシアのスパイとして日本軍に処刑される中国人と、それを取り囲んでぼんやり眺める中国人たちが写っていた。教室の日本人学生は万歳を叫んだ。愚かで弱い国民は、どれほど体が丈夫でも、見せしめの材料と見物人にしかなれない。まず変えるべきは精神であり、それには文芸がいちばんだ、と考えて医学をやめた、と魯迅は短編集『吶喊』の序文に書いた。ただし、その幻灯の実物は見つかっておらず、場面の細部には後からの脚色があるのではないかという研究者もいる。

1906年に仙台を去り、東京で弟の周作人と雑誌を企て、外国の小説を翻訳した。だが訳書はほとんど売れなかった。1909年に帰国し、故郷で教員をしたのち、辛亥革命の後の北京で教育部の役人になる。それからの数年、彼は古い石碑の拓本を写し、古い小説の資料を集めて過ごした。何も起こらない日々だった。
そこへ友人が訪ねてきて、雑誌『新青年』に書けと勧めた。魯迅は、窓も無く壊すこともできない鉄の部屋の中で、大勢の人が眠ったまま死んでいこうとしているとき、大声で何人かを起こして苦しませるのはむごいことではないか、と返した。友人は、何人かが起きれば部屋を壊す望みが無いとは言えない、と答えた。この「鉄の部屋」の問答も『吶喊』の序文にある。
1918年、初めて「魯迅」の名で発表したのが『狂人日記』である。話し言葉の文体で書かれた、最初期の本格的な中国の近代小説とされる。主人公は、周りの人びとが自分を食おうとしていると思い込む。歴史の書物をめくると、どのページにも「仁義道徳」と書いてあるが、行間を読むと、すべてに「食人」の二字が見える。古い礼教が人を食ってきた、という告発だった。翌年の五四運動へ向かう新しい文化の流れの中で、この作品は大きな反響を呼んだ。

1921年からの『阿Q正伝』の主人公、阿Qは村の日雇いである。殴られても「息子に殴られたようなものだ」と心の中で言い換えて勝った気になる。辛亥革命が来ると、意味も分からず革命派を名乗り、最後は身に覚えの無い罪で銃殺される。見物人は、銃殺は首切りより見ごたえが無いと不満を言う。仙台の幻灯の見物人が、ここに戻ってきている。
1926年、北京で学生たちの請願に政府が発砲した事件の後、魯迅は北京を去り、厦門、広州を経て、1927年から上海に住んだ。教え子だった許広平と暮らし、息子が生まれた。以後は小説よりも、新聞や雑誌に短い批評文(雑文)を書き続け、検閲を避けるために百を超える筆名を使った。日本人の内山完造が営む書店に毎日のように通い、木版画の運動を後押しし、若い作家たちを助け、ゴーゴリなど外国文学の翻訳も大量に残している。

1936年10月、結核のため上海で死んだ。55歳だった。死の少し前に書いた『死』という文章には、遺言めいた言葉が並び、敵たちについては「一人も赦さない」と書いている。葬儀には数千人とも1万人ともいわれる人が集まった。
死後、毛沢東は魯迅を「中国文化革命の主将」と讃え、その評価は国家の公式のものになった。そのことが逆に、権力を嫌い、どの陣営にも辛辣だった本人の姿を見えにくくしたとも言われる。日本では、竹内好らの研究を通じて広く読まれ、短編『故郷』は長く中学校の国語教科書に載っている。