唐詩の頂点
概要
李白と杜甫が同じ時代に生き、一度会っている。安史の乱を挟んで、詩の調子がまるで変わる。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(2)
李白AD701年–AD762年 · 当人杜甫AD712年–AD770年 · 当人本文
唐の時代は、中国の詩がもっとも高く花開いた時代とされる。そのなかでも8世紀の半ば、玄宗の治世は、王維・孟浩然・王昌齢・高適・岑参といった詩人が同時に活躍した、際立った時期だった。官僚を選ぶ試験である科挙でも詩が課され、詩を作れることが知識人のたしなみであり、出世の道でもあった。玄宗の前半の治世は「開元の治」と呼ばれ(開元の治)、長安は世界中から人と物が集まる大都会だった。
この時代を代表するのが、李白と杜甫である。李白は701年の生まれ、杜甫は712年の生まれで、11歳離れている。李白は西域に生まれたとも言われ、若いころから各地を放浪し、剣を学び、酒を愛した。一時は玄宗の宮廷に招かれて詩を作ったが、2年足らずで都を追われた。杜甫は、祖父に詩人の杜審言を持つ家に生まれ、官僚として世に出ることを望んでいたが、科挙に合格できず、長い不遇の時を過ごした。

二人は744年、洛陽で出会ったとされる。李白は宮廷を去ったばかりで40代半ば、杜甫は30代のはじめだった。二人は詩人の高適も交えて、梁や宋(いまの河南省の開封や商丘のあたり)を旅し、酒を飲み、狩りをし、昔の遺跡に登って詩を作った。翌年には山東でもう一度会い、そこで別れた。それきり、二度と会うことはなかったとされる。
同じころ、長安には日本から来た留学生の阿倍仲麻呂がいた。唐の朝廷に仕え、王維や李白とも交わりがあった。753年、仲麻呂が日本へ帰ろうとして船が遭難したとき、亡くなったという知らせを聞いた李白は、その死を悼む詩を作っている。仲麻呂は実際には安南に流れ着いて生き延び、長安に戻って唐の地で生涯を終えた。

杜甫はこの出会いを生涯忘れなかった。李白を思う詩を十数首も残し、李白の詩の才を、世に並ぶ者のないものとたたえた。一方、李白が杜甫に宛てたことがはっきりしている詩は、わずかしか残っていない。年上で、すでに名の知られた詩人と、まだ無名の若者という関係が、そこに表れているとも言われる。
755年、安史の乱が起きた。辺境の節度使だった安禄山が大軍を率いて反乱を起こし、洛陽と長安を相次いで落とした。玄宗は都を捨てて蜀へ逃れ、その途中で兵士たちに迫られて、寵愛していた楊貴妃を死なせることになる。8年に及んだ乱で、唐の国土は荒れ果て、多くの人が死んだ。

乱は、二人の詩人の運命も変えた。李白は、玄宗の子の永王の軍に加わったが、永王が兄の新しい皇帝に背いたとされて討たれ、李白も罪に問われて流された。途中で赦されたものの、762年に世を去った。酒に酔って水に映った月を取ろうとして溺れた、という話が伝わるが、これは後の伝説である。
杜甫は、乱の最中に反乱軍に捕らえられて長安に閉じ込められた。757年の春、荒れた都を見て作ったのが「春望」である。国は破れても山河はもとのまま残り、町には春が来て草木が深く茂っている、と歌い出す。そこから、時世を思えば花を見ても涙がこぼれ、家族からの手紙は大金にも値する、と続く。乱の前後の杜甫は、戦に駆り出される民、重い税に苦しむ農民、飢えて死んだ自分の幼い子のことを詩に書いた。

李白の詩は、天から降りてきたような自由な想像力を特徴とし、のちに「詩仙」と呼ばれた。杜甫の詩は、形式を磨き上げ、社会と人の苦しみを正面から見つめたことで「詩聖」と呼ばれた。同じ時代、同じ言葉で書きながら、これほど違う二人が並んだことは、中国文学の中でもまれである。
乱の後、唐の詩は新しい段階に入る。杜甫の社会への眼差しは、9世紀の白居易らに受け継がれた。唐詩は遣唐使や留学僧を通じて日本にも伝わり、日本の漢詩の手本になった。いまも日本の学校で「春望」や李白の「静夜思」が教えられているのは、その長い流れの先にある。