ロンスヴォーの戦い
概要
スペイン遠征から帰るカール大帝の軍の殿を、ピレネーの峠でバスク人が襲った。ブルターニュ辺境伯ロランが死んだ。300年後、それはサラセンとの戦いに書き換えられ、『ロランの歌』になる。
場所
43.01°N -1.32°E · スペイン・ナバラ州
本文
8世紀の半ば、イベリア半島のイスラームの地では、ダマスクスのウマイヤ家の生き残りアブド・アッラフマーン1世がコルドバで自立し、新しい王朝を開いていた(後ウマイヤ朝)。半島の北東部の総督たちの中には、これに従わず、バグダードのアッバース朝の側に立つ者もいた。777年、そうした総督の一人、バルセロナとジローナを治めるスライマーン・イブン・ヤクザーン・アル=アラビーが、ザクセンのパーダーボルンで会議を開いていたフランク王カール、のちのカール大帝を訪ねた。サラゴサを差し出すので、コルドバに対抗するための援軍を送ってほしい、という申し出だった。
キリスト教の王にとって、イスラームの地の内輪もめは、ピレネーの南へ勢力を広げる好機に見えた。778年の春、カールは軍を二つに分けてピレネーを越えた。自らはバスク人の街パンプローナを通り、もう一隊は東から進んで、サラゴサの前で合流した。ところが、サラゴサの総督は約束に反して門を開けなかった。包囲は長引き、そのうちに、北のザクセンで、カールに服したはずの人びとが再び反乱を起こしたという知らせが届く。カールは包囲を解いて引き返した。帰り道、カールはパンプローナの城壁を壊した。この街を、自分に背く者の拠点にさせないためだったとされる。

軍は再びピレネーを越え、北へ向かった。778年8月15日、峠の道は狭く、大軍は長い列になって進んだ。本隊が先へ抜け、荷物を運ぶ隊列とそれを守る後衛が山あいを進んでいたとき、森に潜んでいたバスク人が山の上から襲いかかった。カールの伝記を書いたアインハルトによれば、バスク人は地の利と身軽さを生かし、後衛を谷に追い落として最後の一人まで殺し、荷物を奪って夕闇に紛れて散っていった。重い武具を着けたフランクの兵は、険しい斜面で動けなかった。敵がどこの誰かも分からないまま、仕返しすらできなかったという。日付が分かるのは、戦死した者の一人の墓碑銘による。
アインハルトは、この戦いで死んだ者として、王の食卓を司るエギハルト、宮中伯アンセルム、そしてブルターニュ辺境の長官フルオドランドの名を、ほかの多くの者と共に挙げている。フルオドランド、すなわちロランについて、歴史の記録が伝えることは、ほとんどこれだけである。宮廷の公式の年代記は、初めこの敗北にまったく触れず、のちに書き直された版で初めて記した。カールの生涯で最も手痛い負けの一つは、宮廷の記録の中では小さく扱われた。後のアラブ側の歴史書には、ムスリムの軍も襲撃に加わったとするものもあるが、確かなことは分からない。
それから300年ほどのち、この小さな戦いは、まったく違う物語になって歌われる。1100年前後に形が整ったとされる武勲詩『ロランの歌』(『ロランの歌』)では、襲ったのはバスク人ではなく、サラセンと呼ばれるイスラーム教徒の大軍になっている。ロランはカールの甥で、勇猛な騎士として描かれる。継父ガヌロンの裏切りで後衛に回され、友オリヴィエが角笛を吹いて本隊を呼べと勧めても、恥だとして拒む。味方が倒れ尽くしてからようやく吹き、こめかみが破れるほど吹いて死ぬ。戻ってきたカールはサラセンを打ち滅ぼし、ガヌロンは馬に引き裂かれて処刑される。

詩の世界では、キリスト教徒とイスラーム教徒の戦いという筋が前に出た。歌が形を整えたのは、ちょうど第一回の十字軍の時代であり、イベリア半島でキリスト教の王国が南へ攻め込んでいた時代でもあった。1066年のヘイスティングズの戦いでは、ノルマンの軍の先頭で吟遊詩人がロランの歌を歌ったと、のちの年代記は伝えている。ただし、これが本当かどうかは分からない。
戦いの正確な場所も、はっきりしない。フランスとスペインの境にある、いまのロンセスバーリェス、フランス語でロンスヴォーの近く、イバニェタ峠のあたりとするのが一般的な説である。12世紀には、ここにサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼のための救護所が建てられた。巡礼たちは、ロランが最期を遂げた地を通って、聖地へ歩いた。ロンセスバーリェスは、いまも巡礼路でピレネーを越えて最初に泊まる宿場になっている。

歴史の上では、谷で後衛を討ち取ったのはバスク人だった。しかし語り継がれたのは、敗れたフランクの騎士の物語のほうである。勝った側の山の民は、自分たちの勝利を書き残さなかった。