ピアノの発明
概要
チェンバロは弦を弾く。強く叩いても音の大きさが変わらない。メディチ家の楽器係だったバルトロメオ・クリストフォリは、弦を叩く仕掛けを作った。叩いたあと、槌が弦から離れて戻る。指の力がそのまま音の大きさになる。「強くも弱くも出るチェンバロ」(gravicembalo col piano e forte)。1700年のメディチ家の目録にその名がある。反応は鈍く、彼の生前にほとんど広まらなかった。三台が現存する。
場所
43.77°N 11.26°E · イタリア・トスカーナ州
関わった人(1)
バルトロメオ・クリストフォリAD1655年5月4日–AD1731年1月27日 · 作った本文
17世紀の鍵盤楽器の王はチェンバロだった。鍵を押すと、爪が弦を引っかいて弾き、すぐに離れる。だが、指を強く押しても弱く押しても、爪の動きは変わらない。だから音の大きさも変わらなかった。強弱をつける手がなかったわけではない。鍵盤を二段にして、ストップで鳴らす弦の組を切り替えることはできた。しかしそれは段階の切り替えであって、一つの旋律の中で少しずつ強くしていく、ということはできなかった。
それができる楽器もあった。クラヴィコードである。真鍮の小さな刃が弦を下から突き上げ、そのまま触れている仕組みで、押す強さで音の大きさが変わり、押したまま指を揺らせば音を震わせることもできた。ただし音がとても小さく、隣の部屋には聞こえない。家で一人弾き、練習するための楽器だった。

チェンバロの大きさと、クラヴィコードの強弱。その両方を持つ楽器を作ったのが、バルトロメオ・クリストフォリ(1655〜1731年)である。パドヴァに生まれた楽器職人で、1688年、トスカーナ大公の世継ぎだったフェルディナンド・デ・メディチに招かれてフィレンツェへ移った。フェルディナンドは音楽に深く打ち込んだ人で、若き日のゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルやアレッサンドロ・スカルラッティを宮廷に迎え、多くの楽器を集めていた。クリストフォリはその楽器の管理と修理を任された。生まれ故郷を離れたくなかったとも伝えられるが、メディチ家の誘いを受けた。
フィレンツェで彼は、大公家の何十台もの楽器の手入れをしながら、新しい楽器も作った。オーケストラの中でも聞こえる大型のスピネットや、弦を長く張るために楕円形にしたスピネットである。既にある形に満足しない職人だった。

1700年のメディチ家の楽器の目録に、ある楽器が記されている。バルトロメオ・クリストフォリの新しい工夫による、弱い音と強い音を出すチェンバロ、という意味の記載である。これがピアノについての最初の記録で、楽器そのものはその数年前、1698年ごろにはできていたとする研究もある。のちにこの楽器は「弱くも強くも出るチェンバロ」と呼ばれ、それが縮まって「ピアノフォルテ」、さらに「ピアノ」になった。
仕組みは、爪で弾く代わりに、小さな槌で弦を打つというものだ。言うのは簡単だが、作るのは難しかった。槌は弦を打った直後に弦から離れなければならない。触れたままだと弦の振動が止まり、音にならない。ところが指はまだ鍵を押している。押されたままの鍵と、離れなければならない槌を、どうつなぐのか。

クリストフォリが考えたのが、脱進の仕掛けである。槌を突き上げる部品は、突き上げた瞬間に槌から外れる。槌は勢いで飛んで弦を打ち、そのまま自由に落ちる。落ちてきた槌は、跳ね返ってもう一度弦を打たないよう、受け止める部品が捕まえる。そして鍵から指を離すと、ダンパーが弦に降りて音を止める。この四つの仕掛けが、1700年の時点ですでにそろっていた。現代のピアノの機構は、基本的にこれを改良したものである。1821年にパリのエラールが、鍵が戻りきる前に次の音を打てる仕掛けを加え、速い連打ができるようになったが、根本の考え方は変わっていない。
彼はもう一つの工夫も入れていた。鍵盤全体を横に少しずらし、槌が二本張った弦のうち一本だけを打つようにする仕掛けで、音の色合いが変わる。現代のグランドピアノの左のペダル、「一本の弦」を意味するウナ・コルダの先祖である。クリストフォリの楽器では、手で動かすつまみだった。
だが、新しい楽器の評判は芳しくなかった。弦が細く張りが弱く、木の枠の楽器だったので、音はチェンバロより小さかった。音色は聞き慣れず、鍵盤は重く、そして高価だった。
それでも、この楽器を書き留めた人がいた。1711年、学者で詩人のシピオーネ・マッフェイが、機構の図を付けた詳しい記事を雑誌に載せたのである。その記事は1725年にドイツ語に訳され、ザクセンのオルガン職人ゴットフリート・ジルバーマンの目に留まった。ジルバーマンは、クリストフォリの仕組みにならってピアノを作り始める。

1730年代、ヨハン・ゼバスティアン・バッハはジルバーマンのピアノを弾いてみて、高い音が弱く、鍵盤が重すぎると言った。ジルバーマンは気を悪くしたと伝えられるが、改良を続けた。1747年、バッハがポツダムにフリードリヒ2世(大王)を訪ねると、宮廷にはジルバーマンのピアノが何台も並んでいた。バッハは王の出した主題でその場で即興し、それをもとに『音楽の捧げもの』を書いた。この頃にはピアノを認めていたとされ、1749年にはジルバーマンのピアノの販売の仲立ちもしている。
ピアノはその後、作曲家とともに育っていった。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはウィーンの職人ヴァルターの軽やかなピアノを愛用し、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの時代には音域が広がり、枠が丈夫になった。1825年、アメリカのアルフィアス・バブコックが鋳鉄の一体の枠の特許を取り、弦を桁違いに強く張れるようになる。現代のピアノの弦が枠にかける力は、合わせて20トンほどにもなる。木の枠では、とても耐えられない。
ピアノの音が大きくなったのは、演奏する場所が大きくなったからでもある。宮廷の一室から、何千人も入る演奏会場へ。リストと独奏会の誕生の頃には、一人のピアニストが大きなホールを一晩じゅう満たすようになった。楽器は、聴き手の数に追いつこうとして大きくなっていったのである。
クリストフォリが自分で作ったピアノは、3台が残っている。1720年の楽器がニューヨークのメトロポリタン美術館に、1722年の楽器がローマの国立楽器博物館に、1726年の楽器がライプツィヒ大学の楽器博物館にある。どれも後の時代に手を加えられた部分があるが、音を出せる状態のものもあり、録音も残されている。その音は細く、乾いていて、いまのピアノとはまるで別の楽器のように聞こえる。

クリストフォリは1731年1月、フィレンツェで亡くなった。生きているあいだ、彼の発明はほとんど広まらなかった。だが、指の力をそのまま音の大きさにするという彼の仕掛けは、300年後のいまも、世界中のピアノの中で同じように動いている。