ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
概要
20代半ばから耳が聞こえなくなり、それでも書き続けた。第九の初演では聴衆の拍手が見えるまで気づかなかったと伝わる。
関わったできごと(1)
第九交響曲の初演AD1824年5月7日 · 当人本文
1770年12月、ライン川沿いの町ボンに生まれた。ボンはケルン選帝侯の都で、家は宮廷の楽団に仕える音楽家の家系だった。生まれた日ははっきりせず、洗礼を受けたのが12月16日か17日とされる。同名の祖父は楽長まで務めた尊敬される音楽家だったが、父ヨハンはテノール歌手で、酒におぼれた。

父は、幼いモーツァルトのような神童にしようと、息子に厳しくピアノを仕込んだ。夜中に酔って帰ってきて、幼い息子を起こして練習させたという話が伝わる。演奏会の宣伝では、実際より年下に見せるため年齢を偽っている。宮廷のオルガン奏者ネーフェに師事してからは、作曲の基礎とバッハの作品を学び、11歳で宮廷のオルガン奏者の助手になった。
1787年、16歳でウィーンへ旅したが、母の重い病の知らせで急ぎ戻った。母は死に、父は酒で働けなくなる。18歳の頃から、父の給料の半分を自分が受け取る許しを得て、弟たちの面倒を見た。

1792年、選帝侯の後押しで、ウィーンのヨーゼフ・ハイドンに学ぶため旅立った。ボンの後援者は、ハイドンの手からモーツァルトの精神を受け取れ、と餞別の言葉を書いている。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは前年に死んでいた。ボンにはそのまま戻らず、生涯をウィーンで過ごした。
ウィーンでは、まずピアノの名手として名を上げた。即興演奏の力はずば抜けていて、貴族の館での演奏で聴き手を圧倒したという。リヒノフスキー侯ら貴族の後援者を得たが、身分の高い相手にも媚びず、怒りっぽく、礼儀を欠くことでも知られた。

20代半ばから耳が聞こえなくなり、それでも書き続けた。初めは耳鳴りで、高い音から聞こえなくなっていった。原因はいまも分かっていない。音楽家にとって致命的なこの病を、彼はしばらく周りに隠した。人と話すのを避けるようになり、人嫌いだと思われることを悩んだ。
1802年、ウィーン郊外の村ハイリゲンシュタットで、弟たちに宛てた長い手紙を書いた。いわゆる「ハイリゲンシュタットの遺書」で、聞こえないことの苦しみを打ち明け、自ら命を絶つことも考えたが、自分の中にあるものを全部出し切るまでは世を去れないと思いとどまった、と書いている。手紙は出されず、死後に見つかった。

ここから、作品の性格が変わる。1804年に完成した交響曲第3番は、はじめナポレオン・ボナパルトに献じるつもりだった。弟子のリースの回想によれば、ナポレオンが皇帝に即位したと聞くと、あの男もただの人間だったか、と言って表紙を破ったという。残された楽譜の表紙には、ナポレオンの名を激しく削り取った跡がある。曲は「英雄」と題されて出版された。
その後の10年ほどで、交響曲第5番と第6番「田園」、ピアノ協奏曲第5番、唯一のオペラ『フィデリオ』などが次々に書かれた。1809年には、ウィーンを離れて他国の宮廷に仕えようとした彼を引き留めるため、三人の貴族が終身の年金を約束した。宮廷や教会に雇われず、作品と演奏で暮らす音楽家の、早い例の一つになる。1814年のウィーン会議の頃には、各国の要人の前で演奏会を開き、人気の絶頂にあった。

生涯独身だった。1812年に書かれた、宛名の無い熱烈な恋文が死後に見つかり、「不滅の恋人」と呼ばれる。相手が誰かは決着していない。何人もの女性に恋をしたが、多くは身分の高い既婚の女性や貴族の娘で、結ばれることはなかった。
弟が死ぬと、甥のカールの後見をめぐって、弟の妻と何年も裁判で争った。カールを溺愛し、厳しく干渉したため、甥は追い詰められて、1826年にピストル自殺を図っている。命は助かった。

1818年頃には、耳はほとんど聞こえなくなり、人との会話は筆談に頼った。その「会話帳」が数百冊残っていて、訪ねてきた人が何を書いたかから、彼の暮らしをたどることができる。部屋は散らかり放題で、引っ越しを数十回繰り返したといわれる。
第九の初演では聴衆の拍手が見えるまで気づかなかったと伝わる。1824年5月7日、ウィーンの劇場で第九交響曲の初演が初演された。ベートーヴェンは舞台の上で指揮者のそばに立って拍子を示したが、演奏が終わっても、客席に背を向けたままだった。アルトの独唱者が彼の体を客席の方へ向け、人々が帽子やハンカチを振って喝采しているのを見せたという。最後の楽章にはシラーの詩「歓喜に寄す」による合唱が入る。交響曲に声を入れたことは、当時は異例だった。
晩年の弦楽四重奏曲やピアノ・ソナタは、同時代の人には難解に聞こえたが、のちの作曲家たちに大きな影響を与えた。
1827年3月26日、ウィーンで死んだ。56歳。死の床の外では雷が鳴っていたと伝えられる。葬儀には1万人を超える人々が集まったといわれる。2023年には、遺髪とされるものの遺伝子を調べた研究で、肝臓の病気になりやすい体質とB型肝炎への感染が見つかったと発表された。ただ、耳の病の原因は分かっていない。
第九の合唱の旋律は、いまヨーロッパ連合の歌として使われている。日本では、第一次世界大戦で捕虜になったドイツ兵が、1918年に徳島の収容所で全曲を演奏したのが最初とされ、いまでは年末の風物詩になった。聞こえない耳で書いた音楽が、200年後も世界のどこかで毎日演奏されている。