徴姉妹
概要
後漢の支配に対して蜂起し、3年だけ自立した。ベトナムで最初の抵抗として、いまも通りの名に残る。
関わったできごと(1)
徴姉妹の蜂起AD40年 · 蜂起本文
姉を徴側(チュン・チャク)、妹を徴弐(チュン・ニ)という。生まれた年は分からない。紅河のデルタ、交趾郡の麊冷(メーリン、いまのハノイの北西)の、土地の有力者(雒将)の家の娘だった。姉は朱鳶の雒将の子、詩索(ティ・サック)の妻になった。

紅河のデルタでは、紀元前の数百年のあいだに、青銅の大きな太鼓で知られる稲作の文化が育っていた(ドンソンの銅鼓)。その地は、紀元前2世紀の末、漢の武帝の遠征で南越が滅ぼされたとき(南越の征服)、漢の郡に組み込まれた。とはいえ、はじめのうち漢の支配は緩やかで、土地の有力者たちがそれぞれの地を治め、漢の役人は税を集めるくらいだった。後漢の初め、太守が送り込まれて漢のやり方で治めようとするにつれ、土地の人々の反発が強まっていく。漢の言葉、漢の法、漢の礼を押しつけられ、土地の慣わしは否定された。
40年、徴側が兵を挙げた。後漢の正史『後漢書』は、徴側はたいへん勇ましい性格で、太守の蘇定が法で縛りつけたので怒って背いた、と書く。のちのベトナムの歴史書では、夫の詩索が太守に処刑されたことがきっかけとされている。いずれにしても、反乱は一気に広がった。交趾だけでなく、九真、日南、合浦といった南の郡の人々も呼応し、65の城が姉妹の側についたと『後漢書』は記す。太守の蘇定は逃げ出した。
徴側は王を名乗り、麊冷を都とした。姉妹は3年のあいだ、この地を漢から切り離して治めた。ベトナムの伝承では、姉妹の軍には女性の将が多くいたとされ、身ごもったまま戦場に出て、戦いのさなかに子を産んだ女将の話も語られる。こうした伝承がどこまで事実かは分からない。ただ、この地方では女性が家や土地の継承で大きな役割を持っていたとする見方があり、女性が反乱を率いたこと自体も、それと結びつけて論じられることがある。
後漢の光武帝は、42年、伏波将軍の馬援に大軍を預けて南へ送った。馬援は海沿いに道を開いて進み、浪泊での戦いで姉妹の軍を破った。姉妹は奥地へ退いて抵抗したが、43年、ついに敗れた。『後漢書』は、馬援が姉妹を斬り、その首を都の洛陽へ送った、と書く。ベトナムの伝承では、姉妹は捕らわれることを拒み、川に身を投げたとされる。馬援はその後、土地の慣わしを漢の法に改めさせ、漢の支配の南の境に銅の柱を立てた、と伝えられる。『後漢書』の馬援の伝には、馬の目利きだった彼が、交趾で土地の人々の銅鼓を手に入れ、それを溶かして名馬の手本となる馬の像を鋳造した、という話まで記されている。土地の人々にとって祭りの宝だった太鼓は、征服者の手で別のものに変えられた。

これ以後、紅河のデルタは中国の王朝の支配のもとに置かれ続ける。その間にも反乱は何度も起き、3世紀には趙嫗(バ・チエウ)という女性が兵を挙げたとも伝わる。独立を取り戻すのは、938年、呉権が南漢の艦隊を白藤江の戦いで破ったときである。徴姉妹の蜂起から、900年近くがたっていた。
ベトナムでは、徴姉妹は外からの支配に立ち向かった最初の英雄として記憶されている。ハノイには姉妹を祀る寺院があり、毎年旧暦の2月には祭りが行われる。象に乗って戦う二人の姿は絵や像になり、通りの名にも、学校の名にも、ハノイの区の名にもなっている。20世紀の独立戦争やベトナム戦争のさなかにも、姉妹の名は抵抗の象徴として繰り返し呼び起こされた。

ただ、姉妹について伝わる記録は、敵だった中国の側の史書のわずかな記述と、蜂起から千年以上たって書かれたベトナムの年代記による。中国の史書は反乱を鎮めた側の言葉であり、ベトナムの年代記は国の英雄を描く言葉である。その二つのあいだに、紅河のほとりで漢の支配に立ち向かった二人の女性の実像がある。