概要
1960年前後、アフリカでは次々に国が独立した。1963年5月25日、エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエの招きで、独立した32か国の首脳がアディスアベバに集まり、アフリカ統一機構を作った。ガーナのエンクルマは、アフリカを一つの連邦政府にまとめることを求めたが、多くの国は、手にしたばかりの主権を手放すことを嫌った。機構は、互いの内政に干渉しないこと、植民地の時代に引かれた国境を変えないことを原則とし、まだ植民地や白人の支配の下にある地域の解放を支えた。5月25日は「アフリカの日」になった。2002年、機構はアフリカ連合に生まれ変わった。
場所
9.03°N 38.74°E · エチオピア
本文
1957年のガーナの独立を皮切りに、アフリカの国々は次々に独立した。とくに1960年には17か国が独立し、「アフリカの年」と呼ばれた。独立した国々は、アフリカがどうまとまるべきかをめぐって、二つの陣営に分かれた。ガーナのクワメ・エンクルマらのカサブランカ・グループは、アフリカを一つの連邦にまとめる急進的な統合を求めた。ナイジェリアなどのモンロヴィア・グループは、独立した国どうしのゆるやかな協力を望んだ。
1963年5月、エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエ1世は、両方の陣営の首脳をアディスアベバに招いた。エチオピアは、植民地にされなかった数少ないアフリカの国として、特別な威信を持っていた。5月25日、32か国の首脳がアフリカ統一機構の憲章に署名した。エンクルマは、いますぐアフリカの連邦政府を作らなければ、アフリカは小さな国に分かれたまま大国に操られると演説したが、受け入れられなかった。
憲章は、加盟国の主権と領土を尊重し、互いの内政に干渉しないことを原則とした。翌1964年には、植民地の時代に列強が引いた国境を、独立のときのまま尊重することが決められた。国境は民族を無視して引かれていたが、それを引き直そうとすれば、アフリカじゅうで果てしない争いが起きると考えられた。機構は、まだポルトガルの植民地だったアンゴラやモザンビーク、白人の少数の政権が支配するローデシアや南アフリカの解放の運動を支えた。
一方で、内政不干渉の原則は、加盟国の独裁や虐殺に目をつぶることにもつながった。ウガンダのアミンの圧政も、ナイジェリアのビアフラの戦争も、1994年のルワンダ虐殺も、機構は止められなかった。機構は「独裁者のクラブ」と皮肉られた。
2002年7月、アフリカ統一機構は、南アフリカのダーバンで、アフリカ連合に生まれ変わった。連合は、ヨーロッパ連合を手本に議会や委員会を設け、ジェノサイドや戦争犯罪、人道に対する罪が起きたときには、加盟国に介入する権利を認めた。内政不干渉から、「無関心ではいない」への転換と言われる。機構ができた5月25日は、いまもアフリカの日として祝われている。