薬子の変
概要
退位した平城上皇が平城京に戻り、寵愛する藤原薬子と兄仲成が「都を奈良に戻せ」。嵯峨天皇は坂上田村麻呂に固めさせ、上皇は東国へ向かう途中で引き返して出家した。仲成は射殺され、薬子は毒を飲んだ。藤原式家は倒れ、北家の冬嗣が蔵人頭になった。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(1)
嵯峨天皇AD786年10月3日–AD842年8月24日 · 天皇本文
806年、平安京を築いた桓武天皇が死に、皇太子の安殿親王が即位した。平城天皇である。新しい天皇は父の政策を改め、役所の整理や地方の監察に力を入れたが、体が弱く、心の病に悩んでいたとも伝えられる。809年4月、在位わずか3年で、弟の神野親王に位を譲った。これが嵯峨天皇である。退いた平城上皇は、その年の暮れ、奈良の旧都・平城京へ移り住んだ。
上皇のそばには、藤原薬子という女性がいた。藤原式家の種継の娘である。種継は桓武天皇の信任が厚く、長岡京の造営を任されていたが、785年に暗殺された人物だった。薬子の娘が皇太子時代の平城の妃になると、母の薬子も東宮に出入りし、皇太子の寵愛を受けるようになった。これを知った桓武天皇は、薬子を宮中から追い出した。平城は即位すると彼女を呼び戻し、天皇の言葉を取り次ぐ尚侍(ないしのかみ)という高い女官の地位につけた。薬子の兄、藤原仲成も重く用いられた。

平城京に移った上皇は、退位を悔いるようになったとされる。上皇の周りには多くの貴族や役人が集まり、天皇の出す命令とは別に、上皇からも命令が出された。平安京の天皇と平城京の上皇、二つの朝廷が並び立つありさまを、当時の人は「二所朝廷」と呼んだ。嵯峨天皇は810年3月、天皇の命令を確実に、ひそかに伝えるための新しい役所、蔵人所を置いた。その長官である蔵人頭のひとりに選ばれたのが、藤原北家の冬嗣だった。
810年9月6日、上皇は、都を平城京に戻すという命令を出した。平安京の貴族たちに、旧都へ移るよう求めたのである。嵯峨天皇はこれに従うふりをしながら、すばやく動いた。9月10日、伊勢・近江・美濃の三つの関を固めさせて東への道を断ち、平安京にいた仲成を捕らえ、薬子の官位を奪った。
翌11日、上皇は薬子とともに平城京を出て、東国へ向かった。兵を集めて戦うつもりだったとされる。嵯峨天皇は、蝦夷との戦いで名を上げた坂上田村麻呂らに道をふさがせた。上皇の一行は大和国の添上郡まで進んだところで、行く手を阻まれたことを知り、引き返した。その夜、捕らえられていた仲成は射殺された。12日、上皇は平城京に戻って髪を剃り、出家した。薬子は毒を飲んで死んだ。
戦いらしい戦いはないまま、事件は数日で終わった。上皇の子で皇太子だった高岳親王は位を廃され、嵯峨天皇の弟の大伴親王が新たに皇太弟になった。のちの淳和天皇である。高岳親王は出家して真如と名乗り、のちに唐へ渡り、さらに天竺を目指す途中で消息を絶った。上皇自身はそのまま平城京にとどまり、824年に死ぬまで静かに暮らした。
この事件で、藤原式家は政治の表から退いた。代わりに台頭したのが、蔵人頭となっていた北家の冬嗣である。冬嗣は嵯峨天皇の信任を得て昇進を重ね、娘を天皇家に嫁がせた。その子の藤原良房の代から、北家は摂政・関白として朝廷を動かしていく(承和の変)。
蔵人所は、天皇の身の回りと文書を扱う役所として、その後も平安時代を通じて重要な役割を果たした。また、仲成の射殺のあと、朝廷が公式に死刑を行うことは、1156年の保元の乱まで約350年のあいだ絶えた、とよく言われる。どこまでを死刑の停止と見るかには議論があるが、平安時代の宮廷が死罪を避け、流罪で罰する習いを長く続けたのは確かである。
事件は長く「薬子の変」と呼ばれてきた。上皇を惑わせた悪女が起こした事件、という見方で、のちに編まれた正史『日本後紀』も薬子と仲成を厳しく書いている。しかし、遷都の命令を出し、東国へ向かったのは上皇自身である。近年の教科書では、主役は上皇であったとして「平城太上天皇の変」とも呼ぶようになった。嵯峨天皇の勝利によって、都は平安京に定まった(平安京遷都)。平城京は、二度と都にならなかった。