六マイル四方
概要
独立したばかりの合衆国には、金は無いが西の土地があった。連合会議は、売る前に測ることを決めた。六マイル四方をタウンシップとし、それを一マイル四方の三十六の区画に割る。番号を振り、地図にし、区画ごとに売る。現地を見ずに、番号だけで買える。十六番目の区画は学校のために取り置くと定めた。実際の土地には川も丘もあるが、線は構わず引かれた。いまも飛行機から中西部を見下ろすと、地平線まで正方形が続く。所有が土地の形を決めたのではなく、測量が先にあった。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
本文
独立を勝ち取ったばかりのアメリカには、金が無かった。戦争のための借金が山のように残っていたが、当時の連合規約のもとでは、中央の連合会議に税を取る権限が無い。各邦に負担を割り当てて頼むしかなく、払わない邦もあった。ただ、土地はあった。
アパラチア山脈の西、オハイオ川の北に広がる広大な土地である。各邦はそれぞれこの地方の領有を主張していたが、やがてその権利を連合へ譲った。この土地を売れば、借金を返せる。問題は、それをどうやって売るかだった。

それまでのアメリカの土地の境界は、現地の目印で書き表すのが普通だった。大きな樫の木から北へ何十歩、そこから小川に沿って進み、隣の畑の角まで、というような書き方である。だが木は倒れ、小川は流れを変える。二つの土地の間に誰のものでもない細長いすき間が残ったり、逆に同じ場所を二人が別々に買ってしまったりした。現地へ行って目印を確かめなければ、買うこともできない。ヴァージニアやケンタッキーでは、土地の境界をめぐる訴訟が法廷にあふれていた。
新しい売り方を考えた委員会の中心にいたのが、トマス・ジェファソンである。彼の父ピーター・ジェファソンは、ヴァージニアの境界線を測ったこともある測量士だった。1784年、ジェファソンは西の土地を十マイル四方の区画に分ける案を出した。長さの単位まで十進法にしたいと考えていた彼らしい案である。

将来この地方にできる新しい州の名前まで提案していて、そこには「アセニシピア」「ポリポタミア」といった古典語風の名が並んでいたが、これは採用されなかった。ジェファソンの1784年の案には、新しい領域で奴隷制を禁じるという条項も入っていたが、わずかな票の差で削られた。そのジェファソン自身も、奴隷を所有する農園主だった。
1785年5月20日、当時ニューヨークに置かれていた連合会議は、土地条例を定めた。土地はまず、基準となる線を引いてから区切る。区切る単位は六マイル四方の「タウンシップ」で、その中をさらに一マイル四方の「セクション」36個に割る。一つのセクションは640エーカー、およそ2.6平方キロメートルである。
セクションには1から36まで番号を振る。そして、各タウンシップの第16セクションは、その土地の学校のために取っておくと決めた。売った金を、その地域の学校の費用に充てる。公の教育の財源を、土地を測る段階で、あらかじめ組み込んだのである。
土地の値段は、最低で1エーカーあたり1ドルと定められた。ただし、初めは一セクション単位でしか買えなかった。640ドルは、当時の普通の農民にとって大金である。だから最初に買ったのは、まとめて買って転売を狙う投機家たちだった。その後、買える単位は次第に小さくされ、より多くの人が手に入れられるようになっていく。番号の振り方も、のちに北東の角から始めて蛇行しながら進む形に統一された。
測量はまず、オハイオ川がペンシルヴェニアの境を越えるあたりから始まった。だが、平面の上の格子をそのまま丸い地球に広げると、ずれが生じる。南北の線となる子午線は、北へ行くほど互いに近づくからである。六マイル四方の区画を北へ積み上げていくと、だんだん形が合わなくなる。
そこで、一定の距離ごとに「補正線」を設け、格子をいったん引き直すことにした。補正線のところでは、南北にまっすぐ走ってきた道が、急に東か西へ直角にずれて、また北へ向かう。中西部の田舎道をまっすぐ北へ車で走ると、突然現れるこの曲がり角は、地球の丸さと格子とが折り合った跡である。
この仕組みは、土地のあり方を根本から変えた。土地は、現地を見なくても、番号だけで売り買いできるようになった。東部の町の事務所で、遠い西の土地が取引される。土地は、互いに取り替えのきく商品になった。
すき間や重なりは原理的に生じないので、境界をめぐる争いも減った。区画の境に道が通され、一マイルごとに直角の交差点ができた。町の通りもその格子に合わせて引かれた。四角い畑は、のちに大型のトラクターで耕すのに都合がよく、大規模な農業の土台になった。上空から中西部を見ると、正方形の畑の中に、回転する散水管がつくる円い緑が収まっている。
一方で、線は川も丘も気にせずに引かれた。急な斜面が一つの区画にまるごと入ったり、水場が片側の区画にしか無かったりした。地形に合わせて土地を分けるのではなく、まず線が先に決まり、人はそれに合わせて暮らすことになった。
そして、格子が引かれたのは、誰もいない土地ではなかった。そこにはショーニー、マイアミ、デラウェア、ワイアンドットなどの人々が住んでいた。測量は、しばしば兵士に守られながら行われた。先住民の諸部族は連合して抵抗し、北西インディアン戦争と呼ばれる戦いが続いた。1791年、アーサー・セントクレアが率いるアメリカ軍は先住民の連合軍に大敗した。
アメリカ軍の歴史の中でも最悪の敗北の一つとされる。だが1794年のフォールン・ティンバーズの戦いでアメリカ軍が勝ち、翌1795年のグリーンヴィル条約で、いまのオハイオ州の大部分が合衆国に譲られた。格子は、空白の土地に引かれたのではない。空白に見えるようにしてから、引かれたのである。抵抗はその後も続き、やがてテカムセの部族連合へと引き継がれていく。
1787年には北西部条例が定められ、この地方をいくつかの準州に分け、人口が増えれば既存の州と対等な州として連邦に加わる道が開かれた。同じ年、フィラデルフィアでは合衆国憲法が作られている(アメリカ合衆国憲法の制定)。北西部条例は、この地方での奴隷制を禁じた。ジェファソンが1784年に入れようとして果たせなかった条項が、別の形で実現したのである。オハイオ川は、自由州と奴隷州とを分ける線の一部になっていった。
1803年のルイジアナ買収でミシシッピ川の西の広大な土地が加わると、六マイル四方の格子は、さらに西へ、太平洋の近くまで延びていった。いまでもオハイオからカリフォルニアの手前まで、飛行機の窓から見下ろすと、地平線まで正方形が続いている。人工衛星の写真にも、はっきりと写る。
ここでは、持ち主が土地の形を決めたのではない。測量が先にあり、所有はその後から来た。古代の日本の条里も、同じ順番で土地を格子に区切った。中央の政府が、現地を見ずに土地を割り当てるために線を引いたという点で、両者は千年の時を隔ててよく似ている。違うのは、条里が人々に土地を配るために測ったのに対し、六マイル四方の格子は土地を売るために測ったことである。売るためには、どの区画も同じ形をした、取り替えのきくものにしなければならなかった。