ピョートル・ストルイピン
概要
サラトフ県知事で農民の暴動を自分で説得して鎮めた。1906年、内相、首相。軍法会議で3000人を処刑し、同時に農地改革。ドゥーマを2度解散し、選挙法を変えた。「あなたたちは大変動を望み、我々は偉大なロシアを望む」。1911年9月、キエフのオペラ座で、二重スパイのボグロフに撃たれた。皇帝の桟敷に向かって十字を切って倒れた。
所属
ロシア帝国関わったできごと(1)
ストルイピンの改革AD1906年11月 · 改革した本文
ピョートル・アルカージエヴィチ・ストルイピンは1862年4月14日、ドイツのドレスデンで、古い貴族の家に生まれた。父は軍人で、母がこの地に滞在していたときの出産だった。幼いころはリトアニアの領地などで育ち、ヴィリニュスとオリョールのギムナジウムを経て、ペテルブルク大学の物理数学部で自然科学を学んだ。化学者メンデレーエフの試験で議論が熱を帯び、最後に教授が満点をつけたという話が伝わっている。

大学を出ると内務省、次いで農業省に勤め、1889年からは西部のコヴノ(いまのリトアニアのカウナス)で郡の、のちに県の貴族団長を務めた。この土地に10年あまりいたことが、彼の考えを決めた。ロシアの中心部の農村では、土地は村の共同体(ミール)が持ち、家族の人数に応じて畑を割り振り直すのが普通だった。だが西部には、農民が自分の土地を自分の判断で耕す村が多く、暮らしぶりも違って見えた。農奴解放令から40年がたっても、農民は共同体に縛られ、畑は細い帯に分かれ、豊かになる道が見えなかった。
1902年、40歳でグロドノ県の知事に、翌1903年にはヴォルガ川沿いのサラトフ県の知事になった。地主と農民の対立が最も激しい土地の一つである。日露戦争の敗色と血の日曜日事件に始まる1905年の革命の中で、サラトフの農村では農民が地主の館を焼き、土地を奪った。ストルイピンは軍を使って厳しく鎮圧する一方、自ら群衆の中に入って説得したことで知られる。銃を向けた男に外套を投げて持っていろと言い、相手がひるんだ、という話も伝わる。この働きが皇帝ニコライ2世の目に留まった。

1906年4月、ストルイピンは内務大臣に、7月には首相(内相を兼任)に任じられた。44歳だった。皇帝は前年の十月詔書で議会(ドゥーマ)の開設を約束していたが、開かれた第1ドゥーマは地主の土地の取り上げを求め、政府と真っ向から対立して、2か月あまりで解散された。農村ではなお暴動が続き、各地で役人や警官を狙ったテロが相次いでいた。
1906年8月、ペテルブルクのアプテカルスキー島の首相の別荘で、面会の日に爆弾が爆発した。革命派の一派が仕掛けたもので、来客や警護の者など数十人が死んだ。ストルイピンは無事だったが、14歳の娘ナターリヤは両脚に重い傷を負い、3歳の息子アルカージーも負傷した。数日後、政府は議会の閉会中に出せる緊急の法令で、テロや強盗の容疑者を即決で裁く野戦軍法会議を設けた。8か月ほどのあいだに、1000人を超える人がこの法廷で死刑を言い渡され、執行された。絞首刑の縄は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれた。1907年、議会でこの言葉を使った議員に、ストルイピンは決闘を申し込み、議員は謝罪した。

弾圧と並んで、彼がもう一つの柱としたのが農地の改革である。1906年11月の勅令で、農民は共同体を抜けて、割り当てられた畑を自分の私有地にすることができるようになった。ばらばらの細い帯の畑を一か所にまとめ、自分の土地の上に家を建てて住む独立の農家を育てる。農民銀行が土地の購入に金を貸し、ウラルの東の空いた土地への移住も後押しされた。1906年からの数年で、300万人を超える人々が、シベリア鉄道(シベリア鉄道の開通)に乗ってシベリアや中央アジアへ移った。ストルイピンは、勤勉で豊かな農民の層が育てば、彼らは土地を守るために秩序の側に立ち、革命の火種は消えると考えた。のちに外国の記者に、国の内と外に20年の平穏を与えてくれれば、ロシアは見違えるようになるだろうと語ったと伝えられる。
議会とは激しくぶつかった。第2ドゥーマで左派から攻撃されたとき、彼は、あなたがたが必要としているのは大きな動乱だが、我々に必要なのは偉大なロシアだ、と答えた。1907年6月3日、政府は第2ドゥーマを解散し、同時に選挙法を変えた。地主の1票が労働者や農民の何十票にもあたる仕組みで、議会の承認を得ずに選挙法を変えることは基本法に反するとして、「六月三日のクーデター」と非難された。こうして選ばれた保守的な第3ドゥーマは、初めて5年の任期を全うした。

だが彼の足場は細っていった。右派の貴族は共同体を壊す改革を嫌い、左派は絞首刑を許さず、宮廷では皇后とその周りの人々が彼を疎んじた。1911年3月、西部の諸県に地方自治の議会を設ける法案が国家評議会で否決されると、ストルイピンは辞任をちらつかせて皇帝に議会を数日間停止させ、その間に緊急の法令として法を通した。これで皇帝の信頼を失い、近く職を解かれるとうわさされるようになった。
1911年9月14日(ロシアの暦では9月1日)、キエフの市立劇場で、皇帝の臨席のもと、リムスキー=コルサコフのオペラ『サルタン王の物語』が上演された。幕あいに、平土間の最前列近くに立っていたストルイピンに、若い男が近づき、ピストルで2発撃った。犯人ドミトリー・ボグロフは、革命派の一員でありながら秘密警察の情報提供者でもあり、警察から渡された入場券で劇場に入っていた。ストルイピンは椅子に崩れ、皇帝の桟敷の方へ向かって手で十字を切ったと伝えられる。4日後に死んだ。49歳だった。ボグロフはまもなく絞首刑になった。警察の失態だったのか、誰かが仕組んだのかは、いまも分かっていない。
ストルイピンは、自分が殺されたら殺された場所に葬ってほしいと書き残していたとされ、キエフのペチェールシク大修道院に葬られた。それから6年後、二月革命(ロシア)で帝政は倒れ、農地の改革は途中で断ち切られた。共同体を抜けて独立した農家は、農民全体の中ではまだ一部にとどまっていた。

評価はいまも分かれる。ソ連の時代、彼は革命を血で抑えた反動の政治家とされた。一方でレーニンは、彼の農業政策が成功すればロシアの農村は大きく変わり、革命の条件が失われかねないことを認める文章を書いている。弾圧と改革を同時に進めた彼が、時間を与えられていればロシアは違う道を進んだのか。その問いは、ソ連が崩れたあとのロシアで再び盛んに論じられ、2012年にはモスクワに彼の記念碑が建てられた。