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Person / 人

ピョートル・ストルイピン

Pyotr Stolypin
AD1862年4月14日 – AD1911年9月18日(享年49)
ロシア帝国重要度 4

概要

サラトフ県知事で農民の暴動を自分で説得して鎮めた。1906年、内相、首相。軍法会議で3000人を処刑し、同時に農地改革。ドゥーマを2度解散し、選挙法を変えた。「あなたたちは大変動を望み、我々は偉大なロシアを望む」。1911年9月、キエフのオペラ座で、二重スパイのボグロフに撃たれた。皇帝の桟敷に向かって十字を切って倒れた。

所属

ロシア帝国

関わったできごと(1)

ストルイピンの改革AD1906年11月 · 改革した

本文

1862年4月14日、ドレスデン(母の里帰り先)。古い貴族の家。父は将軍で、レフ・トルストイの遠縁(トルストイは「私の親戚のストルイピン」と書いた)。ヴィリニュスとオリョールのギムナジウム。ペテルブルク大学の物理数学部(自然科学。農学)。大学でメンデレーエフの口頭試問を受けて、化学の議論になって、メンデレーエフが「もういい、5点だ」と言った、という話がある。

内務省、農業省。1889年からコヴノ(カウナス)で郡と県の貴族団長。リトアニアの農村を13年見た。農民が共同体でなく個人で耕す所(西部にはミールが少なかった)を、自分の目で知った。

1902年、グロドノ県知事(40歳、最年少)。1903年、サラトフ県知事。ヴォルガの、地主と農民の対立が最も激しい県。1905年の革命で、農村が燃えた。彼は、コサックを連れずに、暴徒の村に入って演説した。銃を向けられて、外套を投げて「持っていろ」と言って、相手がひるんだ、という話が伝わる。皇帝が名前を覚えた。

1906年4月、内相。7月、首相(内相を兼ねた)。44歳。

8月12日、日曜の面会日。アプテカルスキー島の官邸に爆弾。27人が死に、33人が負傷。3歳の息子アルカージーは足を折り、14歳の娘ナターリヤは両脚を潰されて、生涯、歩けなかった。ストルイピンは無傷。皇帝が冬宮に移るよう勧めた。

8月19日、軍法会議の法令(緊急措置として。議会は開かれていなかった)。8か月で1102〜1144人の死刑判決と執行。「ストルイピンのネクタイ」。カデットの議員ロディチェフが議会でこの言葉を使い、ストルイピンが決闘を申し込み、ロディチェフが公に謝罪した。

11月9日、農地改革。共同体からの離脱の自由。土地の私有と統合。農民銀行。シベリア移住(1906〜13年に350万人。「ストルイピンの車両」=家族と家畜が一緒に乗る貨車)。

1907年6月3日、第2ドゥーマを解散し、選挙法を変えた。地主の1票が農民の数十票分になった。憲法違反だと批判された。「六三体制」。第3ドゥーマ(1907〜12年)は初めて任期を全うした。

対立。右翼(貴族)は農地改革を嫌い、左翼は絞首刑を憎み、皇后とラスプーチンの取り巻きは彼が邪魔だった。1911年、西部ゼムストヴォ法案で皇帝を脅して(辞任をちらつかせて)通したことで、皇帝の信頼を失った。9月には解任が決まっていた、と言われる。

1911年9月14日(旧暦1日)、キエフのオペラ座。リムスキー=コルサコフ『皇帝サルタンの物語』。皇帝と2人の娘が桟敷。ストルイピンは1階の第2列。第2幕の休憩、オーケストラピットの手すりに寄りかかっていたところへ、ドミトリー・ボグロフ(キエフの弁護士の息子、無政府主義者で、秘密警察の情報提供者。警察が発行した入場券で入っていた)が近づいて、ブローニングで2発。1発は腕、1発は胸から肝臓へ。ストルイピンは制服の前を開けて、血を見て、椅子に座り、皇帝の桟敷に向かって、手で十字を切った。4日後、死んだ。49歳。

ボグロフは10日後に絞首刑。誰が仕組んだのか(秘密警察の内部か、単独か)は、いまも分からない。

キエフのペチェールシク大修道院に葬られた。「私はロシアで死ぬことを望む」と遺言に書いていた。

6年後、革命。レーニンは彼を「絞首刑執行人」と呼び、同時に「もし彼の改革が成功していたら、革命は不可能になっていたかもしれない」と書いた。