ビルマの独立
概要
イギリスと独立の約束を取り付け、少数民族と連邦制で合意した指導者は、その半年前に閣議の最中に暗殺されていた。パンロンの約束は守られず、いまも紛争が続く。
場所
16.84°N 96.17°E · ミャンマー
関わった人(1)
アウンサンAD1915年2月13日–AD1947年7月19日 · その半年前に暗殺された本文
ビルマ(いまのミャンマー)は、19世紀に三度の戦争を経てイギリスに併合された。1885年に最後の王朝コンバウン朝の王が退位させられ(ビルマの併合)、ビルマは英領インドの一つの州として治められた。イギリスは、平野に住む多数派のビルマ人の地域を直接治め、山地に住むシャン人、カチン人、チン人などの地域は、その土地の首長を通じて間接に治めた。カレン人などの少数民族は軍や警察に多く採られた。同じ植民地のなかで、民族ごとに治め方が違っていた。この分け方が、独立後の国の形に長く影を落とす。
1930年代、ラングーン(いまのヤンゴン)の大学から、民族主義の学生運動が起こった。その中心にいたのがアウンサンである。1940年、彼は独立運動への弾圧を逃れて国外に出て、日本の軍の謀略機関に接触した。翌年、アウンサンら「三十人の同志」は日本軍の占領下にあった海南島などで軍事訓練を受け、ビルマ独立義勇軍を作った。1942年、日本軍とともにビルマに入り、イギリス軍を追い出した。
1943年、日本はビルマに「独立」を与え、アウンサンは国防相になった。しかし実権は日本軍が握り、独立は名ばかりだった。アウンサンは仲間とひそかに抗日の組織を作り、1945年3月、日本軍がインパール作戦に敗れて退き始めたのを見て、全軍で日本に反旗を翻した。この日はいまもミャンマーの国軍記念日になっている。

戦後、戻ってきたイギリスは、当初はすぐに独立を認めるつもりはなかった。だがアウンサンの率いる反ファシスト人民自由連盟は国中に支持を広げ、ストライキで植民地政府を動かなくした。インドの独立も目前に迫り、イギリスに長く持ちこたえる余力は無かった。1947年1月、アウンサンはロンドンでアトリー首相と協定を結び、1年以内の完全な独立を取りつけた。
残る問題は、イギリスが別に治めてきた山地の諸民族を、どう一つの国にまとめるかだった。1947年2月、シャン州のパンロンで、アウンサンとシャン、カチン、チンの代表が会議を開き、辺境地域の自治を認めて連邦の一員として共に独立することに合意した。2月12日に結ばれたこのパンロン協定の日は、いまも「連邦の日」として祝われている。続いて作られた憲法では、シャン州などに、10年後に連邦から離れる権利も認められた。ただし、カレン人はこの会議に正式には加わっていない。

1947年7月19日の朝、ラングーンの政庁で閣議が開かれていたところへ、軍服を着て銃を持った男たちが押し入り、アウンサンと閣僚ら合わせて9人を射殺した。アウンサンは32歳だった。首謀者として捕らえられたのは、戦前に首相を務めた政敵ウー・ソオで、のちに処刑された。7月19日は「殉難者の日」とされている。アウンサンのあとは、ウー・ヌが継いだ。
1948年1月4日午前4時20分、ビルマは独立した。この時刻は占星術師が吉として選んだものとされる。ビルマはイギリス連邦にも加わらず、完全に離れる道を選んだ。

だが独立の直後から、国は内戦に入った。3月には共産党が武装蜂起し、翌年にはカレン人の組織が独立を求めて戦い始めた。アウンサンという、民族の違いを越えて信頼された指導者を失ったことが、まとめ役の不在として重くのしかかった。1962年、ネ・ウィン将軍がクーデターで権力を握る。シャン州などが連邦からの離脱や自治の拡大を求める動きを強めていたことも、その口実の一つだった。パンロンで約束された自治は形だけになり、山地の各地で少数民族の武装組織と国軍の戦いが続いた。
アウンサンの娘アウンサンスーチーは、のちに軍政に抗う民主化運動の指導者となり、パンロンの精神をもう一度、と訴えた。しかし2021年、国軍は再びクーデターを起こし(ミャンマーのクーデター)、少数民族との戦いも、ビルマ人どうしの戦いも、いまなお終わっていない。