ポペ
概要
魔術の罪で鞭打たれた祈祷師が、結び目の紐で日を合わせ、各集落を同時に立たせた。スペイン人を12年追い払った。その像がいま連邦議会に立つ。
関わったできごと(1)
プエブロの反乱AD1680年8月10日 · 計画本文
ポペは、北アメリカ南西部、いまのニューメキシコ州を流れるリオグランデ川のほとりの集落、オケイ・オウィンゲ(スペイン人はサン・フアンと呼んだ)に住むテワの人だった。生まれたのは1630年ごろとされる。日干しれんがの家を何層にも積み重ねた集落に住み、トウモロコシと豆とカボチャを育てる人びとを、スペイン人は村を意味する言葉で「プエブロ」と呼んだ。その祖先は、はるか昔から乾いた大地で灌漑の農業を営み、チャコ峡谷のプエブロ・ボニートのような大きな集合住宅を築いてきた(祖先プエブロ)。ポペは、雨と収穫のために精霊に祈る儀礼を受け持つ宗教の指導者だった。

1598年、スペインの征服者オニャーテが入植者と兵を率いてこの地に入り、ヌエバ・メヒコ(新しいメキシコ)の植民地とした。プエブロの人びとは、トウモロコシや布を貢ぎ物として納め、スペイン人のために働くことを強いられた。フランシスコ会の修道士たちは集落ごとに教会を建てさせ、人びとに洗礼を受けさせた。そして、プエブロの古い宗教を悪魔の崇拝とみなし、儀礼に使う仮面や人形を焼き、地下の祭儀の部屋(キヴァ)を壊した。
1670年代、この地を厳しい日照りと飢饉が襲った。疫病が広がり、遊牧のアパッチの人びとの襲撃も増えた。プエブロの人びとの中には、古い神々への祈りを禁じられたから災いが来たのだと考える者が少なくなかった。人びとはひそかに儀礼を続けた。
1675年、スペインの総督は、魔術を使ったという罪で、47人のプエブロの宗教指導者を捕らえた。3人は絞首刑になり、1人は自ら命を絶ち、残りの者は首都サンタフェの広場で鞭打たれて投獄された。ポペはその中の一人だった。しかし、怒ったプエブロの男たちが大勢サンタフェに押しかけ、総督の館に詰め寄って釈放を求めた。アパッチとの戦いにプエブロの協力が欠かせなかった総督は、彼らを放すしかなかった。
釈放されたポペは、故郷の集落を離れて、北の山あいのタオスの集落に身を隠した。そこで、プエブロのすべての集落が同時に立ち上がるという計画を練った。後にスペイン人に捕らえられた者の証言によれば、ポペは、キヴァの中に現れた精霊たちから指示を受けたと語っていたという。当時、プエブロの集落は数十あり、話す言葉もいくつもの系統に分かれていて、互いにまとまって行動したことは無かった。
ポペたちは、足の速い若者を使者として各集落に送った。使者は、結び目を作ったユッカの繊維の紐を届けた。一日に一つずつ結び目をほどき、最後の結び目をほどいた日に、一斉に立ち上がる。文字を使わずに、遠く離れた数十の集落の間で日を合わせる方法だった。
決行の日は1680年8月の半ばと決められていた。だが、紐を運んでいた二人の若者がスペイン人に捕らえられ、計画が漏れた。それを知ったポペたちは、予定を早め、8月10日に決行した(プエブロの反乱)。
各地の集落で、人びとはほぼ同時に立ち上がった。修道士21人を含む400人あまりのスペイン人が殺され、教会は焼かれた。生き残った入植者たちはサンタフェに逃げ込んだが、プエブロの軍に包囲され、水を断たれた。総督オテルミンは、9日後、残った人びとを率いて町を脱出し、南のエル・パソまで退いた。2000人ほどの入植者と、スペイン側についたプエブロの人びとが、その列に加わっていた。スペインは北アメリカの植民地で、これほどの規模で追い出されたことはなかった。
スペイン人が去った後、ポペは各集落を回り、スペインのものをすべて捨てるよう命じたと、後の証言は伝える。教会と十字架を壊し、キリスト教の名を捨て、洗礼を受けた者は川で体を洗ってその跡を洗い流すこと。スペイン語を使わず、スペイン人が持ち込んだ小麦などの作物を植えず、教会で結ばれた結婚を解くこと。古い儀礼とキヴァがよみがえった。
だが、まとまりは長くは続かなかった。日照りは止まず、アパッチの襲撃も続いた。スペイン側の証言によれば、ポペは次第に独裁的になり、集落から貢ぎ物を取り立てたため、反発を買って指導者の座を追われたという。もっとも、これらの証言はスペイン人に捕らえられた者たちのもので、どこまで実情を伝えているかは分からない。ポペがいつ、どこで死んだのかも、記録には残っていない。1690年ごろまでには死んでいたとみられている。
1692年、スペインの総督ディエゴ・デ・バルガスが軍を率いて戻り、ほとんど戦うことなくサンタフェを取り戻した。1696年にも反乱が起きたが鎮められ、ニューメキシコは再びスペインの植民地になった。
ただ、戻ってきたスペイン人の支配は、かつてと同じではなかった。人びとを働かせる制度は改められ、修道士たちもプエブロの儀礼への干渉を控えるようになった。プエブロの人びとは表向きキリスト教を受け入れながら、古い儀礼と言葉を守り続けた。いまもニューメキシコには19のプエブロの共同体があり、それぞれの言葉と儀礼を受け継いでいる。12年の独立が、その生き残りの土台になったと考える人は多い。
2005年、ニューメキシコ州は、ワシントンの合衆国議会議事堂にある国立彫像ホールに、州を代表する人物としてポペの大理石像を贈った。プエブロの彫刻家が作ったその像は、結び目の付いた紐を手に握っている。