アフマド・グラーニュのエチオピア侵攻
概要
火器を持つアダルの軍が、剣と槍の高原を14年占領した。教会と写本が焼かれ、エチオピアの記録が断絶する。ポルトガルの銃兵が来て押し返した。
場所
12.00°N 39.50°E · エチオピア・アムハラ州付近
関わった人(1)
アフマド・グラーニュAD1506年頃–AD1543年 · 総指揮本文
エチオピアの高原には、4世紀からキリスト教の王国が続いていた。13世紀に始まったソロモン朝(エチオピア・ソロモン朝の成立)の皇帝たちは、自分たちを古代イスラエルのソロモン王とシバの女王の子孫と称し、岩を掘り抜いた教会(ラリベラの岩窟教会)や修道院を各地に抱える、高原のキリスト教の帝国を治めていた。その東、高原から紅海とアデン湾に向かって下る低地には、イスラームを信じる人々の国々があった。その中で力を持ったのが、城壁の町ハラール(ハラールの城壁都市)を拠点とするアダル・スルタン国である。
高原の帝国と低地のスルタン国は、何世紀にもわたって争い、時に貢ぎ物を納めさせ、時に交易で結びついてきた。15世紀にはエチオピアの皇帝が優位に立ち、アダルは押され気味だった。16世紀の初め、そのアダルに一人の指導者が現れる。アフマド・イブン・イブラーヒーム。宗教の指導者としてイマームと呼ばれ、エチオピアの人々からは、アムハラ語で「左利き」を意味する「グラーニュ」の名で呼ばれた。
アフマドは、皇帝への貢ぎ物を拒み、聖戦を掲げて低地の諸部族をまとめた。ソマリ人やアファル人の戦士が彼のもとに集まった。そして同じころ、紅海の向こう側で大きな変化が起きていた。1517年、オスマン帝国がエジプトのマムルーク朝を滅ぼし(セリム1世のエジプト征服)、紅海に勢力を伸ばしていた。紅海の対岸のアラビアを通じて、アダルには火縄銃と大砲、それを扱う兵が入ってきた。一方、エチオピアの皇帝の軍は、数は多くても、主な武器は剣と槍と弓だった。

1529年3月、アフマドの軍は高原の入り口シンブラ・クレで皇帝レブナ・デンゲルの大軍と戦い、これを打ち破った。その後の数年で、アフマドは高原に攻め上り、帝国の大半を手中に収めた。教会と修道院は次々に焼かれ、財宝は奪われた。古都アクスムの聖マリア教会も焼け落ちた。何百年も書き継がれてきた写本や年代記の多くが、この時に失われた。改宗を迫られた人々も多い。アダルの側の年代記『アビシニア征服の書』は、その勝利を誇らしげに書き記しているが、エチオピアの側から見れば、それは国の記憶そのものが断ち切られる体験だった。
皇帝レブナ・デンゲルは、山々を逃げ回りながら抵抗を続けた。彼は以前から、インド洋に進出してきたキリスト教の国ポルトガルとつながりを持っていて、助けを求める使いを送った。1540年、レブナ・デンゲルは逃亡先の山上の修道院で亡くなり、息子のガラウデウォスが後を継いだ。

翌1541年、ポルトガルの部隊が紅海の港マッサワに上陸した。火縄銃を持った兵およそ400人。率いていたのは、インド航路を開いたヴァスコ・ダ・ガマの息子、クリストヴァン・ダ・ガマだった(ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路)。部隊は皇帝の母后らと合流し、高原を進んで、アフマドの軍との戦いに何度か勝った。だがアフマドはオスマンからさらに火縄銃の兵を呼び寄せ、1542年8月の戦いでポルトガル部隊を破った。傷を負ったクリストヴァンは捕らえられ、イスラームへの改宗を拒んで処刑された。
それでも、生き残ったポルトガル兵たちは、若い皇帝ガラウデウォスの軍に加わった。1543年2月、タナ湖の近くのワイナ・ダガで、皇帝の軍とポルトガル兵はアフマドの軍と戦った。戦いのさなか、アフマドは銃弾に倒れた。撃ったのはポルトガルの兵士だったと伝えられる。指導者を失ったアダルの軍は崩れ、14年にわたった占領は終わった。

戦いは終わったが、高原の帝国は深い傷を負っていた。人口は減り、教会は焼け、国の力は大きく衰えた。その弱まった帝国の南から、牧畜を営むオロモの人々が高原へ大きく移り住んでくる。アダルの国もまた、戦いで疲れきり、オロモの移動の中で力を失った。ガラウデウォスは1559年、アフマドの後継者との戦いで戦死している。
この戦争は、紅海を挟んだ大国どうしの争いの一部でもあった。オスマン帝国はアダルに銃と兵を送り、ポルトガルはエチオピアに銃兵を送った。インド洋と紅海の交易路をめぐる両国の対立が、エチオピアの高原に持ち込まれたのである。ポルトガルとのつながりは、やがてイエズス会の宣教師を招き、17世紀にはエチオピアの皇帝がカトリックに改宗して国が大きく揺れることになる。その混乱の後に、新しい都ゴンダールが築かれた(ゴンダールの城群)。
アフマド・グラーニュの評価は、立つ側によってまったく違う。エチオピアの多くの人々にとって、彼は教会を焼き、国を荒らした侵略者として記憶されている。一方、ソマリアでは、彼は異教の大国に立ち向かった英雄として、国民の物語の中に位置づけられてきた。同じ人物が、高原の側と低地の側とで、正反対の顔を持っている。