ウル・ナンム法典

概要
現存する最古の法典。ハンムラビより300年早く、傷害は同害報復ではなく罰金で償わせている。
場所
30.96°N 46.10°E · イラク・ジーカール県
関わった人(1)
ウル・ナンム制定本文
紀元前2100年ごろ、メソポタミア南部の都市ウルの王ウル・ナンムが、シュメールの言葉で法を定め、粘土板に記させた。ウル・ナンム法典と呼ばれるこの法は、いま残っている法典の中で最も古い。名高いハンムラビ法典より、300年以上前のものになる。
ウル・ナンムが王となる前、メソポタミア南部は混乱していた。アッカドのサルゴンから続いたアッカドの王国が崩れた後、東の山地から来たグティ人と呼ばれる人々が力を振るい、シュメールの諸都市はばらばらになっていた。ウルクの王ウトゥヘガルがグティ人を追い払い、その配下でウルを治めていたウル・ナンムが、やがて自ら王を名乗った。ウル・ナンムが開いた王朝は、ウル第三王朝と呼ばれる。

ウル・ナンムとその子シュルギの時代、王朝はメソポタミア南部を一つにまとめ、強い王の下に役人が働く国を作り上げた。各地の神殿や役所の出入りを記録した粘土板が、何万点も見つかっている。ウルには、いまも基部が残る大きな階段状の聖塔ジッグラトが築かれた。ウル・ナンムは「シュメールとアッカドの王」を名乗り、正義の王として自らを示した。法典は、子のシュルギの時代に作られたとする説もある。
法典の粘土板が知られるようになったのは、20世紀の半ばである。1952年、アメリカのシュメール学者クレーマーが、イスタンブールの博物館に収められていたニップル出土の粘土板の断片の中から、この法典を見つけ出した。その後、ウルなどで出た断片から内容が補われたが、いまも粘土板の多くの部分は欠けている。読み取れる条文は数十条ほどで、法典の全体の大きさは分かっていない。

法典は、王が何をしたかを述べる前文から始まる。ウル・ナンムは国の境を定め、度量衡をそろえ、商人の不正を正した。孤児が富める者の手に、寡婦が力ある者の手に渡されることのないようにした、1シェケル(銀の重さの単位)しか持たない者が、1ミナ(60シェケル)を持つ者の手に渡されることのないようにした、と王は述べる。法を作ることが、強い者から弱い者を守る行いとして示されている。
条文は、「もし人が〜したならば、〜とする」という形で書かれている。人を殺した者、強盗をはたらいた者は死刑とされた。一方で、体を傷つけた場合には、銀を払って償うことが定められている。人の足を切った者は銀10シェケル、骨を折った者は1ミナ、鼻を切り落とした者は3分の2ミナを払う、といった具合である。偽りの証言をした者への罰や、逃げた奴隷を連れ戻した者への褒美、離婚の際に夫が妻に払う銀などの定めもある。

これに対して、およそ300年後のハンムラビ法典には、他人の目をつぶした者はその目をつぶされる、という「目には目を」の条文が並ぶ。古い法のほうが銀で償わせ、新しい法のほうが身体を罰するのは意外に見える。ただしハンムラビ法典でも、同じ報いを受けるのは身分の同じ自由人どうしの場合が中心で、身分の低い者を傷つけた場合には銀で償わせている。ウル・ナンム法典とハンムラビ法典の間の時代の、イシンやエシュヌンナの法も、多くは銀による償いを定めていた。同じ報いの考え方は、ハンムラビの王朝を開いたアムル人の慣習から来たものだとする説もあるが、確かなことは分かっていない。
ウル第三王朝は、紀元前2000年ごろ、東のエラム人の攻撃を受けて滅びた。その時のウルの荒廃を嘆く長い詩が残っている。だが、王が法を定め、それを書き記して弱い者を守ると宣言するという形は、その後のメソポタミアの王たちに受け継がれた。ハンムラビの法典の前文にも、強い者が弱い者を虐げないようにするためにこの法を定めた、という同じ考えが述べられている(ハンムラビ)。文字(楔形文字の成立)が生まれてから1000年ほどのうちに、人々は法をも書き残すようになっていた。