ファーティマ朝の成立
概要
ムハンマドの娘ファーティマの子孫を名乗るイスマーイール派の指導者が、ベルベルのクターマ族を得てアグラブ朝を倒し、チュニジアでカリフを名乗った。アッバースと並ぶ第二のカリフ。60年後にエジプトを取り、カイロを建て、200年、シーア派の帝国だった。
場所
35.60°N 10.06°E · チュニジア
本文
イスラームの共同体を誰が率いるべきかという争いは、預言者ムハンマドの死の直後から続いていた。ムハンマドのいとこで娘ファーティマの夫だったアリーと、その子孫こそが正しい指導者(イマーム)だと考える人々がシーア派である。680年のカルバラーの悲劇でアリーの子フサインが殺されてから、シーア派は、ウマイヤ朝や、それに代わったアッバース革命後のアッバース朝の支配のもとで、迫害される少数派として生きてきた。
シーア派のなかでも、8世紀の半ばに6代目のイマーム、ジャアファル・サーディクが亡くなったとき、跡継ぎをめぐって分裂が起きた。長男のイスマーイールとその子孫を正統とする人々が、イスマーイール派である。彼らは、正しいイマームは身を隠しているだけで、やがて救世主(マフディー)として現れ、不正な世を正すと信じた。9世紀の後半、シリアの町サラミーヤを拠点とする指導者たちは、宣教師(ダーイー)を各地へ送り出し、密かに信徒を増やしていった。

その一人、アブー・アブドゥッラー・アッシーイーは、イエメンで教えを学んだのち、メッカへの巡礼でいまのアルジェリア北東部の山地に住むベルベル人のクターマ族の人々と出会い、893年ごろ彼らの土地に入った。マフディーが間もなく現れると説く彼のもとに、勇猛で知られたクターマ族の戦士が集まった。当時、北アフリカの東部(イフリーキヤ)を治めていたのは、アッバース朝に従うアラブの王朝アグラブ朝である。アブー・アブドゥッラーは山から下りて、アグラブ朝の町を一つずつ落としていった。
そのころ、サラミーヤの指導者アブドゥッラー(のちのウバイドゥッラー)は、アッバース朝の追及を逃れてシリアを出ていた。エジプトを抜けて西へ向かい、商人の姿でモロッコ南部の隊商の町シジルマーサにたどり着いたが、そこを治める小王朝に見つかり、軟禁された。彼はそれまでの宣教師たちの教えを改め、自分こそが待たれていたイマームだと名乗っていた。この主張は、東方のイスマーイール派の一部の離反を招いている。

909年3月、アブー・アブドゥッラーの軍はアグラブ朝の軍を破り、その王宮の町ラッカーダに入った。最後のアミールはエジプトへ逃げた。アブー・アブドゥッラーはそのまま西へ進み、シジルマーサを攻めて指導者を救い出した。910年1月、指導者はラッカーダに入り、信徒の長、すなわちカリフを名乗った。称号はマフディー。ムハンマドの娘ファーティマの血を引くと主張したことから、この王朝はファーティマ朝と呼ばれる。バグダードのアッバース朝と並ぶ、もう一人のカリフの誕生だった。
アッバース朝の側は、その血筋を偽りだとした。1011年には、バグダードの学者や名士たちが、ファーティマ朝の君主はアリーの子孫ではないと宣言する文書に署名している。ファーティマ朝の系譜が本物かどうかは、いまも確かめようがない。建国の功労者の運命は暗かった。マフディーのふるまいは、アブー・アブドゥッラーが思い描いた救世主の姿とは違っていたらしい。二人の関係はこじれ、911年、マフディーは彼とその兄弟を殺させた。

マフディーは、海に突き出た細い岬に新しい都マフディーヤを築き、921年に移った。陸からは狭い首だけでつながる、守りに強い町である。ファーティマ朝はアグラブ朝からシチリアの支配も引き継ぎ、地中海の海軍国になった。一方、929年にはスペインのコルドバで、アブド・アッラフマーン3世もカリフを名乗った(コルドバのカリフ宣言)。イスラーム世界には、バグダード、北アフリカ、コルドバに3人のカリフが並び立つことになった。
足もとは盤石ではなかった。北アフリカの住民の多くは、シーア派ではなくスンナ派や、ハワーリジュ派の流れをくむ人々だった。943年、ハワーリジュ派の老人アブー・ヤズィードが大きな反乱を起こし、ロバに乗って戦いを率いたことから「ロバの男」と呼ばれた。反乱軍はカイラワーンを取り、マフディーヤを包囲した。王朝は滅亡の寸前まで追い込まれたが、3代目のカリフが947年にようやく反乱を抑えた。

ファーティマ朝の目は、はじめから東を向いていた。アッバース朝を倒し、イスラーム世界全体のカリフになることである。969年、4代目のカリフ、ムイッズの将軍ジャウハルがエジプトを征服し、ナイル川のほとりに新しい都を築いた。「勝利者」を意味するカーヒラ、いまのカイロである。972年にはその中心に建てたアズハル・モスクで講義が始まり、学院へと発展した(アズハル学院の創設)。973年、カリフ自身が北アフリカからカイロへ移った。北アフリカの統治は家臣のズィール家に任されたが、ズィール朝はのちにファーティマ朝を離れていく。
ファーティマ朝の全盛期には、エジプトとシリア、ヒジャーズの聖地までがその手に入った。同じ10世紀には、シーア派のブワイフ朝がバグダードを押さえ(ブワイフ朝のバグダード入城)、イスラーム世界の中心部の多くがシーア派の君主のもとにあった。この時代を「シーア派の世紀」と呼ぶ研究者もいる。しかし住民の多数がシーア派に改宗することはなく、カイロのファーティマ朝も、スンナ派の多いエジプトの社会を力で変えようとはしなかった。

1094年、カリフの跡継ぎをめぐって王朝が割れ、敗れた側を支持する人々がイランの山城に拠って独自の道を歩んだ(アラムートのニザール派)。王朝はその後、宰相や軍人に実権を握られて衰え、1171年、宰相の地位にあったサラディンが最後のカリフの死をもって王朝を終わらせた。チュニジアでカリフを名乗ってから、およそ260年後のことである。
いまイスマーイール派の流れは、アーガー・ハーンを指導者とする人々や、インドを中心とするボホラの共同体などに受け継がれている。最初の宣言の舞台になったラッカーダは、チュニジアの古都カイラワーンの南10キロほどにあり、建物はほとんど残っていない。その地には国立のイスラーム美術館が建っている。アズハルは、いまではスンナ派の学問の最高学府として知られる。シーア派の王朝が建てた学院が、のちにスンナ派の中心になったことになる。