人物

エカチェリーナ2世

Catherine the Great
AD1729年5月2日 – AD1796年11月17日(享年67)
ロシア帝国重要度 4

概要

クーデタで夫を退け、34年統治した。啓蒙思想と文通しながら、農奴制はむしろ強めている。

所属

ロシア帝国

関わったできごと(1)

プガチョフの乱AD1773年 · 鎮圧した

本文

エカチェリーナ2世は1729年5月2日、バルト海に面したプロイセンの港町シュテッティン(いまのポーランドのシュチェチン)に、ドイツの小さな領邦アンハルト=ツェルプストの侯の娘として生まれた。名はゾフィー。家は貧しくはないが、大国の王家と比べれば取るに足らない家柄だった。

エカチェリーナ2世の肖像(ランピ画、1780年代)
エカチェリーナ2世の肖像(ランピ画、1780年代)Wikimedia Commons After Alexander Roslin · Public domain

1744年、14歳のゾフィーはロシアの女帝エリザヴェータに招かれ、その甥で皇位継承者のピョートルの花嫁候補としてロシアへ来た。彼女はロシア語を懸命に学び、夜中に裸足で単語を覚えて肺炎になりかけたという。ルター派から正教に改宗してエカチェリーナと名を改め、翌年に結婚した。夫は幼稚で、ロシアの風習を嫌い、プロイセン王フリードリヒ2世を崇拝していた。結婚生活は冷え切り、彼女は孤独の中でヴォルテールやモンテスキューを読みふけった。1754年に生まれた息子パーヴェルの父親が誰かについては、当時から噂があった。

1761年末にエリザヴェータが死に、夫がピョートル3世として即位した。新帝は、ロシアが勝ちかけていたプロイセンとの戦争を一方的にやめ、占領地を返してしまった。軍と教会の反感は高まった。即位から半年後の1762年6月、エカチェリーナは愛人グリゴリー・オルロフとその兄弟たちに支えられ、近衛連隊を率いて都で女帝を名乗った。夫は抵抗をあきらめて退位し、数日後、監禁先でオルロフ兄弟らと共にいたときに死んだ。公式には持病によるとされた。彼女が殺害を命じたのかどうかは分かっていない。

1742年ごろ
1742年ごろWikimedia Commons Anna Rosina de Gasc · Public domain

ドイツ生まれで、ロシアの皇族の血を一滴も引かない女帝は、34年にわたって帝国を治めた。彼女は自らを啓蒙思想の弟子と任じた。ヴォルテールとは15年にわたって手紙を交わし、ドゥニ・ディドロが娘の持参金に困っていると聞くと、彼の蔵書を買い上げ、本人が生きている間はそのまま手元に置かせて司書としての給料まで払った。1767年には新しい法典を作るため、貴族、町人、国有地の農民などの代表を集めて委員会を開き、モンテスキューやイタリアの法学者ベッカリーアから多くを借りた指針を自ら書いた。指針はフランスでは発禁になったほど進歩的な内容だったが、委員会は議論を重ねるだけで法典はできず、戦争が始まると打ち切られた。

天然痘の流行を前に、1768年には英国から医師を招いて、まだ危険視されていた人痘接種を自ら受け、息子にも受けさせて、貴族たちに範を示した。都には貴族の娘のための学校を開き、病院や孤児院を建てさせた。いまのエルミタージュ美術館の収集も、彼女が西欧の絵画をまとめて買い付けたことに始まる。

だが、ロシアの人口の大半を占める農奴の境遇は、彼女の治世にむしろ悪くなった。クーデタで位に就いた女帝にとって、支えは貴族しかいなかった。農奴が領主を訴えることは禁じられ、領主は農奴をシベリア送りにできた。ウクライナでも農奴制が広げられた。1773年、ドン・コサックのプガチョフが、死んだはずのピョートル3世を名乗って反乱を起こした(プガチョフの乱)。農奴やコサック、ウラルの鉱山労働者や遊牧民が加わり、反乱はヴォルガ流域に広がった。鎮圧の後、女帝は地方の行政を貴族の手に委ね、1785年の特許状で貴族の特権をはっきりと法に書き込んだ。

プガチョフの乱に関わる図版:Pugachev-1773—1775
プガチョフの乱Wikimedia Commons Koryakov Yuri · CC BY 2.5

対外的には、ロシアの版図を大きく広げた。2度のオスマン帝国との戦争で黒海の北岸に進出し、1783年にはクリミア半島を併合した。新しい領土の開発を任されたのが、寵臣で事実上の夫ともいわれるポチョムキンである。西では、プロイセン、オーストリアと組んで、3度のポーランド分割でこの国を地図から消した(ポーランド分割)。

1789年にフランス革命が起きると、彼女の啓蒙への熱は冷めた。農奴制を批判する旅行記を書いた貴族ラジーシチェフに死刑を言い渡し(のちにシベリア流刑に減刑)、かつて文通したフランスの思想家たちの本も警戒の対象になった。1796年11月、脳卒中で倒れ、意識の戻らないまま17日に67歳で死んだ。愛人の多さから、死にまつわる下品な噂も広まったが、根拠の無い中傷である。

1756年、皇太子夫妻と小姓
1756年、皇太子夫妻と小姓Wikimedia Commons Anna Rosina de Gasc · Public domain

ロシアではピョートル1世と並んで大帝と呼ばれる。だが、手紙の中では啓蒙を語り、国内では農奴を貴族に差し出した彼女の治世は、啓蒙専制君主という言葉の限界をよく表している。彼女自身、ディドロに向かって、あなたは紙の上で仕事をするが、私は人の肌の上で仕事をしなければならない、と語ったと伝えられている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1729年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →