人物

チトー

Josip Broz Tito
AD1892年5月7日 – AD1980年5月4日(享年87)
ユーゴスラヴィア重要度 5

概要

クロアチアの農民の子。第一次大戦でロシアの捕虜、革命。パルチザンでドイツと戦い、自分でユーゴを解放した。スターリンに「ノー」と言って生き延びた唯一の共産党指導者。非同盟。「兄弟愛と統一」。彼が死んで11年で国は割れた。

関わったできごと(1)

コミンフォルムAD1947年9月22日 · 除名された

本文

チトーの本名はヨシップ・ブロズという。1892年5月7日、オーストリア=ハンガリー帝国の一部だったクロアチアの北部、スロヴェニアとの境に近い村クムロヴェツに生まれた。父はクロアチア人、母はスロヴェニア人の農民で、15人の子の7番目だったが、その多くは幼くして亡くなった。家は貧しく、彼は小学校を終えると町に出て錠前職人の見習いになり、金属工として、ボヘミアやドイツ、オーストリアの工場を渡り歩いた。その間に社会民主党の労働組合に加わった。

1913年、彼はオーストリア=ハンガリーの軍に召集され、第一次世界大戦が始まると、1915年、カルパチアの前線でロシア軍と戦って重い傷を負い、捕虜になった。ロシアの捕虜収容所で彼はロシア語を覚え、1917年の革命の波に巻き込まれた。彼がどこまでボリシェヴィキの赤軍に加わったのかははっきりしないが、シベリアで数年を過ごし、ロシア人の妻を連れて、1920年に故郷へ戻った。故郷はすでに、新しく生まれたセルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国、のちのユーゴスラヴィア王国の一部になっていた。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

彼は、すぐに非合法化された共産党に加わり、工場で働きながら活動を続けた。1928年、武器と爆弾を隠し持っていた罪で逮捕され、5年の禁錮を言い渡された。法廷で彼は、自分を裁くこの法廷を認めないと言い放ったという。獄中で彼は、のちに側近となる党の理論家モシェ・ピヤデらと学んだ。1934年に出獄すると、地下の活動に入り、偽名を使い分けた。そのうちの一つが「チトー」だった。この名の由来には諸説あり、命令するときに「お前は、あれを(ティ・ト)」と言ったからだという俗説もあるが、本人は否定している。

1935年、彼はモスクワのコミンテルンに呼ばれた。スターリン(ヨシフ・スターリン)の大粛清の時代で、モスクワにいたユーゴスラヴィアの共産党の幹部の多くが逮捕され、処刑された。チトーは生き残り、1937年、ずたずたになった党の再建を任されて、その指導者になった。彼は党を国内に根づかせ、若い活動家を集めた。

軍服姿のヨシップ・ブロズ・チトーの肖像
軍服姿のヨシップ・ブロズ・チトーの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1941年4月、ドイツとイタリアなどの枢軸国がユーゴスラヴィアに攻め込み、王国はわずか11日ほどで崩れた。国はばらばらに分割され、クロアチアにはファシストの組織ウスタシャの政権が立てられて、セルビア人やユダヤ人、ロマの人々を大量に殺した。6月にドイツがソ連に攻め込むと、チトーの率いる共産党はパルチザンとして武装蜂起した。セルビアの王党派の将校ミハイロヴィチが率いるチェトニクも抵抗を始めたが、両者はやがて互いに戦うようになった。パルチザンは、民族を問わず「兄弟愛と統一」を掲げ、山岳地帯を転々としながら戦った。1943年には、ネレトヴァ川とスチェスカの谷で、ドイツ軍の大規模な包囲を辛うじて突破した。スチェスカの戦いではチトー自身も負傷した。

パルチザンの戦いぶりを知ったイギリスの首相チャーチル(チャーチル)は、1943年、支援の相手をチェトニクからパルチザンに切り替えた。パルチザンのほうが、より多くのドイツ兵と戦っていると判断したからである。1943年11月、ボスニアのヤイツェで開かれたパルチザンの評議会は、戦後の国を連邦制にすることを決め、チトーに元帥の称号を与えた。1944年5月、ドイツ軍は落下傘部隊でボスニアのドルヴァルにあったチトーの司令部の洞窟を急襲したが、彼は間一髪で逃れた。1944年10月、パルチザンはソ連の赤軍とともに首都ベオグラードを解放した。東ヨーロッパの共産主義の国々の中で、ソ連の軍の力に頼らず、ほぼ自らの力で国を解放したのは、ユーゴスラヴィアとアルバニアだけだった。戦争の終わりには、パルチザンは降伏した敵の兵士や協力者とみなした人々を、裁判なしに数多く殺した。ミハイロヴィチは1946年に捕らえられて処刑された。

1927年のチトー
1927年のチトーWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

戦後、チトーは首相として、のちに大統領として、6つの共和国からなる連邦の頂点に立った。だが彼は、スターリンの指図に黙って従う人ではなかった。独自の外交を進めようとする彼に、スターリンは怒り、1948年、ユーゴスラヴィアは共産党の国際組織コミンフォルム(コミンフォルム)から追放された。ソ連はユーゴスラヴィアを封鎖し、チトーを暗殺しようと何度も人を送ったとされる。チトーの死後、彼の机から、スターリンに宛てた、私を殺す者を送るのはやめろ、さもないと私が一人送る、二人目は要らない、という手紙の下書きが見つかったと伝えられるが、確かな話ではない。チトーは屈せず、国内では、ソ連寄りとみなした数千人の党員を、アドリア海の小島ゴリ・オトクの過酷な収容所に送った。

ソ連と袂を分かったユーゴスラヴィアは、独自の社会主義の道を歩んだ。工場は国が直接動かすのではなく、働く人々の評議会が経営に加わる自主管理の仕組みが取り入れられ、西側からの援助も受けた。国民は比較的自由に国外へ働きに出たり旅行したりできた。だが共産党の一党支配は変わらず、党の幹部が新しい特権階級になったと批判した側近のジラスは、獄につながれた。スターリンの死後の1955年、フルシチョフ(ニキータ・フルシチョフ)がベオグラードを訪れて、関係の修復を図った。

外交では、チトーは東西のどちらの陣営にも属さない道を選んだ。エジプトのナセル(ガマール・アブドゥル=ナセル)、インドのネルー(ジャワハルラール・ネルー)らと手を結び、1961年、ベオグラードで第1回の非同盟諸国の首脳会議を開いた。アジアとアフリカで独立したばかりの多くの国々が、これに加わった。1968年、ソ連がチェコスロヴァキアに軍を送ってプラハの春を押しつぶすと(プラハの春)、彼はこれを強く非難した。一方で国内では、1971年、クロアチアで民族の権利と自治の拡大を求めた「クロアチアの春」の運動を抑え込んだ。1974年の憲法で、彼は終身の大統領とされ、共和国と自治州に大きな権限を与える一方、自らが連邦をつなぎとめる要になった。

プラハの春に関わる図版:10 Soviet Invasion of Czechoslovakia - Flickr - The Central Intelligence Agency
プラハの春Wikimedia Commons The Central Intelligence Agency · Public domain

晩年のチトーは、アドリア海のブリユニの島の別荘で各国の要人や映画俳優をもてなし、青い特別列車で国内を巡った。1980年5月4日、脚の切断の手術のあと、スロヴェニアのリュブリャナの病院で87歳で亡くなった。葬儀には、東西の陣営と非同盟の国々から、多くの国王や大統領、首相が集まった。彼は、ベオグラードの「花の家」に葬られた。

チトーという要を失ったユーゴスラヴィアでは、経済の危機の中で、共和国どうしの対立と民族主義が噴き出した。彼の死から11年後の1991年、スロヴェニアとクロアチアが独立を宣言し(スロヴェニアとクロアチアの独立宣言)、国は血みどろの内戦に入った(ボスニア紛争)。チトーは、異なる民族が一つの国で共に暮らせることを示した人なのか、それとも力で押さえつけていただけなのか、評価はいまも分かれている。旧ユーゴスラヴィアの国々には、彼の時代を懐かしむ人々が少なくない。

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